詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

たかぎたかよし「甕」

2008-01-27 10:19:18 | 詩(雑誌・同人誌)
 たかぎたかよし「甕」(「乾河」51、2008年02月01日発行)
 文字がとても美しい。詩を読む--というより文字を読んでいる、そんな感じがする。文字のなかにある美しさが詩になっている。ことばが好き、とりわけ文字が好き--そういう気持ちがつたわってくる。
 
 どさっと大束の花首が投げ入れられる。

 この書き出しの「花首」。もし「花」と「首」がいっしょになっていることばがなかったらたかぎがこの詩を書いたかどうかわからない。「花」のはかなさ。「首」の危うさ。そして、そこに「投げ入れられる」ということばが結びつくとき、私はふいに「死」を思い浮かべる。身を水のなかに投げ入れる--入水自殺。そのまがまがしいイメージが「花」ということばで華麗に彩られる。ことばの魔術である。
 詩のイメージは、その後も次々とあらわれる。

 どさっと大束の花首が投げ入れられる。かっと瞠かれた幾多の目。
何を汲み上げてなのか、血色くっきりと縞を見せる一つに見覚えが
ある。

 「かっと瞠かれた幾多の目」。目を開いたままのまがまがしい死。それを強調する「血」ということば。この、あらあらしいことばをどうやって静めてゆくか。深い詩にしてゆくか。たかぎは、美しいことば、美しい文字を探し続ける。

 甕覗。淡い青が、もはや静まるしかないように、底に溜められて
いる。

 もし「甕覗」ということばがなかったら。もし「甕」という文字がなかったら。もし「覗」という文字がなかったなら。そして、それにつづく「淡」という文字がなかったら。あるいは「静まる」の「静」という文字が、それに先立つ「青」という文字をふくまなかったら。あるいは「静」のつくりが「争」という文字でなかったら。
 この詩は存在しないのである。
 「静」のなかにある「青」と「争」は、先に登場した「赤」とまじりながら、紫色になって甕の底にたまっている。覗くと、赤と青の争いのあとの紫のなかから、ただ淡い青が静かに静かに目にとどく。
 ことば、文字のなかにあるものが、矛盾しながら(対立しながら--争いながら)、生と死が交錯する。

 文字、文字、文字。その美しさ。それが、ついには、次のようなことばさえ引き寄せる。

 夏に向かって、水草を浮かせたことがあった。どこからか孑孑が
湧いた。とりどりの書字のように、全身をハネ、ハライとしている
それら。

 「文字」ではなく、たかぎは「書字」と書く。その文字の美しさ。孑孑にさえ、高木は「書字」の「ハネ」「ハライ」を見ている。たかぎには、すべてが「文字」(ことば)に見えるのである。
 ここにあることばはすべて、「意味」ではなく「文字」ゆえに選ばれているのである。そしてその文字の美しさがことばを互いに選びあい、そこに共通する「詩」を浮かび上がらせる。

 夜が爛けると、甕の膚の液状の漆黒へ、私は墨のように溶け入る。

 「漆黒」と「墨」の文字の通い合い。そして、その前後に登場するサンズイの文字。それが引き起こす重力のような魅力。
 最後の行。

 甕はある日割れて砕けるに違いない。裂けた天穹に、花が、撒かれ
て。

 もし「穹」という文字がなかったら、たかぎは、この詩をどうやって終えたのだろうか。あるいは「て」という文字がなかったち、この詩は「余韻」をどこにつるしておくことができただろうか。


コメント
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