岡井隆「側室の乳房について」(「現代詩手帖」2008年01月号)
岡井のことばの特徴は不思議なうねりにある。
米川の短歌がラフカディオ・ハーンの歌に由来するというので、「奇談」を読んで見たという「意味」が書かれているのだが、岡井のことばは「意味」からつかず離れず揺れる。散文形式で書かれているけれど、そしてまぎれもない散文なのだけれど、日常の散文とは違った形で揺れる。「八雲立つ出雲八重垣、因果をたどつて」というようなことばの動きは散文を逸脱している。文語の世界、文語のリズムへと逸脱している。逸脱しているが、不思議なことに、常に散文へ戻ってくる。これは岡井がわざと逸脱しているからである。散文の文体ではことばが面白くないのである。逸脱し、戻り、さらに逸脱する。そういう繰り返しのなかでこそ動くのが岡井のことばだからである。あるいは岡井は逸脱しながらもつねに逸脱を意識しながら元へ戻るということができるのである。その背後には強靭な意志の力、頭脳の力というものがあるのだ。(短歌はわずか31文字のなかに無意味と思えるような逸脱、うねりをかかえ、リズムを優先することで、「意味」を揺さぶり、「意味」を超越するものがあるが、そうしたことが可能なのは、感性と同時に、強靭な頭脳があってのことなのだろう、と思う。)
岡井のことばは、この後、「奇談」の世界と、岡井自身の日常を往復する。「奇談」を読み進むが、途中でJRから降り、理髪店へ行き、ホテルで宴があり、再びJRに乗り帰宅する…という具合に「物語」とは別の次元が次々に絡んでくる。
「奇談」の世界を描きたいのか、それとも岡井の、たとえば横浜から東京までの距離さえグリーン車で移動するという豪華な(?)生活を描きたいのか、どっちなんだ、といいたいくらいであるが(こうやって感想を書いていると、そんな気持ちがふっと浮かぶのだが)、絶妙に絡み合うので、読んでいる最中はそういう疑問がまったく起きない。
現実へ逸脱し、それが「奇談」へ返ってくるたびに、あ、あの逸脱は「奇談」の世界へ強烈に引き込むための、わざとの逸脱なのだ、ということがわかる。より強く引き込むために、より遠くへ読者を突き放すのである。
かけ離れたものが出会うことで、その二つの世界が激しく衝突し、その瞬間に「詩」の火花が散る。
そしてこれは岡井の世界であると同時に、冒頭の米川の短歌の世界そのものでもある。ラフカディオ・ハーンの「奇談」を題材にしながら米川は米川の日常を描き、その二つが出会い衝突するところに詩を出現させている。そしてその衝突の現場が「われは白米を磨ぐ」の「われ」である。「われ」(私)という人間、肉体において詩が屹立する。
あ、岡井のこの詩は、米川の短歌に触発されて「奇談」を読んだという詩ではなく、米川の短歌の世界はこんなふうに成り立っていますよ、という批評であり、紹介だったのだ、とこのとき気がつく。
自在なことばの動き、無神経(?)、無頓着(?)にみえて、神経がきめこまかく張り巡らされていることばの運動だ。何度繰り返し読んでも飽きない。
岡井のことばの特徴は不思議なうねりにある。
「側室の乳房つかむまま切られたる妻の手あり われは白米を磨ぐ」は米川千嘉子の創つた短歌であるが「松枝十首」の中にあり「金色の草ラフカディオ・ハーン」の「奇談・因果ばなし」に由来するとあれば八雲立つ出雲八重垣、因果をたどつて「奇談」を読んだ。
米川の短歌がラフカディオ・ハーンの歌に由来するというので、「奇談」を読んで見たという「意味」が書かれているのだが、岡井のことばは「意味」からつかず離れず揺れる。散文形式で書かれているけれど、そしてまぎれもない散文なのだけれど、日常の散文とは違った形で揺れる。「八雲立つ出雲八重垣、因果をたどつて」というようなことばの動きは散文を逸脱している。文語の世界、文語のリズムへと逸脱している。逸脱しているが、不思議なことに、常に散文へ戻ってくる。これは岡井がわざと逸脱しているからである。散文の文体ではことばが面白くないのである。逸脱し、戻り、さらに逸脱する。そういう繰り返しのなかでこそ動くのが岡井のことばだからである。あるいは岡井は逸脱しながらもつねに逸脱を意識しながら元へ戻るということができるのである。その背後には強靭な意志の力、頭脳の力というものがあるのだ。(短歌はわずか31文字のなかに無意味と思えるような逸脱、うねりをかかえ、リズムを優先することで、「意味」を揺さぶり、「意味」を超越するものがあるが、そうしたことが可能なのは、感性と同時に、強靭な頭脳があってのことなのだろう、と思う。)
岡井のことばは、この後、「奇談」の世界と、岡井自身の日常を往復する。「奇談」を読み進むが、途中でJRから降り、理髪店へ行き、ホテルで宴があり、再びJRに乗り帰宅する…という具合に「物語」とは別の次元が次々に絡んでくる。
「奇談」の世界を描きたいのか、それとも岡井の、たとえば横浜から東京までの距離さえグリーン車で移動するという豪華な(?)生活を描きたいのか、どっちなんだ、といいたいくらいであるが(こうやって感想を書いていると、そんな気持ちがふっと浮かぶのだが)、絶妙に絡み合うので、読んでいる最中はそういう疑問がまったく起きない。
現実へ逸脱し、それが「奇談」へ返ってくるたびに、あ、あの逸脱は「奇談」の世界へ強烈に引き込むための、わざとの逸脱なのだ、ということがわかる。より強く引き込むために、より遠くへ読者を突き放すのである。
かけ離れたものが出会うことで、その二つの世界が激しく衝突し、その瞬間に「詩」の火花が散る。
そしてこれは岡井の世界であると同時に、冒頭の米川の短歌の世界そのものでもある。ラフカディオ・ハーンの「奇談」を題材にしながら米川は米川の日常を描き、その二つが出会い衝突するところに詩を出現させている。そしてその衝突の現場が「われは白米を磨ぐ」の「われ」である。「われ」(私)という人間、肉体において詩が屹立する。
あ、岡井のこの詩は、米川の短歌に触発されて「奇談」を読んだという詩ではなく、米川の短歌の世界はこんなふうに成り立っていますよ、という批評であり、紹介だったのだ、とこのとき気がつく。
自在なことばの動き、無神経(?)、無頓着(?)にみえて、神経がきめこまかく張り巡らされていることばの運動だ。何度繰り返し読んでも飽きない。