詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

斎藤健一「二月」、みえのふみあき「空き巣にて」

2008-01-28 09:14:55 | 詩(雑誌・同人誌)
 斎藤健一「二月」、みえのふみあき「空き巣にて」(「乾河」51、2008年02月01日発行)
 「乾河」の同人たちはみなことばに対して禁欲的である。そして、その禁欲的なところに詩をひそませる。
 斎藤健一の「二月」。全行。

雪の中を歩いてゆく。その暗いひびきがぼくを生むのだ。
みあげる空はいつも寒い。歯ブラシを咥え、ひかる窓硝
子をあける。包帯の厚く巻かれた左膝。コップの水。夜
明け。蛇口をねじる。しかし、ぼくのみが立っている。

 最後の「のみ」にひきつけられる。ばらばらに存在したものが、「のみ」という一点に集中してゆく。そして、一点に集中したあと、そこからぱーっと世界へひろがってゆく。この詩はこれ以上長いと、この求心と遠心の感じが出ないであろう。
 1行目の「その」、2行目の「いつも」という粘着力のあることばも、それにつづく短い文章をつなぎとめるのに効果的だと思う。3行目の「厚く」も簡潔で気持ちがいいし、「左膝」の「ひ」の繰り返し、濁音の繰り返しも美しい。
 「窓硝子」と「蛇口をねじる」の「ねじる」に私はつまずいた。「硝子窓」「ひねる」と私はついつい読んでしまうが、私のリズムとは違うリズムを斎藤は生きている、ということだろう。
 「台所」の全行。

あくびを噛み殺し、朝刊をひろげる。電燈の淡い橙色が
かえって影をつくる。ぼくは左半身を労りながら椅子に
坐る。皿におかれたパンをかじる。唾液は歯茎と舌をぬ
らす。両腕を突きしかも全身がぐらぐらしている。テー
ブルの端による。街のむこう。火災が起こる。消防車が
何台となく走るのだ。海は荒れている。

 2行目の「かえって」の自己主張が「淡い」と「影」の対比のなかで美しい。「かえって」によってことばの運動がすっきりする。「二月」の「のみ」にも感じたが、こういうことばの細部が斎藤の詩をつくっているのだと思う。「電燈」「橙」という文字へのこだわり、繰り返される漢字のツクリがひきよせる印象へのめくばりも斎藤にとっては詩なのだと思う。
 最終行の「走るのだ。」の「のだ」もとても好きだ。「のだ」という強いことばが、「海は荒れている」という飛躍を生む。そして、その飛躍の中に詩を呼び込む。その直前の「街のむこう。火災が起こる。」の「むこう」のあとの句点「。」の美しさとひびきあって、とても魅力的だ。
 この詩でも、私は「火災が起こる」の「起こる」につまずいた。私は「起きる」と読んでしまう。
 しかし、この少しずつ感じる違和感が、なぜか、斎藤の詩を読むときは、もしかするととても効果的かもしれないと思う。ふしぎなつまずきが、詩をゆっくりと読ませる工夫になっているかもしれないと思う。
 意図的なのか、斎藤の地声なのか、ちょっと判断できないが。



 みえのふみあきの「空き巣にて」は「赤」の変化が美しい。詩のなかで「赤」が少しずつ色を変える。それが、とても自然で、とてもおもしろい。

高い梢に雛が去ったあとの空き巣が残っている
小枝で編まれた巣の粗い空無を
夕日が一瞬だが茜色に染める
分岐する枝の混迷
ぼくの内臓に凝集する血管腫
どこかでとれたぼくの袖のボタン
いつか遠い野茨の茂みにボタンが
そのぼくの失われた秘事を赤く繋留するだろう
その時だ
雛鳥が空き巣に帰ってくるのは
枝に時に赤い実が復活するのは

 袖の赤いボタン。なくしたボタン。それがある日、鳥の巣をつくる枝にまぎれている。落としたボタンが枝にからみつき、その枝をつかって鳥が巣をつくる。それを発見する。--それは現実にあったことか、それともみえのの夢か。
 たぶん夢である。
 夢であるからこそ、それが壊れないように禁欲的にことばを積み重ねてゆく。「高い(梢)」「粗い(空無)」「一瞬」。そういうことばにこめられた、視線を限定し、現実の奥へ奥へと引き込むようなことば積み重ねながら、「分岐する枝の混迷」という抽象へ入り込む。描写は「事実」(実在)を出発点として抽象へ進む。そして、反転する。

ぼくの内臓に凝集する血管腫

 空の茜色、宇宙の赤い色が、「血管腫」ということばとともに変色する。
 「事実」から「抽象」へ、そして「抽象」から「肉体」へ。
 それにあわせて、記憶も「肉体」になるのだ。「袖のボタン」はほんとうは「肉体」ではないが、まるで「肉体」の一部として、みえのの詩のなかで動き回る。
 「血管腫」の「赤」はほんうとに赤かどうかはわからない。見えない。だからこそ、「赤」を求めて、ことばは動くのだ。「記憶」を「内臓」でもあるかのようにさまようのだ。へめぐるのだ。

ぼくの失われた秘事を赤く繋留する

 ここの行の「赤」がいちばんおもしろい。「繋留する」と修飾するのに「赤く」ということばは、文法的に不適切である。ふつうは「強く」とか「しっかりと」繋留するの。しかし、みえのは「赤く」と書く。
 これは不在の「赤」を呼び出すための、わざと書かれた「赤」である。そして、ここに詩が存在する。赤への希求という、みえのの思想がある。
 不在の「赤」を、ことばとしてむりやり出現させることで、「赤い実」が、文字通り「復活」する。
 みえのの書いている世界は「情景」としても魅力的だが、その「情景」を浮かび上がらせるための、ことばの運動そのものの方が、それよりはるかにおもしろい。「茜色」「血」「赤く(繋留する」「赤い(実)」につらなることばの運動が、みえのにとっての、ほんとうの詩であると思う。

コメント
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