詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井川博年「語らい」

2008-01-12 11:02:06 | 詩集
現代詩手帖 2008年 01月号 [雑誌]

思潮社

このアイテムの詳細を見る

 井川博年「語らい」(「現代詩手帖」2008年01月号)
 井川博年「語らい」はとても不気味な詩である。「現代詩手帖」 1月号には何篇も作品がのっているが井川の詩がいちばん不気味である。日常と非日常のつなぎめ、ずれと、それを見つめる視線が不気味である。そんなところだけに感情をつめこもうとするこころのありようが武器見てある。

きょうだいや
ともだちと
旅の宿で枕を並べて
夜を語りあかすのは
なんと楽しいことだろう

電気を消した部屋の中で
遠い日の父母の思い出や
近所のひとたちの知らなかった話
みんなが共通に知っている
ひとたちの変わったエピソードを
ほそぼそと寝床の中で交わすのは--

温かい布団の中から
亀のように首だけだして
お湯で温まった手足を詩を伸ばし
可笑しい所になると布団に潜りこみ
足をばたばたさせて
笑いころげるのだ

--楽しいことは
いつまで続くのか
いつしか夜も更けてくると
いつの間にか隣のりの話し声も止み
声をかけてもすーすーという
寝息が聞こえるばかり

さみしくなり
ひとり暗い窓の外の
風の音を聞いていると
人の世の短さをつくづくと
思い知らされるのだ。

 「なんと楽しいことだろう」と書きながら、その「楽しさ」がすでに寂しさを含んでいる。「旅の宿」。その「旅」も「宿」も日常ではないからである。日常から少しずれた場所である。
 そこで「遠い日」の思い出、あるいはすでに「知っている」こと、「知らなかった」ことを語る。語られる世界は「今」ではなく、「今」ここにはない時間である。その変えることのできないものに触れながら「笑いころげる」。
 そして、「笑いころげ」ることで「今」を楽しんだと思うまもなく、「--楽しいことは/いつまで続くのか」と、「楽しいこと」から遠ざかる。
 「なんて楽しいことだろう」と書いたのが嘘のようである。「なんと楽しいことだろう」は「なんと寂しいことだろう」と同義なのである。
 ここには「すきま」がある。「ずれ」がある。「すきま」「ずれ」は、そして必然的に生まれたものというより、井川が彼自身の思いで作り出した「ずれ」「すきま」である。そして、井川にとっては詩とは、そういう「すきま」「ずれ」を作り出し、そのなかにどっぷりと沈み込むことでもある。

 この作品には書かれていないことばがある。

--楽しいことは
いつまで続くのか

 「--」。わざわざことばを隠し、隠していることをみせるこの「--」。そこにはことばが隠されている。
 「しかし」である。
 「しかし」は逆説の接続詞である。「しかし」がこの詩にはいくつか隠されている。どうしてもその存在を明確にしなければならないときだけ「--」という形で、隠した形でつかわれているのだが、ほんとうに隠された部分を読み取っていくと……。
 きょうだい、ともだちと旅の宿で語り明かす。「しかし」語るのは「旅」の話ではなく(きょうの思い出ではなく)、もう知っていること(ひとりが知らなくても他の人は知っていること)である。その話をしながら笑い転げる。「しかし」楽しいことはいつまでも続かない。
 そのあとが絶妙である。「そして」楽しい語らいがおわると「さみしく」なってしまう。「そして」風の音を聞いていると人の世の短さを思い知らされる。
 この最後の「そして」はほんとうに「そして」なのか。「しかし」でも可能である。区別がつかない。入り交じっている。人の世の短さを知らされると書きながら、それを書くこと、書けることの楽しさ(喜び)がここにはひっそりと隠されている。

さみしくなり
ひとり暗い窓の外の
風の音を聞いていると
(しかし)
人の世の短さをつくづくと
思い知らされるのだ。
(と書くことができる
書く喜びを味わうことができる)

 私は、どうしても、そう読んでしまうのである。そして、私が最後に補ってみた2行を完全にふっきるように(つまり、そういうことを想像させないように)、詩の最後にだけ記された句点「。」に、どこまでもどこまでも抒情に淫していこうとする意思のようなものも感じ、それも非常に不気味なのである。
 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする