岩佐なを「ポン太(芸者さんではなく)」(「歴程」557 、2009年02月28日発行)
「歴程」577 では何人もの人が「中也」について書いている。岩佐なをも書いている。その「書き方」がちょっと変わっている。「ポン太(芸者さんではなく)」の前半。
2行目の「(これは全くひゆではなくて)」の「て」が、まず、おもしろい。「て」がないと、1行目はただ自分に言い聞かせているという感じがする。ところが「て」があると、とたんに目の前に「聴き手」があらわれてくる。「聴き手」ににたいして念押しをしている感じがくっきりと浮かび上がってくる。
それが「おもしろさ」の要因だ。
「聴き手」と「読み手」というものは実は違った存在である。
文学というか、書きことばは「読み手」、「読者」を求めているが、そのときのことばは、1行ずつ「読者」を想定はしていない。ずーっととおして読んでくれるひとを想定していることが多い。全部読み通したときに、筆者の書きたいことが伝わればそれでいい、ということを前提としているものが多い。
「聴き手」というのは、「読み手」と違って、いやになったらいつでも「聴き手」であることをやめる。「読み手」ももちろんやめることはできるが、「読み手」がいようがいまいが「書きことば」は最後まで完結することができる。ところが「聴き手」がいないとき、「話しことば」は「完結」できない。語り手は最後まで語ることはできるが、それが語ったという「証拠」はどこにもない。「書きことば」は文字として残るが、「話しことば」は空気のなかに消えて行ってしまう。(「話したとば」は録音して残せるから、「完結」できるという見方もあるかもしれないけれど、「話しことば」は録音を前提としていないから、それは「話しことば」であっても、別のものである。あえていえば「録音記録ことば」であって、「話す」「書く」とは別のものである。「印刷ことば」に対して「録音ことば」というようなものである。)
「聴き手」を前提とした「話しことば」は、「聴き手」をひきつけ、そこにとどめておくためにいろいろ努力をしなくてはならない。2行目の「なくて」の「て」、目の前にいる「聴き手」に対して、しっかりと念押しをしているときの、その口調なのである。
話しことばは、書きことばとちがって、あれ、いま、なんて言ったのかなと思っても確かめる方法がない。「もういっぺん言って」と聞き直すことはできるはできるけれど、語り手が質問を遮るように次のことばを言ってしまえば、その瞬間は、やはり聞きそびれたことばは聞きそびれたままである。
語る方は語る方で、そういう「あいまい」な感じを利用して、ことばを動かすことができる。
この4行には、話しことばの不思議さ(たのしさ)が凝縮している。「ボタンもあたためていた/ボタンもタヌキのしあわせも」というのは、論理的なことばの動きではない。「ボタンも」と冒頭に2回繰り返されるが、なぜ2回? 「あたためていた」は何を修飾することば? タヌキが掌に握って「あたためていたボタンも」「タヌキのしあわせも」なら、最初のボタンはいらない。また、改行の仕方も奇妙だと指摘できる。「あたためていたボタンも」「ボタンをあたためることができた--手に握ることができたタヌキのしあわせも」であるとしても、改行が奇妙である。
ところが、この改行、「話しことば」では、改行という形にはならない。息継ぎや、アクセントの変化になってあらわれる。大事なことを言う場合、その音を高くすることで(あるいは逆にひくくするということもあるが)、聴き手の意識をそのことばに集中させる。そのために、息継ぎも「修飾語+名詞」をわざと分離させることもある。「音」として「分離」してしまった方が、そのことばそのものが強く意識に残るからである。
話しことばは、文法をある程度無視できるのだ。書きことばは文法を無視すると何が書いてあるかわからないが、話しことばは文法が乱れても「音」そのもものの強弱、強調の仕方しだいで何が言いたいかわかるのである。
岩佐はそういう「話しことば」の特徴をとても巧みに取り入れている。肉体化している。
この4行では、実際に、何を言いたいのか、はっきり判断できないけれど、繰り返し読んでみたい、その音そのものをまるごと楽しみたいという気持ちにさせられる。「意味」を語るのではなく、「音」を語る。その「音」の重なりのなかにある、ことばにならないつながりを、「音」そのものとして声に出して遊ぶ。
タヌキとボタンとポタンの関係のようなもの--そういうことばであいまいに語る「重複」のなかにあるもの、そういうものが岩佐にとっての「中也」である、と岩佐は言う。さらに、そして、そのタヌキの名前は「ポン太」であると。
「音」そのものが遊びながら、「音」そのものをつたえる。音楽である。リズムそのものをつたえる。音楽である。
後半にもそういう部分がある。
「残した/かった」「知らな/かった」という改行、息継ぎと同時に、音そのものをかえる語り。その文法を破るときの不思議な快感。日常のことばの法則をはなれて、のびのびと楽しむ音楽。
--そういうものを岩佐は中也から吸収したと、告白しているのだと思った。とてもいい「中也論」だと思って読んだ。語り方、ことばの動かしかたか「中也論」になっているのだと感動して読んだ。
*
困ったことに--困らなくてもいいのかもしれないけれど、困ったことに、この岩佐の作品、「気持ち悪くない」。最近の岩佐の詩は、ことばの調子がとても自然で、「肉体」を感じさせる。だから「気持ち悪くない」。以前は、「肉体」は「肉体」でも少し違っていた。とても気持ち悪かった。どうしても好きになれないものがあった。この詩には、どうしても好きなにれないものがない。
岩佐の作品は、絶品の領域に入り込んだのかな?
それは、いいこと? 悪いこと?
それもわからない。
「歴程」577 では何人もの人が「中也」について書いている。岩佐なをも書いている。その「書き方」がちょっと変わっている。「ポン太(芸者さんではなく)」の前半。
町にもタヌキがいるようで
(これは全くひゆではなくて)
町のタヌキは夜にごはんをさがしてる
子ダヌキもいるのかな
その町のタヌキが一度は手にした
ボタンこそ中也が
月に向っても浪に向っても
抛れなかった一粒
そのくせ町で落としてしまった一ヶ
「拾うんじゃないよ」と
タヌキは誰かに言われたそうな
握った掌をやわらかく開けば
ボタンもあたためていた
ボタンもタヌキのしあわせも
ポタンと路に落ちてしまって
次にヒトの靴の爪先がそれを
蹴りコロコロリころがり
子ダヌキは拾いに行かなかったのかな
2行目の「(これは全くひゆではなくて)」の「て」が、まず、おもしろい。「て」がないと、1行目はただ自分に言い聞かせているという感じがする。ところが「て」があると、とたんに目の前に「聴き手」があらわれてくる。「聴き手」ににたいして念押しをしている感じがくっきりと浮かび上がってくる。
それが「おもしろさ」の要因だ。
「聴き手」と「読み手」というものは実は違った存在である。
文学というか、書きことばは「読み手」、「読者」を求めているが、そのときのことばは、1行ずつ「読者」を想定はしていない。ずーっととおして読んでくれるひとを想定していることが多い。全部読み通したときに、筆者の書きたいことが伝わればそれでいい、ということを前提としているものが多い。
「聴き手」というのは、「読み手」と違って、いやになったらいつでも「聴き手」であることをやめる。「読み手」ももちろんやめることはできるが、「読み手」がいようがいまいが「書きことば」は最後まで完結することができる。ところが「聴き手」がいないとき、「話しことば」は「完結」できない。語り手は最後まで語ることはできるが、それが語ったという「証拠」はどこにもない。「書きことば」は文字として残るが、「話しことば」は空気のなかに消えて行ってしまう。(「話したとば」は録音して残せるから、「完結」できるという見方もあるかもしれないけれど、「話しことば」は録音を前提としていないから、それは「話しことば」であっても、別のものである。あえていえば「録音記録ことば」であって、「話す」「書く」とは別のものである。「印刷ことば」に対して「録音ことば」というようなものである。)
「聴き手」を前提とした「話しことば」は、「聴き手」をひきつけ、そこにとどめておくためにいろいろ努力をしなくてはならない。2行目の「なくて」の「て」、目の前にいる「聴き手」に対して、しっかりと念押しをしているときの、その口調なのである。
話しことばは、書きことばとちがって、あれ、いま、なんて言ったのかなと思っても確かめる方法がない。「もういっぺん言って」と聞き直すことはできるはできるけれど、語り手が質問を遮るように次のことばを言ってしまえば、その瞬間は、やはり聞きそびれたことばは聞きそびれたままである。
語る方は語る方で、そういう「あいまい」な感じを利用して、ことばを動かすことができる。
握った掌をやわらかく開けば
ボタンもあたためていた
ボタンもタヌキのしあわせも
ポタンと路に落ちてしまって
この4行には、話しことばの不思議さ(たのしさ)が凝縮している。「ボタンもあたためていた/ボタンもタヌキのしあわせも」というのは、論理的なことばの動きではない。「ボタンも」と冒頭に2回繰り返されるが、なぜ2回? 「あたためていた」は何を修飾することば? タヌキが掌に握って「あたためていたボタンも」「タヌキのしあわせも」なら、最初のボタンはいらない。また、改行の仕方も奇妙だと指摘できる。「あたためていたボタンも」「ボタンをあたためることができた--手に握ることができたタヌキのしあわせも」であるとしても、改行が奇妙である。
ところが、この改行、「話しことば」では、改行という形にはならない。息継ぎや、アクセントの変化になってあらわれる。大事なことを言う場合、その音を高くすることで(あるいは逆にひくくするということもあるが)、聴き手の意識をそのことばに集中させる。そのために、息継ぎも「修飾語+名詞」をわざと分離させることもある。「音」として「分離」してしまった方が、そのことばそのものが強く意識に残るからである。
話しことばは、文法をある程度無視できるのだ。書きことばは文法を無視すると何が書いてあるかわからないが、話しことばは文法が乱れても「音」そのもものの強弱、強調の仕方しだいで何が言いたいかわかるのである。
岩佐はそういう「話しことば」の特徴をとても巧みに取り入れている。肉体化している。
この4行では、実際に、何を言いたいのか、はっきり判断できないけれど、繰り返し読んでみたい、その音そのものをまるごと楽しみたいという気持ちにさせられる。「意味」を語るのではなく、「音」を語る。その「音」の重なりのなかにある、ことばにならないつながりを、「音」そのものとして声に出して遊ぶ。
タヌキとボタンとポタンの関係のようなもの--そういうことばであいまいに語る「重複」のなかにあるもの、そういうものが岩佐にとっての「中也」である、と岩佐は言う。さらに、そして、そのタヌキの名前は「ポン太」であると。
「音」そのものが遊びながら、「音」そのものをつたえる。音楽である。リズムそのものをつたえる。音楽である。
後半にもそういう部分がある。
ポンポコポンポコ
箱の中からポン太さん
とても「自分たち史」を残した
かったポン太さんは
もちろん文字を知らな
かった声はシトには伝わらなかった
「残した/かった」「知らな/かった」という改行、息継ぎと同時に、音そのものをかえる語り。その文法を破るときの不思議な快感。日常のことばの法則をはなれて、のびのびと楽しむ音楽。
--そういうものを岩佐は中也から吸収したと、告白しているのだと思った。とてもいい「中也論」だと思って読んだ。語り方、ことばの動かしかたか「中也論」になっているのだと感動して読んだ。
*
困ったことに--困らなくてもいいのかもしれないけれど、困ったことに、この岩佐の作品、「気持ち悪くない」。最近の岩佐の詩は、ことばの調子がとても自然で、「肉体」を感じさせる。だから「気持ち悪くない」。以前は、「肉体」は「肉体」でも少し違っていた。とても気持ち悪かった。どうしても好きになれないものがあった。この詩には、どうしても好きなにれないものがない。
岩佐の作品は、絶品の領域に入り込んだのかな?
それは、いいこと? 悪いこと?
それもわからない。
岩佐なを詩集 (現代詩文庫)岩佐 なを思潮社このアイテムの詳細を見る |