本多寿『草霊』(本多企画、2008年12月20日発行)
たいへん美しいことばが並んでいる。たいへん美しい詩集である。そのことばの美しさは「距離」の正しさという美しさである。対象と本多との距離がいつも一定なのである。たとえば、「草霊日誌-七月」の第 1連。
「倉庫」「新聞受け」。そのふたつがつくりだす、家そのものから少しずれ、少しくっついている微妙な距離が浮かぶ。この距離は、本多が世界と向き合うときの距離の取り方である。玄関のドアの新聞受けだと、この距離は違ってくる。マンションのビルの集合郵便受けでは、まったく違ってくる。ここには、一種の、見捨てられたものという「距離」がある。
この距離を守ったまま、新聞、「朝刊」が登場する。このとき、「朝刊」は、敗北のようなものを背負っていなければならない。その敗北というか、役を少し疎外された感じを、本多は「濡れた」状態で定義する。インクのにおいのするような、真新しい新聞ではだめなのだ。でも、これは作為的すぎないか?
この、役立たずの、ぬれた状態を強調するために、「犬の舌のような濡れた」という比喩が生まれる。ここは絶対に犬でなくてはならない。猫ではだめ。蛇でもだめ。そして、その犬は、家のなかでかわれている犬ではなく、家の外でかわれている犬である。だが、そうやって、距離を正確にしようとすると、それはそれで美しいのだが、とても窮屈になる。作為が目立ちすぎると思う。
距離は必死になって、距離だけを維持しようとする。もう、飛躍はできない。ことばがぼうそうするなんてことは、こういう距離を厳密に守る方法をとっているかぎり、絶対に起きない。
ことばは、どこまでも、弱い。半分、弱い。「悲鳴」。しかも「液化した世界の」「悲鳴」。「ぽとりぽとり」という半分弱い感じ。絶対的な弱さではなく、少し弱い感じ。--ここには、極端は登場しないのである。次に出てくるの生き物も「黒蟻」という小さなものだ。それには「おびただしい」という修飾語がついているが、「おびただしい」くらいでは、距離はかわらない。それに、「おびただしい」がでてきて、ちょっと距離が乱れたかな、と思うと、ぱっとその断章は終わってしまう。破綻を見せずに、きれいなまま、ことばをとじる。
これはこれでいいのだろうけれど、でも、こんな「くらし」って、どこにあるのだろうか。こんなふうに美しく形をととのえて、つづけられる「くらし」は、いったいどこにあるのだろうか。ここに描かれているような風景は「限界集落」にしかないように思えるし、「限界集落」は「限界集落」でこんな美しさよりも、もっと厳しい何かがあるはずで、それを書かないのはなぜ、と思ってしまう。
本多が書いているような美しい世界は、ことばのななかだけにしかないのではないのか。
本多がていねいに距離を守れば守るほど、私には、その「現実」の世界が見えなくなる。ことばとしてなら理解できるけれど、「肉体」に触れて来ない。そして、「肉体」にふれてこないと、だんだん、ことばそのものも、どこか遠くへ行ってしまう。すくなくとも「現代詩」を読んでいるという気持ちが消えてしまう。
ほんとうに、そんなふうにして本多は祈りはじめるのだろうか。なんだかよくわからない予兆のために祈るのだろうか。そんなふうに祈る姿は静かで美しいけれど、美しすぎて、いっしょに祈りたいという気持ちになれない。祈りに誘われない。
「光を鋤こむ」。うーん、美しいことばだ。でも、労働のにおいがしない。汗の匂いがしない。美しすぎる。鍬をつかって大地を耕すようには感じられない。すくなくとも、毎日鍬をつかっている感じがしない。あまりに美しすぎて、大地と本多の距離までも、まるで最初に引用した「倉庫」「新聞受け」のような、ちょっと離れた感じの距離に見えてしまう。
でも、それも、まあ、いいことにする。
けれど、たぶん、そんなふうに距離を正確にとることに力をそそぎすぎるためなのだと思うけれど、ことばがちっともことばを超えていかない。ことばが、書いている内に暴走していく、そしてとんでもないところへいくという魅力に乏しい。
詩は(現代詩だけではないと思うが)、ことばがどこかへ暴走して行ってしまう。もう、ことばではなくなってしまうようなところがないと、読んだ気持ちになれない。
本多は*マークでいくつもの断章をつないで一篇の詩にしていることが多いが、その方法も、距離を正確さが乱れてくると、それを破綻させないためにいったん終わる--その結果としての断章のように思える。破綻して、もう何がなんだかわからなくなってもいいと思うのだが、そんなふうにならないのは、とても残念だ。
どんなに破綻し、乱れても、「肉体」は一個、かならず存在するのに、と思ってしまう。
たいへん美しいことばが並んでいる。たいへん美しい詩集である。そのことばの美しさは「距離」の正しさという美しさである。対象と本多との距離がいつも一定なのである。たとえば、「草霊日誌-七月」の第 1連。
倉庫の壁で
新聞受けが傾いている
犬の舌のような濡れた朝刊から
液化した世界の悲鳴が
ぽとりぽとり滴って
地に穴を穿っている
雨が上がると その穴から
おびただしい黒蟻が湧いてくる
「倉庫」「新聞受け」。そのふたつがつくりだす、家そのものから少しずれ、少しくっついている微妙な距離が浮かぶ。この距離は、本多が世界と向き合うときの距離の取り方である。玄関のドアの新聞受けだと、この距離は違ってくる。マンションのビルの集合郵便受けでは、まったく違ってくる。ここには、一種の、見捨てられたものという「距離」がある。
この距離を守ったまま、新聞、「朝刊」が登場する。このとき、「朝刊」は、敗北のようなものを背負っていなければならない。その敗北というか、役を少し疎外された感じを、本多は「濡れた」状態で定義する。インクのにおいのするような、真新しい新聞ではだめなのだ。でも、これは作為的すぎないか?
この、役立たずの、ぬれた状態を強調するために、「犬の舌のような濡れた」という比喩が生まれる。ここは絶対に犬でなくてはならない。猫ではだめ。蛇でもだめ。そして、その犬は、家のなかでかわれている犬ではなく、家の外でかわれている犬である。だが、そうやって、距離を正確にしようとすると、それはそれで美しいのだが、とても窮屈になる。作為が目立ちすぎると思う。
距離は必死になって、距離だけを維持しようとする。もう、飛躍はできない。ことばがぼうそうするなんてことは、こういう距離を厳密に守る方法をとっているかぎり、絶対に起きない。
ことばは、どこまでも、弱い。半分、弱い。「悲鳴」。しかも「液化した世界の」「悲鳴」。「ぽとりぽとり」という半分弱い感じ。絶対的な弱さではなく、少し弱い感じ。--ここには、極端は登場しないのである。次に出てくるの生き物も「黒蟻」という小さなものだ。それには「おびただしい」という修飾語がついているが、「おびただしい」くらいでは、距離はかわらない。それに、「おびただしい」がでてきて、ちょっと距離が乱れたかな、と思うと、ぱっとその断章は終わってしまう。破綻を見せずに、きれいなまま、ことばをとじる。
これはこれでいいのだろうけれど、でも、こんな「くらし」って、どこにあるのだろうか。こんなふうに美しく形をととのえて、つづけられる「くらし」は、いったいどこにあるのだろうか。ここに描かれているような風景は「限界集落」にしかないように思えるし、「限界集落」は「限界集落」でこんな美しさよりも、もっと厳しい何かがあるはずで、それを書かないのはなぜ、と思ってしまう。
本多が書いているような美しい世界は、ことばのななかだけにしかないのではないのか。
本多がていねいに距離を守れば守るほど、私には、その「現実」の世界が見えなくなる。ことばとしてなら理解できるけれど、「肉体」に触れて来ない。そして、「肉体」にふれてこないと、だんだん、ことばそのものも、どこか遠くへ行ってしまう。すくなくとも「現代詩」を読んでいるという気持ちが消えてしまう。
犬がしきりに吠えている
朝から小雨が振っている
わたしの胸には このところ
石のような寂しさがある
これは いったい何の予兆であろう
気がつくと いつのまにか
十本の指をくみあわせている (「草霊日誌-四月」)
ほんとうに、そんなふうにして本多は祈りはじめるのだろうか。なんだかよくわからない予兆のために祈るのだろうか。そんなふうに祈る姿は静かで美しいけれど、美しすぎて、いっしょに祈りたいという気持ちになれない。祈りに誘われない。
雪が解ける
しおれていた草の芽が立ちあがる
おくれて太陽が昇ってくる
わたしは ようやく
おまえを耕すために鍬を入れる
光を鋤こむ (「草むら」)
「光を鋤こむ」。うーん、美しいことばだ。でも、労働のにおいがしない。汗の匂いがしない。美しすぎる。鍬をつかって大地を耕すようには感じられない。すくなくとも、毎日鍬をつかっている感じがしない。あまりに美しすぎて、大地と本多の距離までも、まるで最初に引用した「倉庫」「新聞受け」のような、ちょっと離れた感じの距離に見えてしまう。
でも、それも、まあ、いいことにする。
けれど、たぶん、そんなふうに距離を正確にとることに力をそそぎすぎるためなのだと思うけれど、ことばがちっともことばを超えていかない。ことばが、書いている内に暴走していく、そしてとんでもないところへいくという魅力に乏しい。
詩は(現代詩だけではないと思うが)、ことばがどこかへ暴走して行ってしまう。もう、ことばではなくなってしまうようなところがないと、読んだ気持ちになれない。
本多は*マークでいくつもの断章をつないで一篇の詩にしていることが多いが、その方法も、距離を正確さが乱れてくると、それを破綻させないためにいったん終わる--その結果としての断章のように思える。破綻して、もう何がなんだかわからなくなってもいいと思うのだが、そんなふうにならないのは、とても残念だ。
どんなに破綻し、乱れても、「肉体」は一個、かならず存在するのに、と思ってしまう。
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