詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

本多寿『草霊』

2009-03-02 09:40:45 | 詩集
本多寿『草霊』(本多企画、2008年12月20日発行)

 たいへん美しいことばが並んでいる。たいへん美しい詩集である。そのことばの美しさは「距離」の正しさという美しさである。対象と本多との距離がいつも一定なのである。たとえば、「草霊日誌-七月」の第 1連。

倉庫の壁で
新聞受けが傾いている
犬の舌のような濡れた朝刊から
液化した世界の悲鳴が
ぽとりぽとり滴って
地に穴を穿っている
雨が上がると その穴から
おびただしい黒蟻が湧いてくる

 「倉庫」「新聞受け」。そのふたつがつくりだす、家そのものから少しずれ、少しくっついている微妙な距離が浮かぶ。この距離は、本多が世界と向き合うときの距離の取り方である。玄関のドアの新聞受けだと、この距離は違ってくる。マンションのビルの集合郵便受けでは、まったく違ってくる。ここには、一種の、見捨てられたものという「距離」がある。
 この距離を守ったまま、新聞、「朝刊」が登場する。このとき、「朝刊」は、敗北のようなものを背負っていなければならない。その敗北というか、役を少し疎外された感じを、本多は「濡れた」状態で定義する。インクのにおいのするような、真新しい新聞ではだめなのだ。でも、これは作為的すぎないか?
 この、役立たずの、ぬれた状態を強調するために、「犬の舌のような濡れた」という比喩が生まれる。ここは絶対に犬でなくてはならない。猫ではだめ。蛇でもだめ。そして、その犬は、家のなかでかわれている犬ではなく、家の外でかわれている犬である。だが、そうやって、距離を正確にしようとすると、それはそれで美しいのだが、とても窮屈になる。作為が目立ちすぎると思う。
 距離は必死になって、距離だけを維持しようとする。もう、飛躍はできない。ことばがぼうそうするなんてことは、こういう距離を厳密に守る方法をとっているかぎり、絶対に起きない。
 ことばは、どこまでも、弱い。半分、弱い。「悲鳴」。しかも「液化した世界の」「悲鳴」。「ぽとりぽとり」という半分弱い感じ。絶対的な弱さではなく、少し弱い感じ。--ここには、極端は登場しないのである。次に出てくるの生き物も「黒蟻」という小さなものだ。それには「おびただしい」という修飾語がついているが、「おびただしい」くらいでは、距離はかわらない。それに、「おびただしい」がでてきて、ちょっと距離が乱れたかな、と思うと、ぱっとその断章は終わってしまう。破綻を見せずに、きれいなまま、ことばをとじる。

 これはこれでいいのだろうけれど、でも、こんな「くらし」って、どこにあるのだろうか。こんなふうに美しく形をととのえて、つづけられる「くらし」は、いったいどこにあるのだろうか。ここに描かれているような風景は「限界集落」にしかないように思えるし、「限界集落」は「限界集落」でこんな美しさよりも、もっと厳しい何かがあるはずで、それを書かないのはなぜ、と思ってしまう。
 本多が書いているような美しい世界は、ことばのななかだけにしかないのではないのか。
 本多がていねいに距離を守れば守るほど、私には、その「現実」の世界が見えなくなる。ことばとしてなら理解できるけれど、「肉体」に触れて来ない。そして、「肉体」にふれてこないと、だんだん、ことばそのものも、どこか遠くへ行ってしまう。すくなくとも「現代詩」を読んでいるという気持ちが消えてしまう。

犬がしきりに吠えている
朝から小雨が振っている
わたしの胸には このところ
石のような寂しさがある
これは いったい何の予兆であろう
気がつくと いつのまにか
十本の指をくみあわせている  (「草霊日誌-四月」)

 ほんとうに、そんなふうにして本多は祈りはじめるのだろうか。なんだかよくわからない予兆のために祈るのだろうか。そんなふうに祈る姿は静かで美しいけれど、美しすぎて、いっしょに祈りたいという気持ちになれない。祈りに誘われない。

雪が解ける
しおれていた草の芽が立ちあがる
おくれて太陽が昇ってくる

わたしは ようやく
おまえを耕すために鍬を入れる
光を鋤こむ         (「草むら」)

 「光を鋤こむ」。うーん、美しいことばだ。でも、労働のにおいがしない。汗の匂いがしない。美しすぎる。鍬をつかって大地を耕すようには感じられない。すくなくとも、毎日鍬をつかっている感じがしない。あまりに美しすぎて、大地と本多の距離までも、まるで最初に引用した「倉庫」「新聞受け」のような、ちょっと離れた感じの距離に見えてしまう。

 でも、それも、まあ、いいことにする。

 けれど、たぶん、そんなふうに距離を正確にとることに力をそそぎすぎるためなのだと思うけれど、ことばがちっともことばを超えていかない。ことばが、書いている内に暴走していく、そしてとんでもないところへいくという魅力に乏しい。
 詩は(現代詩だけではないと思うが)、ことばがどこかへ暴走して行ってしまう。もう、ことばではなくなってしまうようなところがないと、読んだ気持ちになれない。
 本多は*マークでいくつもの断章をつないで一篇の詩にしていることが多いが、その方法も、距離を正確さが乱れてくると、それを破綻させないためにいったん終わる--その結果としての断章のように思える。破綻して、もう何がなんだかわからなくなってもいいと思うのだが、そんなふうにならないのは、とても残念だ。

 どんなに破綻し、乱れても、「肉体」は一個、かならず存在するのに、と思ってしまう。





本多寿詩集 (新・日本現代詩文庫)
本多 寿
土曜美術社出版販売

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(12)

2009-03-02 00:00:00 | 田村隆一
 「言葉なんかおぼえるんじやなかつた」ではじまる「帰途」は反語に満ちた作品だ。

言葉なんかおぼえるんじやなかつた
言葉のない世界
意味が意味にならない世界に生きていたら
どんなによかつたか

 「言葉のない世界」というより「言葉が言葉になる前の世界」、「意味が意味にならない世界」ではなく「意味が意味になる前の世界」--田村が書きたいのはそういう世界だ。この欲望は、もちろん不可能だ。ことばにした瞬間「言葉が言葉になる前の世界」は消えてしまう。意味はその瞬間に誕生し、「意味が意味になる前の世界」欲望は実現した瞬間、失望にかわる。田村の欲望は矛盾でできているのだ。
「言葉なんかおぼえるんじやなかつた」という行さえ、ことばなしには表現できない。

 だが、それが矛盾だからこそ、刺激的である。矛盾、反語のなかにだけ、一瞬、すばやく駆け抜けていくいのちがある。敗北する瞬間に、そのいのちの輝きが見える。切実さがくっきりと見える。

あなたか美しい言葉に復讐されても
そいつは ぼくとは無関係だ
きみが静かな意味に血をながしたところで
そいつも無関係だ

あなたのやさしい眼のなかにある涙
きみの沈黙の舌からおちてくる苦痛
ぼくたちの世界にもしことばがなかつたら
ぼくはただそれを眺めて立ち去るだろう

あなたの涙に 果実の核ほどの意味があるか
きみの一滴の血に この世界の夕暮れの
ふるえるような夕焼けのひびきがある

言葉なんかおぼえるんじやなかつた
日本語とほんのすこしの外国語をおぼえたおかげで
ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたつたひとりで帰つてくる

 2連目は不思議だ。「そいつ」は何を指すのだろう。「美しい言葉」「静かな意味」だろうか。それとも「復讐」「血」を流すこと、流血だろうか。また、「美しい言葉」「意味」は、だれが発したものだろうか。「言葉」も「意味」も田村が発したものである。それによって「あなた」が傷ついても、それは田村とは関係ない、田村の責任ではなく「言葉」「意味」のせいである。田村は、そう言いたい。なぜなら、ほんとうに「あなた」に知ってほしいのは、「言葉」にできなかったことば、「ことば以前のことば」、つまり、まだだれも言っていない田村だけのことばなのだから。
 これも、まったく不可能なことである。だれも言ったことのないことばなら、それは「あなた」にはわからない。ことばは人に共有されてはじめてことばになる。そういう歴史があってことばが動いている。「美しい言葉」、その「美しい」という概念さえ、歴史を持っている。「ことば以前ことば」を「ことば」にすることはできない。--そういう矛盾、不可能性と向き合いながら、田村はことばを発する。
 ことばではなく、肉眼で、世界を確かめたい。肉眼になりたい。「ぼくはただそれを眺めて立ち去りたい」という3連目のことばは、そういう欲望をあらわしている。しかし、その欲望さえも、ことばをとおしてしか表現できない。
 矛盾。絶対的な矛盾。
 だが、この絶対的な矛盾のなかで、ひとは出会い、和解する。

ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
ぼくはきみの血のなかにたつたひとりで帰つてくる

 田村の矛盾は止揚→発展へとつながるものではない。逆に、その場に立ち止まるためのものである。立ち止まって、その場を矛盾を解体し、融合する。他者と一体になる。一体になるために、矛盾以前の、まだ何も生まれていない混沌とした世界へ帰っていく。そういう世界である。5連目の「立ちどまる」「帰つてくる」は、そういうことと結びついている。

 ひとはときどき「何も言いたくない」と言うときがある。そして、実際に何も言わないときがある。けれども、その「何も言わない」に触れるとき、「言わない」ことが鮮明に伝わってくるときがある。「言わないから」のに理解することがある。理解できる何かがある。
 --そういう矛盾と対極の世界。
 ことばをひたすら否定する。そのとき、ことばへの渇望がほんものになる。本能のようなものになる。そして動きはじめる。

 ことばは「理性」を破壊し、「本能」へ立ち返るためにこそ、動かなければならない。激しい運動をしなければならない。過激な詩にならなければならない。矛盾を正確に書き留めなければならない。


 


秘密機関 (クリスティー文庫)
アガサ・クリスティー
早川書房

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする