詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

金井雄二「走るのだ、ぼくの三船敏郎が」、細野豊「花・もうひとつの顔」

2009-03-19 11:39:24 | 詩(雑誌・同人誌)
金井雄二「走るのだ、ぼくの三船敏郎が」、細野豊「花・もうひとつの顔」(「独合点」97、2009年、02月02日発行)

 金井雄二「走るのだ、ぼくの三船敏郎が」は映画で見た三船敏郎をことばで描写している。ことばで、とわざわざ書いたのは、ことばで書かないと見えないものが書かれているという意味である。

走るのだ、三船敏郎が。剣を振り回しながら、雄叫びをあげながら。眉毛の一本一本に神経が入っていて、そのどれもがビンとしている。額にも神経はそろりそろりと生えそろっていて、そこには電流が走っている。光がどこからか流れて来るが、それは剣からとびだしているのではなく、眼の底から発射されているのだ。

 「雄叫びをあげながら」までは肉眼で見える描写である。「眉毛の」からは、肉眼では見えない。ことばが三船の肉体をみつめはじめるのである。ことばが三船の肉体をみつめる。そのとき、ことばは「肉眼」になる。
 そして、「肉眼」になったことばが、その「肉」の共通感覚で、さらに三船の肉体に広がっていく。
 走って走って走って、三船は、飯屋に飛び込み、そこで飯を書き込むのだが、そこからは「肉眼」になったことばは、さらに進化して、食欲になる。いや、食欲というような抽象的なものではなく、胃と、喉とになってしまう。あらゆる肉体の細部になってしまう。

まず咽喉が上と下に動く。と思うが同時に、口が開かれ、飯が投げ入れられる。次から次に、白米は口の中に放り込まれる。丼のめしがあからさまに少なくなっていく。額には滲み出るものが会って、だがそれを拭おうとはしない。咀嚼する口元が、動く唇が、ぎらぎらする眼が、動きつづけている。咽喉がクッと一回鳴って、また再び動きはじめた。

 もう、こうなってしまうと、ことばはことばではなくなってしまう。ことばは、三船敏郎になってしまう。

走るのだ、三船敏郎よ。誰かのもの、じゃなくって、ぼくの三船敏郎の。動き続け、走り続けた三船敏郎の。走るのだ、ぼくの三船敏郎が。

 金井は「ぼくの三船敏郎」と書いているけれど、少しかわっている。正確には「ぼくの三船敏郎の。」と書いている。この「の」は何? ここには省略されているものがある。「ぼくの三船敏郎の描写(ことば)」なのだ。ことばが動き続け、走り続け、「神経」になり、食欲になり、肉体の細部、咽喉や唇や手足になり、三船敏郎になってしまって、そのことばが走るのだ。ことばになってしまった結果として、それは金井の肉体そのものにもなって、そして走るのだ。
 この疾走感は、とても美しい。



 細野豊「花・もうひとつの顔」のことばは、金井のことばのように「肉体」そのものになってしまわない。少し、離れている。距離がある。その少しの距離をしっかりとみつめて動いている。

もしもぼくが蝶の舌を持っていたなら
もっと深く深く入って
あなたの愛を吸いつくしただろうに

ぼくの舌は短くて平たいから
花びらたちを丁寧に嘗め
もどかしく花心のあたりを這いまわるだけだ

もう少しというところで
遠ざかってしまう詩の女神よ それでも
ぼくの閉じた目の中に崇高なものが見えてくる

 金井のことばが「肉体」であったのに対し、細野のことばは「比喩」である。比喩とはここにないものを利用して、いま、ここを語ることである。いま、ここにない--その不在の真空の力を借りて、対象を自分の中に取り込む。そして、吐き出す。その呼吸が比喩である。
 そこには「肉眼」はない。あるのは、肺--胸、そしてこころである。精神である。「ぼくの閉じた目の中に崇高なものが見えてくる」が象徴的だけれど、目を閉じる時、精神の目が開かれる。肉眼を拒絶して開かれる目。そこに見えて来るものは、手で触れるもの、肉体で確かめることのできない抽象的な「崇高なもの」である。それは、どうしたって、「肉眼」から、「肉体」からは遠くなる。

このぼくの舌で 味わいつくしているようで
遥かな乳房のように いつも
遠くありつづけるものよ

 最終連にも3連目と同じ「遠い」ということばにつながる表現が出て来る。「遠い」、その距離の隔たり、「肉体」と「精神」のあいだの距離の遠さ--それが細野の世界であることがわかる。





にぎる。
金井 雄二
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『田村隆一全詩集』を読む(29)

2009-03-19 00:34:21 | 詩集
 「食堂車にて」で、田村は不思議なことばに出会っている。

「クレイジー・ハウス!」
中年のウエイターが車窓を過ぎる建物に
指をさす
ぼくは二日酔で
大西洋のエビとヒラメをさかなに
金色のウイスキーを飲みつづけている
「クレイジー・ハウス?」
ぼくはおなじテーブルの作家夫妻の顔を見た
「きっと精神病院のことよ」
夫人が白い歯をみせて笑った

 「クレイジー・ハウス」に対応する日本語が「精神病院」であるかどうか、私はわからない。知らない。どんなに有名な病院だとしても、わざわざ車掌が指さして精神病院を紹介するとも思えない。
 田村が、夫人のそのことばに納得したかどうかもわからない。
 けれど、そのことばから、この詩ははじまっている。理解でなきかったことばから田村の詩ははじまっている。そのことが、私にはとてもおもしろく感じられる。
 詩はことばである。ことばそのものが詩なのである。
 「夜間飛行」のなかで、田村は「魔の山」の「純粋な」ということばと「マリア・マンチーニ」という葉巻の名前から出発して詩を、そのことばを動かしていた。知っていることばでも、知らないことばになる。「単純な」は誰でも知っていることばであるけれど、トーマス・マンが青年に対して「単純な」ということばをつかったとき、それは田村には、とても新鮮な、つまりしらないことばとして響いてきた。そして、その新鮮な響きがあったからこそ、ほんとうに知らない「マリア・マンチーニ」もそのことばと同じように強く記憶に残ったのだ。知らないことばだけが、記憶に残るのだ。
 「クレイジー・ハウス」。そのことばを田村は知らない。それがたとえ「精神病院」であるとしても、田村は、そのことばを知らない。知らないことばが、田村の知っていることばを動かすのである。なんとか、その知らないことばを、知っていることばとつなげようとして、ことばが自然に動きだすのである。
 引用した1連につながる詩は、そのことばは、単純に車窓の風景を、そこから見たものを描写しているだけのように思えるが、もし「クレイジー・ハウス」ということばに触れなかったら、そして「精神病院」ということばに触れなかったら、車窓の風景は違っていたに違いない。
 荒野も描写されなかっただろうし、3連目の青年も描写されなかっただろう。

やっと「グリーン・リバー」という小さな町にさしかかったら
その小さな町は死んでいるのだ ただひとり
上半身はだかの青年がツルハシをふるって
三階建ての廃屋を壊している
あの灰色の家を壊しおわるまで
いったい何年かかるというのだ?
犬もいない
死んでいる小さな町をすぎたら
塩の湖と
砂漠だ

 ここに書いてある風景は、ぜったいに「観光ガイド」には出てこない風景である。それは「流通」しない風景である。田村のことばは、そういう「流通」しないことばとなって、世界と出会っている。それはほとんど、その世界がはじめて出会うことばだろう。だから詩なのである。世界はいつでも存在する。ことばもいつでも存在する。しかし、世界とことばが出会うということはほんとうはとても少ない。出会って、はじめて、ふたつのものが存在するようになる。ことばが世界に存在形式を与えるのだ。

 田村のことばは、世界に存在形式を与えるために動きはじめるのだ。次の連。

その夜は
列車のなかの三軒の酒場を飲みあるいた
作家夫妻はコンパートメントに閉じこもってしまったから
ぼくひとりだけ
まるでさっきの上半身はだかの青年のように
金色のツルハシをふるいつづけながら
アメリカ語とスペイン語と
葉巻と香水が渦をまいている
薄暗い酒場を飲みあるいたのさ
死んでしまった小さな町
混濁している「グリーン・リバー」
ぼくは
ぼくの独房にたどりつくまで金色のツルハシをふるいつづけ

 世界に存在形式を与えこと--それは破壊と同じ作業だ。
 田村は、ツルハシだけで家を壊していた青年そのものになって、ことばをつかって世界を破壊する。アメリカ語、スペイン語、そして日本語。ことばが衝突して、そこで世界が、はじめて姿をあらわす世界が、ことばとともに生まれる。
 その具体的な世界を田村は書いてはいない。書けない。それは、ただひたすら破壊されることで、瞬間的に誕生するだけのものである。それを「流通」することばにのせてしまえば、それはもう詩ではなくなる。ことばではなくなる。
 田村は、ただ、ことばがどこで動いたかだけを書いている。
 先へ先へとすすみながら、ことばは、過去を掘り起こす。次々とあらたしい何かにであって、アメリカ語、スペイン語、そしてたぶん日本語も交えて世界と向き合いながら、その瞬間瞬間に、過ぎ去った町、「グリーン・リバー」とツルハシの青年があらわれる。
 詩とは、そんなふうに、時間的には未来に進むことと、過去を掘り起こすことが同時に行われるのだ。そうい矛盾した方向のなかで、未来でも過去でもない時間--もちろん永遠などといううさんくさい時間でもなく、ただただ「いま」としか呼べない瞬間をビッグバンのように破壊し、同時に誕生させるのだ。
 田村のことばの運動の佳境--そういうものを、この詩に私は感じる。




田村隆一詩集 (現代詩文庫 第 1期1)
田村 隆一
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