詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

林嗣夫「余白の道」、小松弘愛「落葉」

2009-03-22 13:50:15 | 詩(雑誌・同人誌)
林嗣夫「余白の道」、小松弘愛「落葉」(「兆」141 、2009年02月01日発行)

 林嗣夫「余白の道」は何が書いてあるのか、わからない。そして、そのわからないところが、とても魅力的だ。全行。

高橋和己の小説を読んでいて
あるページまできたとき
ふいに脇道にそれてしまった

そのページの右上から左下にむかって
一すじのかすかな道がつづいていたのだ
句点「。」や読点「、」がつくりだす小さな余白の
つらなりが
とぎれそうになったり
折れ曲がったりして

それはまるで
物語の森を通過するひそやかなけものみちだった
あるいは
文字の砂漠を行きなずみくねっていった
毒へびのあとだった

高橋和己の小説を読んでいて
ふいに高橋和己からはぐれてしまった
言葉の茂みを通過する一すじの細い道
そして思い出したのだ
そこをくぐりぬける虹色の羽をもつ鳥を
尾が長いためけっして後戻りすることのできない鳥のことを

 句読点が1ページのなかで偶然美しい模様を描いている。ことばを読んでいるはずなのに、そのことばが消え、句読点がつくりだす「空白」がひとつの模様として見える。そこから、林は、高橋のことばが語っている「意味」ではなく、ふっと脇道にそれる。想像力が、本来のことばの描き出しているもの以外を追いかける。しかし、それはほんとうにことばが描き出しているもの以外なのか。もしかすると、ことばが隠しているほんとうの「獲物」かもしれない。
 林はそれを美しい鳥にたとえて書いている。美しい鳥は比喩であり、象徴である。
 比喩や象徴は、ほんとうは、それが指し示す「意味」、いま、ここにはない「意味」を明確に伝えなければ比喩、象徴の働きをしているとはいえない--はずである。
 私は林が書いている美しい鳥の比喩の「意味」、象徴の「意味」がわからない。だから、この詩を何度読んでもわからないと書くのだが、わからないと書きながら、そのとりの美しい姿、その死、その断末魔--それをとても美しく感じ、その美しさ、それがわかりさえすれば、鳥が何の比喩、何の象徴かわからなくてもかまわない、と感じてしまう。
 比喩、象徴が、ここでは、「意味」を伝える、暗示するという働きを放棄して(?)、あるいは超越して(?)、鳥そのものとして存在している。高橋和己のことばの(活字の)つらなりが、ことばであることをやめて深い森になり、句読点は獣道になる。それが不思議に実感できる。高橋のどの小説、どのページなどということはどうでもよくて、林が見た森が、獣道が、美しい鳥が、想像力の、さらに先をかすめるように猛烈な鮮やかさで飛んで行く。その飛翔を見たくて、もっとはっきり見たくて、何度も何度も読み返してしまう。
 読み返しているうちに、林は「高橋和己からはぐれししまった」と書いているけれど、その鳥が高橋和己の精神に思えてくる。長い文体、けっして後戻りをすることのできない精神が描き出した文体、それを支える精神の輝きにも見えてくる。
 たいへんな傑作だと思う。感想を拒絶して、ただそこに存在する--そういう特出した作品だと思う。



 小松弘愛「落葉」は、情景を描きながら、しだいに「ことば」のなかへ入っていく。
全行。

ビルの
三階の窓から見下ろすと
コの字形の建物に囲まれた中庭に
風が吹き込んでいる

その風に乗せられて
樟(くす)の赤みを帯びた落葉が
次々に立ち上がり
くるっ くるくると回転している

わたしは
落葉の舞いをしばらく眺めた後
一茶の「猫の子」を中庭に呼び入れて
階段を降りる

くるっ くるくるくる
くるっ くるくるくる
「猫の子がちょいと押へる落葉かな」
くるっ

 私たちは肉眼で情景を見ている--と信じている。自分の肉眼でみている、と。しかし、その見たものを実際にことばにしてみるとわかることだが、私たちのこころは肉眼を忠実に受け止めているというよりも、肉眼で見たものを、既に知っていることばに結びつける。ちきんと結びついてくれることばをさがしている。
 この作品では、小松は一茶の句を思い出している。
 小松は、自分の肉眼で落ち葉を見ていたけれど、いつのまにか一茶の句の世界を見ている。一茶を、小松がみている世界に招き入れて、いっしょに世界を見ている。一茶の句には「くるっ くるくるくる」ということばはないけれど、その「くるっ……」さえも一茶の句に支えられている--どこか遠い場所で、不思議な力で支えられながら、たのしく遊んでいる、交流しているのを感じている。

 ことばはいつでも「私」だけではなく、遠い遠い時間を超えて、誰かのことばと交流する。誰かのことばに「いのち」をもらっている。
 小松が「土佐方言」を詩に書きつづけるのは、そういう「いのち」を受け止め、つないでいこうとするこころがあるからだろうと思う。

 そして、(この「そして」には、むちゃくちゃな飛躍があるとは思うけれど……)、林が書いていた高橋和己の、句読点の余白、その獣道と美しい鳥も、そういう「いのち」を形にしたものだと思う。林が受け止めた、高橋の「いのち」、高橋のことば、それを本の形にしている活字、紙、インク--その複合されたひとつのしごとのなかにある「いのち」を受け止めたときの衝撃--衝撃ゆえに見てしまう鮮やかな幻のように思える。





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『田村隆一全詩集』を読む(32)

2009-03-22 00:00:38 | 田村隆一
 「破壊された人間のエピソード」も「ことば」を問題としている。

近代日本語はたしかに旅をしたが
その言葉によって造られた人間は
どんな地平線と水平線を見たというのだろう
ぼくらか連れ出された世界は
死者と死語と廃墟にみちていて

 「言葉=人間」と田村は缶が堰堤ル。「言葉によって造られた人間」という表現は、それを端的に語っている。ことばこそが人間である。ことばこそが、その人である。
 この詩を書いている田村は、インドで夜行列車にのっている。車掌がやってきて、ウイスキーをわけてくれ、と言う。そのあと、

ぼくは怖しい話を聞いた 夜汽車を狙う
集団強盗が出没していて乗客から
金や宝石を奪いとると
ピストルを面白がって撃つそうだ
ピストルを撃つ
弾丸が獲物の肉体を貫通する
肉体に穴があいて
赤い血が噴出する
獲物が悲鳴をあげる

それがおもしろくてしようがないのさ
人間が獲物に変身することだって痛快なんだ
あの夜汽車の車掌がウイスキーをもらいにきた意味がやっとわかってきたぞ

 この「車掌がウイスキーをもらいにきた意味」とは何だろう。つづく連に、「夜汽車の車掌が悪夢を見ないために」とあるから、たぶん車掌は列車強盗が襲って来る悪夢から逃れるためにウイスキーをほしがったというのが田村の考えていた「意味」かもしれない。
 けれども、私は違ったことを考えた。
 「人間が獲物に変身することだって痛快なんだ」。「変身」と「痛快」。それが「意味」だと思った。人間は何かになる。何かに変わる。そのことが「痛快」であり「おもしろい」。だとしたら、車掌が田村に「ウイスキーを少しいただけないでしょうか」というとき、車掌は何であり、田村は何であるのか。車掌は乗客にサービスする人間ではなく、田村はサービスを受ける人間ではなくなっている。「変身」している。その「変身」はささやかで、はっきりとは見えないかもしれないけれど、やはり「変身」である。ふたりは車掌-乗客ということばで造られた(そういうことばであらわすことのできる)人間ではなく、「車掌」「乗客」ということばをはぎ取られた人間である。ことばをはぎとられ、つまり、「水平」の回路をはぎ取られ、それぞれが垂直の方向に洗い直された人間である。それが「痛快」である。--その「痛快」を車掌は求めていた。そして、田村はそれに答えた。「乗客」としてではなく、洗い直された人間として。
 この瞬間が、旅なのである。この旅の瞬間、田村は「死者」と向き合っていない。「死語」をかわしていない。もちろん「廃墟」のなかにいるわけでもない。

 詩は、次のようにおわる。

電話のベルが鳴り
長い長いサナダ虫のような電話線で
人間は
人間の言葉で
喋っているが

おたがいに理解しあったためしがないじゃないか
誤解に誤解をかさねて
ぼくらは暗黒の世界から生れ
暗黒の世界へ帰って行くのさ
一条の光り
その光りの極小の世界で
歩きつづけている
ぼくらの
奇妙で
滑稽で
盲目の
旅の

エピソード

 田村は、インドの夜汽車でウイスキーを分けてくれと言う車掌に会った。そのとき、たしかに「旅」をした--そう田村は、言うのである。



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