林嗣夫「余白の道」、小松弘愛「落葉」(「兆」141 、2009年02月01日発行)
林嗣夫「余白の道」は何が書いてあるのか、わからない。そして、そのわからないところが、とても魅力的だ。全行。
句読点が1ページのなかで偶然美しい模様を描いている。ことばを読んでいるはずなのに、そのことばが消え、句読点がつくりだす「空白」がひとつの模様として見える。そこから、林は、高橋のことばが語っている「意味」ではなく、ふっと脇道にそれる。想像力が、本来のことばの描き出しているもの以外を追いかける。しかし、それはほんとうにことばが描き出しているもの以外なのか。もしかすると、ことばが隠しているほんとうの「獲物」かもしれない。
林はそれを美しい鳥にたとえて書いている。美しい鳥は比喩であり、象徴である。
比喩や象徴は、ほんとうは、それが指し示す「意味」、いま、ここにはない「意味」を明確に伝えなければ比喩、象徴の働きをしているとはいえない--はずである。
私は林が書いている美しい鳥の比喩の「意味」、象徴の「意味」がわからない。だから、この詩を何度読んでもわからないと書くのだが、わからないと書きながら、そのとりの美しい姿、その死、その断末魔--それをとても美しく感じ、その美しさ、それがわかりさえすれば、鳥が何の比喩、何の象徴かわからなくてもかまわない、と感じてしまう。
比喩、象徴が、ここでは、「意味」を伝える、暗示するという働きを放棄して(?)、あるいは超越して(?)、鳥そのものとして存在している。高橋和己のことばの(活字の)つらなりが、ことばであることをやめて深い森になり、句読点は獣道になる。それが不思議に実感できる。高橋のどの小説、どのページなどということはどうでもよくて、林が見た森が、獣道が、美しい鳥が、想像力の、さらに先をかすめるように猛烈な鮮やかさで飛んで行く。その飛翔を見たくて、もっとはっきり見たくて、何度も何度も読み返してしまう。
読み返しているうちに、林は「高橋和己からはぐれししまった」と書いているけれど、その鳥が高橋和己の精神に思えてくる。長い文体、けっして後戻りをすることのできない精神が描き出した文体、それを支える精神の輝きにも見えてくる。
たいへんな傑作だと思う。感想を拒絶して、ただそこに存在する--そういう特出した作品だと思う。
*
小松弘愛「落葉」は、情景を描きながら、しだいに「ことば」のなかへ入っていく。
全行。
私たちは肉眼で情景を見ている--と信じている。自分の肉眼でみている、と。しかし、その見たものを実際にことばにしてみるとわかることだが、私たちのこころは肉眼を忠実に受け止めているというよりも、肉眼で見たものを、既に知っていることばに結びつける。ちきんと結びついてくれることばをさがしている。
この作品では、小松は一茶の句を思い出している。
小松は、自分の肉眼で落ち葉を見ていたけれど、いつのまにか一茶の句の世界を見ている。一茶を、小松がみている世界に招き入れて、いっしょに世界を見ている。一茶の句には「くるっ くるくるくる」ということばはないけれど、その「くるっ……」さえも一茶の句に支えられている--どこか遠い場所で、不思議な力で支えられながら、たのしく遊んでいる、交流しているのを感じている。
ことばはいつでも「私」だけではなく、遠い遠い時間を超えて、誰かのことばと交流する。誰かのことばに「いのち」をもらっている。
小松が「土佐方言」を詩に書きつづけるのは、そういう「いのち」を受け止め、つないでいこうとするこころがあるからだろうと思う。
そして、(この「そして」には、むちゃくちゃな飛躍があるとは思うけれど……)、林が書いていた高橋和己の、句読点の余白、その獣道と美しい鳥も、そういう「いのち」を形にしたものだと思う。林が受け止めた、高橋の「いのち」、高橋のことば、それを本の形にしている活字、紙、インク--その複合されたひとつのしごとのなかにある「いのち」を受け止めたときの衝撃--衝撃ゆえに見てしまう鮮やかな幻のように思える。
林嗣夫「余白の道」は何が書いてあるのか、わからない。そして、そのわからないところが、とても魅力的だ。全行。
高橋和己の小説を読んでいて
あるページまできたとき
ふいに脇道にそれてしまった
そのページの右上から左下にむかって
一すじのかすかな道がつづいていたのだ
句点「。」や読点「、」がつくりだす小さな余白の
つらなりが
とぎれそうになったり
折れ曲がったりして
それはまるで
物語の森を通過するひそやかなけものみちだった
あるいは
文字の砂漠を行きなずみくねっていった
毒へびのあとだった
高橋和己の小説を読んでいて
ふいに高橋和己からはぐれてしまった
言葉の茂みを通過する一すじの細い道
そして思い出したのだ
そこをくぐりぬける虹色の羽をもつ鳥を
尾が長いためけっして後戻りすることのできない鳥のことを
句読点が1ページのなかで偶然美しい模様を描いている。ことばを読んでいるはずなのに、そのことばが消え、句読点がつくりだす「空白」がひとつの模様として見える。そこから、林は、高橋のことばが語っている「意味」ではなく、ふっと脇道にそれる。想像力が、本来のことばの描き出しているもの以外を追いかける。しかし、それはほんとうにことばが描き出しているもの以外なのか。もしかすると、ことばが隠しているほんとうの「獲物」かもしれない。
林はそれを美しい鳥にたとえて書いている。美しい鳥は比喩であり、象徴である。
比喩や象徴は、ほんとうは、それが指し示す「意味」、いま、ここにはない「意味」を明確に伝えなければ比喩、象徴の働きをしているとはいえない--はずである。
私は林が書いている美しい鳥の比喩の「意味」、象徴の「意味」がわからない。だから、この詩を何度読んでもわからないと書くのだが、わからないと書きながら、そのとりの美しい姿、その死、その断末魔--それをとても美しく感じ、その美しさ、それがわかりさえすれば、鳥が何の比喩、何の象徴かわからなくてもかまわない、と感じてしまう。
比喩、象徴が、ここでは、「意味」を伝える、暗示するという働きを放棄して(?)、あるいは超越して(?)、鳥そのものとして存在している。高橋和己のことばの(活字の)つらなりが、ことばであることをやめて深い森になり、句読点は獣道になる。それが不思議に実感できる。高橋のどの小説、どのページなどということはどうでもよくて、林が見た森が、獣道が、美しい鳥が、想像力の、さらに先をかすめるように猛烈な鮮やかさで飛んで行く。その飛翔を見たくて、もっとはっきり見たくて、何度も何度も読み返してしまう。
読み返しているうちに、林は「高橋和己からはぐれししまった」と書いているけれど、その鳥が高橋和己の精神に思えてくる。長い文体、けっして後戻りをすることのできない精神が描き出した文体、それを支える精神の輝きにも見えてくる。
たいへんな傑作だと思う。感想を拒絶して、ただそこに存在する--そういう特出した作品だと思う。
*
小松弘愛「落葉」は、情景を描きながら、しだいに「ことば」のなかへ入っていく。
全行。
ビルの
三階の窓から見下ろすと
コの字形の建物に囲まれた中庭に
風が吹き込んでいる
その風に乗せられて
樟(くす)の赤みを帯びた落葉が
次々に立ち上がり
くるっ くるくると回転している
わたしは
落葉の舞いをしばらく眺めた後
一茶の「猫の子」を中庭に呼び入れて
階段を降りる
くるっ くるくるくる
くるっ くるくるくる
「猫の子がちょいと押へる落葉かな」
くるっ
私たちは肉眼で情景を見ている--と信じている。自分の肉眼でみている、と。しかし、その見たものを実際にことばにしてみるとわかることだが、私たちのこころは肉眼を忠実に受け止めているというよりも、肉眼で見たものを、既に知っていることばに結びつける。ちきんと結びついてくれることばをさがしている。
この作品では、小松は一茶の句を思い出している。
小松は、自分の肉眼で落ち葉を見ていたけれど、いつのまにか一茶の句の世界を見ている。一茶を、小松がみている世界に招き入れて、いっしょに世界を見ている。一茶の句には「くるっ くるくるくる」ということばはないけれど、その「くるっ……」さえも一茶の句に支えられている--どこか遠い場所で、不思議な力で支えられながら、たのしく遊んでいる、交流しているのを感じている。
ことばはいつでも「私」だけではなく、遠い遠い時間を超えて、誰かのことばと交流する。誰かのことばに「いのち」をもらっている。
小松が「土佐方言」を詩に書きつづけるのは、そういう「いのち」を受け止め、つないでいこうとするこころがあるからだろうと思う。
そして、(この「そして」には、むちゃくちゃな飛躍があるとは思うけれど……)、林が書いていた高橋和己の、句読点の余白、その獣道と美しい鳥も、そういう「いのち」を形にしたものだと思う。林が受け止めた、高橋の「いのち」、高橋のことば、それを本の形にしている活字、紙、インク--その複合されたひとつのしごとのなかにある「いのち」を受け止めたときの衝撃--衝撃ゆえに見てしまう鮮やかな幻のように思える。
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