韓成礼(ハン・ソンレ)と伊藤比呂美「海彼往来-ことばが日常を超える瞬間(とき)」(福岡市・都久志会館大ホール、2009年03月01日)
韓成礼(ハン・ソンレ)と伊藤比呂美のトーセッション。(詩の朗読含む)
伊藤比呂美の話で2か所、おもしろいところがあった。ひとつは森鴎外の文体について語った部分。伊藤は、鴎外の文章から日本語の地層が見えると言った。地層とは、漢文体、江戸の文体、明治の文体、翻訳体、口語の文体の重なり具合のことである。これはとてもすぐれた指摘だと思う。私もそう思う。鴎外の作品のなかには、すべての日本語のスタイルがあり、それがとても緊密に重なって、世界をつくっている。日本語の文章は鴎外の文体さえあれば充分、というのは言いすぎにしろ、鴎外の文体を踏まえないことには何も言えない。
もうひとつは、新作「般若心経」の朗読にあたって、伊藤が語ったことである。伊藤は、彼女の仕事はだれかの言ったことの語り直しなのだと説明した。すでにだれかが語っていることがら、それを伊藤自身のことばで語り直す。「般若心経」という作品も、「般若心経」の彼女自身の語り直しなのだと説明した。
「般若心経」は新作であり、テキストが手元にはない。記憶だけで再現すれば、「あるものはない、ないはない、ないはないということがある」というような、いわば般若心経の神髄を彼女自身のことばで語り直した。それは、私の知っている般若心経そのものだった。ほかの何もまじっていなかった。けれども、それは伊藤自身の声だった。心底、感動してしまった。伊藤によれば、この作品はまだ未完成(ほぼ完成している)ということだったが、こういう「完成以前」の作品に立ち会えるというのはとてもうれしいことである。
般若心経の言っていることをそのまま語り直しているのに、なぜ、それがおもしろいかと言えば、それは、語り直しのなかに、どうしても「いま」が入って来るからである。現在のことばで般若心経を語るとき、どうしても、そこには語りきれないものがある。その語りきれないものを、急いで追いかけ、追いかけたあとで立ち止まり、言い直し、言い直しながらだんだんそのことばしかないのだと確信し、ことばにのって、はっきり息をことばに吹き込みながら語る。そのリズムが、伊藤の他の作品のリズムと同じなのである。同じというと変だけれど、根底に同じいのちの力があって、そこからことばがまっすぐに噴出して来る。その感じがとても気持ちがいい。
その後、伊藤と直接話す機会があったので、私が感じた2点について感想を言った。
鴎外の文章の分析はその通りだと思う。また、伊藤は西日本新聞で人生相談の回答をやっているが、その回答というのは、結局、伊藤が相談者の言っていることの語り直しである、と私は、言った。「そうだ」と伊藤は答えた。そして、伊藤は、「鴎外のやっていることも結局語り直しでしょ」と付け加えた。私もそう思う。「渋江抽斎」は、鴎外が語り直しである。鴎外は、新しいことは言っていない。すべてわかっていることを語り直したただけである、と伊藤に語った。
伊藤と会うのも話すのも、今回が初めての事だった。そして、短いやりとりだったけれど、その短いやりとりのなかで、共通の意識をもてたことが、私には感激だった。
ひとはいつでもわかっていることを、自分のことばで語り直すだけである。それ以外のことはできないと、私は思う。
鴎外と伊藤に共通点があるとすれば(こんな指摘をだれかほかの人がするかどうかわからないが)、それは語り直すとき、とても正直であるという点だ。知らないことを付け加えない。自分の肉体を通らないことばを語らない。あらゆる天才は、自分の肉体をとおったことばしか語らないものなのだと確信した。
自分の肉体をとおったことばしか語らない--これは簡単なようで、非常に難しい。なぜなら、ひとはだれでも、かっこよく書きたいという欲望をもっているからである。そのかっこよくをわきにおいておいて、わかっていることに専念する。わかっていることからずれない。それをつらぬくことは難しい。つらぬきとおしたとき、とてもかっこよくなるのはわかっていても。
伊藤は、ほんとうに正直な人である。それは詩の朗読を聴いてわかった。(私は詩の朗読を聞くのは初めてである。私は他人のことばを自分のリズムで読まないと気がすまないので、これまで朗読は聴いたことがない。)伊藤の声は、とてもまっすぐである。伊藤の朗読を聴く前、私は、美空ひばりを想像していた。少女の透明・清澄な響き、地声、それからドスのきいた声--それが交錯すると勝手に思い込んでいた。ところが伊藤の声は、緩急のリズムは別にして、地声やドスのある声へとは動かない。不純物をいっさい含まず、あくまでまっすぐである。まっすぐに加速して、どんどん透明になる。その加速度と、清澄な感じがすばらしい。自分の知っていること--それだけを語るまっすぐな力に満ちていた。
韓成礼は「水子」という作品を日本語と韓国語で朗読した。韓国語を聴いているとき、その意味は私にはまったくわからなかった。けれども、日本語で聴いたときより、まっすぐに胸にとどいた。声--声の肉体がもっている独特の「共感力(?)」とでも言うものが会場にひろがった。日本語での朗読のときは、「意味」(ことば)を聞き取ろうとする意識が会場にひろがり、ちょっとギスギスした感じだったが、韓国語の朗読のときは、会場(聴衆)が「意味」ではなく、感情に触れようと、肉体をまっすぐになっていた。そのまっすぐな感じに呼応するように、声がまっすぐに届いて来るのだ。
人間の肉体というのはほんとうに不思議なものだと思う。
「いみ」や「ことば」よりも、肉体に反応する。嘘を聞かされたとき、ひとは、その嘘の意味に左右されるよりも、そういうことを超越して、あ、嘘を言っていると感じる。ほんとうのことを聴いているとき、そのことばにいくつかの矛盾があっても、それを無視してほんとうに触れてしまう。
そういうような一瞬が、韓国語での朗読のときにあった。これは得難い体験だった。
韓が語った「恨(はん)」の定義もおもしろかった。韓によれば「恨」とは他人に対する恨みではない。それは自分が何かをできなかったことに対する強い後悔なのだという。自分自身の、無力さに対する後悔、自分に向けられた情念だと言う。日韓の歴史に配慮しながら、韓はあえてそんなふうに語ってくれたのかもしれないが、そんふうに語ることで、韓は彼女自身に「恨」しっかり定着させようとしているのかもしれない。
韓成礼(ハン・ソンレ)と伊藤比呂美のトーセッション。(詩の朗読含む)
伊藤比呂美の話で2か所、おもしろいところがあった。ひとつは森鴎外の文体について語った部分。伊藤は、鴎外の文章から日本語の地層が見えると言った。地層とは、漢文体、江戸の文体、明治の文体、翻訳体、口語の文体の重なり具合のことである。これはとてもすぐれた指摘だと思う。私もそう思う。鴎外の作品のなかには、すべての日本語のスタイルがあり、それがとても緊密に重なって、世界をつくっている。日本語の文章は鴎外の文体さえあれば充分、というのは言いすぎにしろ、鴎外の文体を踏まえないことには何も言えない。
もうひとつは、新作「般若心経」の朗読にあたって、伊藤が語ったことである。伊藤は、彼女の仕事はだれかの言ったことの語り直しなのだと説明した。すでにだれかが語っていることがら、それを伊藤自身のことばで語り直す。「般若心経」という作品も、「般若心経」の彼女自身の語り直しなのだと説明した。
「般若心経」は新作であり、テキストが手元にはない。記憶だけで再現すれば、「あるものはない、ないはない、ないはないということがある」というような、いわば般若心経の神髄を彼女自身のことばで語り直した。それは、私の知っている般若心経そのものだった。ほかの何もまじっていなかった。けれども、それは伊藤自身の声だった。心底、感動してしまった。伊藤によれば、この作品はまだ未完成(ほぼ完成している)ということだったが、こういう「完成以前」の作品に立ち会えるというのはとてもうれしいことである。
般若心経の言っていることをそのまま語り直しているのに、なぜ、それがおもしろいかと言えば、それは、語り直しのなかに、どうしても「いま」が入って来るからである。現在のことばで般若心経を語るとき、どうしても、そこには語りきれないものがある。その語りきれないものを、急いで追いかけ、追いかけたあとで立ち止まり、言い直し、言い直しながらだんだんそのことばしかないのだと確信し、ことばにのって、はっきり息をことばに吹き込みながら語る。そのリズムが、伊藤の他の作品のリズムと同じなのである。同じというと変だけれど、根底に同じいのちの力があって、そこからことばがまっすぐに噴出して来る。その感じがとても気持ちがいい。
その後、伊藤と直接話す機会があったので、私が感じた2点について感想を言った。
鴎外の文章の分析はその通りだと思う。また、伊藤は西日本新聞で人生相談の回答をやっているが、その回答というのは、結局、伊藤が相談者の言っていることの語り直しである、と私は、言った。「そうだ」と伊藤は答えた。そして、伊藤は、「鴎外のやっていることも結局語り直しでしょ」と付け加えた。私もそう思う。「渋江抽斎」は、鴎外が語り直しである。鴎外は、新しいことは言っていない。すべてわかっていることを語り直したただけである、と伊藤に語った。
伊藤と会うのも話すのも、今回が初めての事だった。そして、短いやりとりだったけれど、その短いやりとりのなかで、共通の意識をもてたことが、私には感激だった。
ひとはいつでもわかっていることを、自分のことばで語り直すだけである。それ以外のことはできないと、私は思う。
鴎外と伊藤に共通点があるとすれば(こんな指摘をだれかほかの人がするかどうかわからないが)、それは語り直すとき、とても正直であるという点だ。知らないことを付け加えない。自分の肉体を通らないことばを語らない。あらゆる天才は、自分の肉体をとおったことばしか語らないものなのだと確信した。
自分の肉体をとおったことばしか語らない--これは簡単なようで、非常に難しい。なぜなら、ひとはだれでも、かっこよく書きたいという欲望をもっているからである。そのかっこよくをわきにおいておいて、わかっていることに専念する。わかっていることからずれない。それをつらぬくことは難しい。つらぬきとおしたとき、とてもかっこよくなるのはわかっていても。
伊藤は、ほんとうに正直な人である。それは詩の朗読を聴いてわかった。(私は詩の朗読を聞くのは初めてである。私は他人のことばを自分のリズムで読まないと気がすまないので、これまで朗読は聴いたことがない。)伊藤の声は、とてもまっすぐである。伊藤の朗読を聴く前、私は、美空ひばりを想像していた。少女の透明・清澄な響き、地声、それからドスのきいた声--それが交錯すると勝手に思い込んでいた。ところが伊藤の声は、緩急のリズムは別にして、地声やドスのある声へとは動かない。不純物をいっさい含まず、あくまでまっすぐである。まっすぐに加速して、どんどん透明になる。その加速度と、清澄な感じがすばらしい。自分の知っていること--それだけを語るまっすぐな力に満ちていた。
韓成礼は「水子」という作品を日本語と韓国語で朗読した。韓国語を聴いているとき、その意味は私にはまったくわからなかった。けれども、日本語で聴いたときより、まっすぐに胸にとどいた。声--声の肉体がもっている独特の「共感力(?)」とでも言うものが会場にひろがった。日本語での朗読のときは、「意味」(ことば)を聞き取ろうとする意識が会場にひろがり、ちょっとギスギスした感じだったが、韓国語の朗読のときは、会場(聴衆)が「意味」ではなく、感情に触れようと、肉体をまっすぐになっていた。そのまっすぐな感じに呼応するように、声がまっすぐに届いて来るのだ。
人間の肉体というのはほんとうに不思議なものだと思う。
「いみ」や「ことば」よりも、肉体に反応する。嘘を聞かされたとき、ひとは、その嘘の意味に左右されるよりも、そういうことを超越して、あ、嘘を言っていると感じる。ほんとうのことを聴いているとき、そのことばにいくつかの矛盾があっても、それを無視してほんとうに触れてしまう。
そういうような一瞬が、韓国語での朗読のときにあった。これは得難い体験だった。
韓が語った「恨(はん)」の定義もおもしろかった。韓によれば「恨」とは他人に対する恨みではない。それは自分が何かをできなかったことに対する強い後悔なのだという。自分自身の、無力さに対する後悔、自分に向けられた情念だと言う。日韓の歴史に配慮しながら、韓はあえてそんなふうに語ってくれたのかもしれないが、そんふうに語ることで、韓は彼女自身に「恨」しっかり定着させようとしているのかもしれない。
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