詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

韓成礼と伊藤比呂美「海彼往来-ことばが日常を超える瞬間(とき)」

2009-03-01 22:28:13 | その他(音楽、小説etc)
韓成礼(ハン・ソンレ)と伊藤比呂美「海彼往来-ことばが日常を超える瞬間(とき)」(福岡市・都久志会館大ホール、2009年03月01日)

 韓成礼(ハン・ソンレ)と伊藤比呂美のトーセッション。(詩の朗読含む)
 伊藤比呂美の話で2か所、おもしろいところがあった。ひとつは森鴎外の文体について語った部分。伊藤は、鴎外の文章から日本語の地層が見えると言った。地層とは、漢文体、江戸の文体、明治の文体、翻訳体、口語の文体の重なり具合のことである。これはとてもすぐれた指摘だと思う。私もそう思う。鴎外の作品のなかには、すべての日本語のスタイルがあり、それがとても緊密に重なって、世界をつくっている。日本語の文章は鴎外の文体さえあれば充分、というのは言いすぎにしろ、鴎外の文体を踏まえないことには何も言えない。
 もうひとつは、新作「般若心経」の朗読にあたって、伊藤が語ったことである。伊藤は、彼女の仕事はだれかの言ったことの語り直しなのだと説明した。すでにだれかが語っていることがら、それを伊藤自身のことばで語り直す。「般若心経」という作品も、「般若心経」の彼女自身の語り直しなのだと説明した。
 「般若心経」は新作であり、テキストが手元にはない。記憶だけで再現すれば、「あるものはない、ないはない、ないはないということがある」というような、いわば般若心経の神髄を彼女自身のことばで語り直した。それは、私の知っている般若心経そのものだった。ほかの何もまじっていなかった。けれども、それは伊藤自身の声だった。心底、感動してしまった。伊藤によれば、この作品はまだ未完成(ほぼ完成している)ということだったが、こういう「完成以前」の作品に立ち会えるというのはとてもうれしいことである。
 般若心経の言っていることをそのまま語り直しているのに、なぜ、それがおもしろいかと言えば、それは、語り直しのなかに、どうしても「いま」が入って来るからである。現在のことばで般若心経を語るとき、どうしても、そこには語りきれないものがある。その語りきれないものを、急いで追いかけ、追いかけたあとで立ち止まり、言い直し、言い直しながらだんだんそのことばしかないのだと確信し、ことばにのって、はっきり息をことばに吹き込みながら語る。そのリズムが、伊藤の他の作品のリズムと同じなのである。同じというと変だけれど、根底に同じいのちの力があって、そこからことばがまっすぐに噴出して来る。その感じがとても気持ちがいい。

 その後、伊藤と直接話す機会があったので、私が感じた2点について感想を言った。
 鴎外の文章の分析はその通りだと思う。また、伊藤は西日本新聞で人生相談の回答をやっているが、その回答というのは、結局、伊藤が相談者の言っていることの語り直しである、と私は、言った。「そうだ」と伊藤は答えた。そして、伊藤は、「鴎外のやっていることも結局語り直しでしょ」と付け加えた。私もそう思う。「渋江抽斎」は、鴎外が語り直しである。鴎外は、新しいことは言っていない。すべてわかっていることを語り直したただけである、と伊藤に語った。
 伊藤と会うのも話すのも、今回が初めての事だった。そして、短いやりとりだったけれど、その短いやりとりのなかで、共通の意識をもてたことが、私には感激だった。

 ひとはいつでもわかっていることを、自分のことばで語り直すだけである。それ以外のことはできないと、私は思う。
 鴎外と伊藤に共通点があるとすれば(こんな指摘をだれかほかの人がするかどうかわからないが)、それは語り直すとき、とても正直であるという点だ。知らないことを付け加えない。自分の肉体を通らないことばを語らない。あらゆる天才は、自分の肉体をとおったことばしか語らないものなのだと確信した。
 自分の肉体をとおったことばしか語らない--これは簡単なようで、非常に難しい。なぜなら、ひとはだれでも、かっこよく書きたいという欲望をもっているからである。そのかっこよくをわきにおいておいて、わかっていることに専念する。わかっていることからずれない。それをつらぬくことは難しい。つらぬきとおしたとき、とてもかっこよくなるのはわかっていても。

 伊藤は、ほんとうに正直な人である。それは詩の朗読を聴いてわかった。(私は詩の朗読を聞くのは初めてである。私は他人のことばを自分のリズムで読まないと気がすまないので、これまで朗読は聴いたことがない。)伊藤の声は、とてもまっすぐである。伊藤の朗読を聴く前、私は、美空ひばりを想像していた。少女の透明・清澄な響き、地声、それからドスのきいた声--それが交錯すると勝手に思い込んでいた。ところが伊藤の声は、緩急のリズムは別にして、地声やドスのある声へとは動かない。不純物をいっさい含まず、あくまでまっすぐである。まっすぐに加速して、どんどん透明になる。その加速度と、清澄な感じがすばらしい。自分の知っていること--それだけを語るまっすぐな力に満ちていた。

 韓成礼は「水子」という作品を日本語と韓国語で朗読した。韓国語を聴いているとき、その意味は私にはまったくわからなかった。けれども、日本語で聴いたときより、まっすぐに胸にとどいた。声--声の肉体がもっている独特の「共感力(?)」とでも言うものが会場にひろがった。日本語での朗読のときは、「意味」(ことば)を聞き取ろうとする意識が会場にひろがり、ちょっとギスギスした感じだったが、韓国語の朗読のときは、会場(聴衆)が「意味」ではなく、感情に触れようと、肉体をまっすぐになっていた。そのまっすぐな感じに呼応するように、声がまっすぐに届いて来るのだ。
 人間の肉体というのはほんとうに不思議なものだと思う。
 「いみ」や「ことば」よりも、肉体に反応する。嘘を聞かされたとき、ひとは、その嘘の意味に左右されるよりも、そういうことを超越して、あ、嘘を言っていると感じる。ほんとうのことを聴いているとき、そのことばにいくつかの矛盾があっても、それを無視してほんとうに触れてしまう。
 そういうような一瞬が、韓国語での朗読のときにあった。これは得難い体験だった。

 韓が語った「恨(はん)」の定義もおもしろかった。韓によれば「恨」とは他人に対する恨みではない。それは自分が何かをできなかったことに対する強い後悔なのだという。自分自身の、無力さに対する後悔、自分に向けられた情念だと言う。日韓の歴史に配慮しながら、韓はあえてそんなふうに語ってくれたのかもしれないが、そんふうに語ることで、韓は彼女自身に「恨」しっかり定着させようとしているのかもしれない。


とげ抜き 新巣鴨地蔵縁起
伊藤 比呂美
講談社

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浜田優「一九九〇年京都」

2009-03-01 08:42:38 | 詩(雑誌・同人誌)
浜田優「一九九〇年京都」(「現代詩手帖」2009年03月号)

 1990年に京都へ行ったときのことを書いている。行きたくて行ったのではなく、航空券をもらったから関西へ出かけ、京都へ行った。でも、とても疲れている。「こんなことなら京都まで来るにはおよばない/多摩川でも荒川でもよかった」と思いながら、桂川の土手に横たわって休んでいる。
 その浜田が、河原近くにいる父と少年に気が付く。二人とも、浜田には背を向けて座っている。少年は時刻表を読み上げている。そのあとが、とてもおもしろい。

時刻表を読み上げる少年の声
子どもらしく聡明な、伸びのあるアルト
でも父親はそれにひとことも応えない
背中を丸め、おし黙ったまま
たぶん亀のような眼をして、じっと川を見ている
それでも少年は、まだ見ぬ真珠を数えるように
駅名と時刻を飽きもせずくり返す
「~駅×時×分、~駅×時×分、ほんで急行が×時×ふん」
--なあぼく、お父さんは疲れているんだよ
  しばらくそっとしといてあげなよ
口には出さず声をかけた、
そして気づいた
駅名と時刻はつまり、
「父ちゃんもうええか?」
言葉のないその応えは、
「ああもうちょっとや」

 浜田は自分が疲れているので、「お父さん」も疲れているだろうと想像し、少年にそう言おうとする。こころの中で言ってみる。そして、その瞬間、少年のしていることがわかった。父親のしていることが突然わかった。
 そのわかったことを、浜田は書かずに、読者の想像にまかせている。
 さて、何をしていた? 時間潰し?
 私はふいに、父親が野糞をしていると「気づいた」。私の想像が正しいかどうかはわからない。それ以外に何も考えられない。

 なぜ、そんなふうに想像したか。
 浜田が、声に出さずに言ったことばが、そう想像させた。「お父さんは疲れているんだよ/しばらくそっとしといてあげなよ」は父親の姿勢に反応して浜田の体のなかから出てきたことばだ。人間は不思議なことに、他人が何も言わなくても、ある姿勢をとっていると、そのひとのことがわかる。腹を抱えてうずくまっていれば、腹が痛いのだと想像してしまう。浜田はいま、疲れて土手に座り込んでいる。それで、その自分の姿に似た父親の姿(姿勢)を見たとき、父親は疲れているんだと思い込んだ。ごく自然な反応である。人間は他人の姿勢から他人の肉体の状態を知ってしまうが、それはあくまで自分の知っている肉体の状態である。知らない状態については、想像のしようがない。反応のしようがない。
 そして、そう言ってしまったあと、浜田は、それが実は自分の状態だと気づき、同時に、父親は違う状態かもしれないとも気が付いたのだ。自分と他人は違う、と気が付いたのだ。また同時に、そうやって座り込んでいる姿勢の、もう一つの意味をも知ったのだ。
 父親は自分のしていることを土手を通りすぎる人は知られたくなかった。だから、少年をカムフラージュに使っていた。二人で何か、意味のあることをしているふりをさせていたのだ。何をカムフラージュしようとしたのか。この場合、私は野糞しか考えられない。
 このナンセンスが、浜田を解放する。人間はけっきょく同じことをする。働いて、疲れて、食べて、糞をする。それが生きることなのだ。
 最終連。

どのくらい経っただろう、
ふいに少年がしゃべるのをやめた
やや間があって、それからさえずるように言った、
「ほな行こか」
父親も黙って立ち上がった
二人が去って、
川べりからの風がすこし強くなった
あたりは暗くなりかけていた
僕はおもむろに立ち上がり、尻の埃を払った
新幹線のチケットを取り出し、時間を見た
そしてひとりごちてみる、「ほな行こか」
ああ、行こうか

 この対話がいい。独り言が美しい。自分を受け入れている。人間はけっきょく同じことをする。働いて、疲れて、食べて、糞をする。そういうことを受けれて、人間になるのだ。




ある街の観察
浜田 優
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(11)

2009-03-01 00:00:00 | 田村隆一
 『言葉のない世界』の巻頭の詩。「星野君のヒント」。

「なぜ小鳥はなくか」
プレス・クラブのバーで
星野君がぼくにあるアメリカ人の詩を紹介した
「なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」
われわれはビールを飲み
チーズバーグをたべた
コーナーのテーブルでは
初老のイギリス人がパイプに火をつけ
夫人は神と悪魔の小説に夢中になつていた
九月も二十日すぎると
この信仰のない時代もすつか秋のものだ
ほそいアスファルトの路をわれわれは黙っつて歩き
東京駅でわかれた

「なぜ小鳥はなくか」
ふかい闇のなかでぼくは夢からさめた
非常に高いところから落ちてくるものに
感動したのだ
そしてまた夢のなかへ「次の行へ」
ぼくは入つていつた

 「なぜ小鳥はなくか」。この単純なことばに田村は感動した。それを「非常に高いところから落ちてくるもの」と感じた。--そう書いているように見える。そう読めるのだが、私の本能(?)は違うことばに反応してしまう。
 「次の行」。
 星野君が紹介した「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」という2行よりも、「これが次の行だ」に田村が反応しているように思える。
 「なぜ小鳥はなくか」から「なぜ人間は歩くのか」への変化、移行--その飛躍にこそ詩がある。そしてその飛躍は、「なぜ人間は歩くのか」ということばの登場によってはじめて生まれる飛躍である。ただし、その飛躍は「なぜ小鳥はなくのか」ということばが準備したものなのだ。ふたつの行、ふたつのことばは切り離せない。そして、そういう切り離せない関係になったとき、詩が完成する。
 --これでは堂々巡りの感想になってしまう。

 別な言い方を考えてみる。
 星野君の紹介した詩の1行目と2行目は「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」なのか。それとも「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」なのか。私は「なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」をそっくり詩の行と考えたい。
 田村もそう考えたと考えたい。
 ひとつの行が生まれる。どこからともなくやってきて、啓示のように、詩人をつかまえてはなさない。そこから詩人はどこへ行ける。次の行をどう展開できるか。自分自身で「なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」と言い聞かせる。そうして、さらにその次の行を生み出して行く。
 「われわれはビールを飲み」からつづく行は、プレス・クラブのバーの描写に見える。しかし、ほんとうはそうではないかもしれない。プレス・クラブのバーの描写を超越して、「アメリカの詩人」のことばにつなげた田村の詩のことばなのかもしれない。
 星野君の紹介したことばに、どんなことばをつないで行くことができるか。ことばをつなぎながら、どこまでゆくことができるか。

 詩人は事実を書くわけではない。ことばを書く。そして、そのことばにあわせて現実をかえていくのである。どんなに現実らしくみえても、それはことばの世界なのである。
 個人的な体験をひとつ。田村隆一ではなく、柴田基典(基孝)がある日、私にこういった。「本のなかで、『人には欠点がある。ふけ頭とか』という行を見つけた。これを詩に書きたい。次の行は何がいい?」。詩人はことばから出発して、ことばを探す。私はいい答えが思い浮かばなかった。「脂足とか」では近すぎるような気がした。「斜めに歩く癖とか」で、なんとなく落ち着いた。それでよかったかどうかはわからない。柴田が満足したかどうかはわからないが、それがそのまま詩になっている。

 田村も、この詩をそんなふうに書いているのではないか。
 「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか これが次の行だ」。そして、それが「次の行」なら、さらに次の行は……。
 「初老のイギリス人が……」からの4行は、私には西脇順三郎が書きそうなことばに見える。その4行を西脇が書いたといっても、私は不思議には感じない。とくに「九月も……」からの感慨を述べた2行は西脇の口調そのままに感じられる。その4行は、田村が、その場でであった風景というよりも、ひたすらことばを探して書きつづけた4行に見える。その風景が事実だったとしても、彼の見た光景がそのことばになったというよりも、田村のことばがそう光景を選びとったのだという印象がある。
 田村が「入つていつた」のは、あくまで「次の行」である。目の前の光景ではなく、「次の行」--ことばのなかへ入っていくのだ。

 「次の行」。それは前の行を引き継ぎながら、実は引き継がない。むしろ、前の行を否定し、破壊し、その行が見落としてきたもの、その行が隠してしまった何かを探し出す。「なぜ小鳥はなくか/なぜ人間は歩くのか」という高尚な疑問は、俗な人間の生活を隠す。つまり「ビールを飲み/チーズバーグをたべ」るというような「日常」を一瞬忘れさせる。だからこそ、そういう「忘れさせられたもの」、ことばによって隠されたいのちの生の姿を次の行にもってくることで、世界をひっかきまわす。笑いと淋しさを噴出させる。さらに初老の老人と夫人の一種の倦怠をつづける。そのあとに、また高尚な(?)気分に戻るように感慨を書きつらねる。
 そのじぐざぐの運動。
 弁証法のように、対立-止揚-発展ではなく、上昇ではなく、ここでは水平に広がるいのちのあり方が、そのじぐざぐのなかに実現されている。

 ことばはいのちのあり方を実現する方法である。詩人はいつも「次の行」のなかへだけ入っていく。


チョコレート工場の秘密 (児童図書館・文学の部屋)
ロアルド・ダール
評論社

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