詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

朝吹英和『時空のクオリア』

2009-03-24 09:27:31 | その他(音楽、小説etc)
朝吹英和『時空のクオリア』(ふらんす堂、2008年10月25日発行)

 私は俳句のことはまったくわからない。ことばだから、読むことは読む。しかし、きっと「俳句の常識」を逸脱して読んでいると思う。だから、これから書く感想も、きっと俳句を書いている人、読み慣れている人には的外れな印象を呼び起こすだろうと思う。

 本のなかほどに、田中裕明『夜の客人』の批評が書いてある。そこで取り上げられている句がとてもすばらしい。冒頭に取り上げてある、

いつまでも旅の時間や水草生ふ

 この一句で、もう田中の作品に夢中になってしまう。「いつまでも」が「水草生ふ」によって「いのち」のように動いていく。「旅の時間や」という「切れ」を破って、「水草」のなかにある「いのち」の時間が、季節を繰り返し繰り返し、永遠をひきよせる感じがする。「水草」のなかに、「生ふ」という動詞のなかに、凝縮し、同時にどこまでも解放されて、自由にひろがっていく感じがする。
 朝吹は、この句について、

 「旅の時間」(略)といった非日常の世界への思いと、現実とを行きつ戻りつする心象の揺れ。喚起力を秘めた季語との触れ合いによって増幅された心象の綾は、何時しか幻想的な世界へ投影される。

 と、書いている。
 あ、幻想か。
 私には思いつかないことばである。
 幻想ねえ……と私は、もう一度つぶやいて、ちょっと、違和感をおぼえる。俳句がわからない、というのは、こういう瞬間のことである。
 私にはむしろ、田中の句は「幻想」から遠い。「旅の時間」という、一種抽象的で、よくわからないものが、「水草」「生ふ」という動詞によって、ぐいと近づき、リアルなものになる。
 私には、この句は、田舎の田んぼのわきを歩いているときの実感につながる。田舎の田んぼのわきを歩くことは「旅」ではないのだけれど、そのとき、「水草」を見て、それが春に(たぶん)、また生えてきているのを見て、繰り返し繰り返し季節がめぐってきているのを実感し、その瞬間に、あ、こういうことを感じるのが「旅」なんだなあ、と思う。いつでもそこにあるのに、見落としている。しかし、それをふとそれに気がつく。それはどこかへ旅することと同じなんだなあ、と思う。
 --逆に言うと(逆に言うと、というのは変な言い方かもしれないけれど)、旅に出て、名所・旧跡を見ても、それは「旅」にはならないんだろうなあ、と思う。目新しいものではなく、いつも見ていたはずのもの、見ていたけれど気がつかなかったものに出会った時が、きっと旅なんだろうなあ、と思う。
 そのとき、「田舎の田んぼ道」と「知らない土地」が「肉体感覚」そのものとして「ひとつ」になる。「旅の時間」と「日常の時間」が「ひとつ」にとけあう。
 そんな感じ。
 それは、私にとっては、「幻想」ではない。

 朝吹の取り上げている句はどれもとてもおもしろい。けれど、朝吹の批評は、私の印象では、彼が取り上げている句について語っているというよりも、なんだか朝吹自身のことを語っているようにも思える。取り上げている俳句よりも、もっとほかのことが語りたくて、その出発点として俳句を読んでいるという感じがする。
 たとえば、田中の句に対しては「幻想」ということばをつかいたくて、田中の句を引用しているような印象が残る。「幻想」ということばを書き、それを追いつめながら、「幻想」そのもの、「幻想」の構造を書きたいのではないか、という印象が残る。



 朝吹は、俳句と音楽についてもたくさんの文章を書いている。音楽についても非常に詳しい人なのだろう。その文章を読みながら、あ、俳句とは、こんなふうに読むものなのかと、いろいろ教えられる。
 でも、そのせっかく教えてもらったことが、私にはどうにも、苦しい。情報量が多すぎて、俳句って、そんなに情報量が多いものなのかという疑問がわいてきてしまう。俳句よりも、本当は音楽について語りたいのかもしれないなあ、とも思ってしまう。
 よくわからないが、たとえばブルックナーでも、ベートーベンでもいいのだけれど、その交響曲から、一つ一つの音を消していって、最後にのこった音--その音と「私」の出会いのようなものが俳句だろうと私は感じている。いろんな音を、いろんなことばをつみかさねていくと、出会いたい音が、ひとつの音が、「和音」そのものになってしまって、それは俳句とは違うものじゃないかなあ、と私は感じてしまう。

 適当な表現かどうかわからないけれど、朝吹は俳句から出発して、巨大な散文の世界へ歩いていっている感じがする。何かと出会い、その瞬間、それまでの時間が一気に凝縮し、同時にぱっと解き放たれる快感(私が俳句に感じる快感)ではなく、それとは逆の、ことばを積み重ね、積み重ね、その運動の果てに、「いま」「ここ」ではないどこかへ到達する--散文の精神を生きている人だと思った。

 あるいは、俳句は俳句で別の世界を描き、「エッセイ」なので、散文精神を発揮しているのだろうか。それとも、朝吹のような読み方が、いま、俳句の読み方として求められているのだろうか。
 ちょっと、わからない。

時空のクオリア
朝吹 英和
ふらんす堂

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『田村隆一全詩集』を読む(34)

2009-03-24 00:00:00 | 田村隆一
 「物と夢について」にはいくつもの文体が出て来る。

ぼくの不幸は抽象の鳥から
はじまつた
その鳥には具象性がなかつた
色彩も音もなかつた

 冒頭の4行は、高踏的である。緊張感があり、詩ということばが連想させる何かがある。ことばの疾走感。リズム。そういうものがある。

雪のうえに足跡があつた
足跡を見て はじめてぼくは
小動物の 小鳥の 森のけものたちの
支配する世界を見た

 これは具体的である。森と雪と小さな動物たちの姿が具体的に見えて来る。

 さて諸君、ぼくは抽象から脱れるために、疑問符と直線に注目した。では、曲線とはなにか? 曲線のリズムとはなにか? 盲目的なリズムに魅せられて、ぼくの足どりもフォックス・トロットになれば幸いである。

 抽象的、あるいは比喩的な文章である。そして、抽象的であることを自覚し、その抽象性を「フォックス・トロット」--狐の足跡から見つめなおそうとしている。最初に引用した4行を、次に引用した行の世界で批評しようとしている。人間(抽象的な思考をしてしまうもの)を、小さな動物の視点で見つめなおし、批判しようとしている。
 そういう過程を通って、ことばは、次のように結晶する。

鳥の目は邪悪そのもの
彼は観察し批評しない
鳥の舌は邪悪そのもの
彼は嚥下し批評しない

 鳥(小さな動物、生き物)と人間が対比される。小鳥の目は「邪悪」と定義されているが、これは田村流の逆説である。肯定としての「邪悪」である。それは、人間の「抽象」「批評」というような精神の動きを拒絶するという意味である。抽象を否定し、破壊し、拒絶する力への称讃が、「邪悪」ということばで表現されている。
 それはたしかに抽象・批評にたよって生きている人間にとっては有害である。彼を否定して来るからである。
 ここから、田村は、もう一度考えはじめる。鳥が(小さな動物が)、「ぼく」を、つまり「人間」の精神の動きをそんなふうに拒絶するのはなんのためなのか。それには、いったいどういう意味があるのか。
 ここからは、論理の力でことばを動かしていく。

千の針 万の針によって、ぼくはぼくの不幸を告知されたが、それでは降服を 告知してくるものは、いったいなにか? そこで「物」がはじめて現れる。物が生まれて、人間が幸福になるという、見事な例証が、ここにある。物は、人間の手によって産み出され、その産み出されたものが「人間」を造るという、若干逆説的で、しかも美しい有機的な関係を体験するなら、人は人になるだろう。人と物の交りなくして、この世の文化は存在しないからである。

 人間と動物の違いは「物」をつくるかどうかである。そして「物」は「文化」そのものである。動物にも「文化」はあるが、それは特殊な領域であって(動物学から見た世界であって)、人間の「文化」とは違う。人間は、生きるため(生き延びるため)に「文化」をつくるのではなく、「遊ぶ」ために「文化」をつくる。きのう読んだ「毎朝 数千の天使を殺してから」の最後の方にでてきた「遊ぶ」。それが「文化」である。役に立たない--暮らしに役に立たないということよって、人間の「いのち」に役立つなにか。逆説を含んだ何かが「文化」である。
 そういう「論理」の文体をくぐり抜けて、田村は、ミロを、滝口修造を、引用し、つまり他人の視力とことばがつくりだした芸術で、それまでのいくつもの文体を洗い直して、最後に、それまでの文体とは違った次元へ飛翔する。

この世に他界あり、その詩的経験をするためには、
ある晴れた日、
ミロという石版のかがみにむかつて、
飛び込んでみようよ。
たぶん、
ミロの小鳥のように自殺には成功しないだろうが、
ぼくらが
転生
することだけは
たしか。

 「他界」「自殺」「転生」。
 この三つのことばは、私には、とてもなじみがあることばに響く。そのままのことばではなく、次のように言い換えると、それがぐいと身近に感じられる。
 「他界」は「矛盾」である。この世にはほんらい存在しないものである。この世ではないものが「他界」である。
 「自殺」とは「死」である。「破壊」である。
 「転生」とは「再生」「生成」である。
 矛盾→破壊→生成という運動が、ミロをくぐり抜けることで、「他界」「自殺」「転生」ということばに書き換えられているのである。あるいは、補強されているのである。
 あらゆる芸術・文化(遊びのためにつくりだした「物」)は、人間に、いま、ここにあるものではないものの存在を知らせる。ここにないものが、ここにあるというのは論理矛盾だが、そういう論理ではとらえられないものの力で、この世界をつくりあげている枠組み(構造)を破壊・解体する。それは、それまでの自己の死につながるが、その死を経験することで、「自由」を獲得する。自己から逸脱し(エクスタシーである)、「自由」のなかで生まれ変わる。再生・生成・誕生。

 1篇の詩のなかで、いくつもの文体をくぐり抜けながら、ことばでしかたどりつけないものに達する。--詩に到達する。
 いくつもの文体、複数の文体は、文体の乱れと呼ぶこともできるが、その底部を流れるものが乱れていないければ、乱れではない。乱調ではなく、変奏である。変奏を繰り返すことで、浮かび上がって来る「テーマ」というものもある。いくつものことばを生きながら、ほんとうのことばを探しているのである。




青いライオンと金色のウイスキー (1975年)
田村 隆一
筑摩書房

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