詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ブライアン・シンガー監督「ワルキューレ」(★★)

2009-03-25 23:06:51 | 映画
監督 ブライアン・シンガー 出演 トム・クルーズ、ケネス・ブラナー、ビル・ナイ

 第二次大戦の終盤。ヒトラー暗殺計画を描いた作品。
 この映画は、映画として成功させるのは非常に難しい。ヒトラー暗殺がなかったことを誰もが知っている。計画が失敗に終わることは誰もが知ってる。知っているけれど、もしかすると……と思わせる緊迫感をどう演出するか。それが難しい。
 近年の映画で、結末は誰もが知っているけれど、もしかすると違った結末になるんじゃないか、と思わせた映画が1本あった。ポール・グリーングラス監督「ユナイテッド93」(★★★★★)である。9・11テロで墜落した飛行機。その機内の様子、官制のとのやりとりを描いている。墜落したのは誰もが知っている事実であるけれど、乗客が団結してテロリストと戦いコックピットを奪い返す。操縦桿を握る。そのとき、思わず、もしかしたら助かるんじゃないか。映画なんだから、ここで助かってもいいんじゃないか。助かってほしい。思わず、そう祈ってしまう映画であった。映画だとわかっているのに、登場人物の幸福を祈るというのは、エルマノ・オルミ監督「木靴の樹」(★★★★★)のラストシーン以来の体験だった。
 この映画は、そんな気持ちになれない。
 私の偏見かもしれないが、トム・クルーズが暗殺計画をリードする将校には見えないのである。知性の力でひとをリードしていくという雰囲気がない。知性--知性の苦悩というものが感じられない。知性のオーラがない。彼の顔は、知性とは無縁であり、その知性と無縁なところがひとを引きつける力になっている。そのことを監督は誤解している。
 トム・クルーズは、綿密な計画を頭に描き、それにしたがって行動するというよりも、せいぜいが命令に従ってかっこよく動き回る「ミッション・インポシブル」のスパイがせいぜいの役どころである。計画を誰かが立て、それを遂行するという役には、あの知性と無縁の顔が輝く。かっこいい顔の男はこんな行動も楽々できる、と夢を見させてくれる。
 トム・クルーズのまわりには、彼の低い身長が目立たないように小柄な役者をそろえ、それぞれに癖のある顔も配置し、知識人の優越感も、軍人の悲しみもそれぞれに描いているのだが、トム・クルーズだけが、その精神のドラマと無縁なのである。あのヒトラーでさえ、「暗殺計画が実行されようとしている。知っていますか」と教えたくなるような繊細な表情を見せるのに、である。
 キャスティングが間違っているとしか、言いようがない。せめてケネス・ブラナーを計画のリーダーにできなかったものか。
 演出のテンポ、カメラのリズムも、非常にもったりしている。
 トム・クルーズがヒトラーの「巣」からベルリンへ戻る。指揮する。一方、ヒトラーは生きていて、反撃する。トム・クルーズの「命令」とヒトラー側の「命令」が交錯するクライマックスが、実に、たんたんと整理されすぎていて、緊張感がない。ほんとうなら混乱するはずの部分が、まったく混乱しない。暗殺計画が失敗したとわかってからも、実に冷静である。というか、その段階で、次々に「あきらめ」がひろがっていくのだが、その「あきらめ」が期末テストで山が外れてしまったという程度の雰囲気なのである。肝心のトム・クルーズが精神の動きを顔で表現できない役者だからである。中心の人物が「人形」をやっているので、まわりがいくらがんばっても、どうしようもない。
 こういう時は、カメラの、視線の力で映画をつくっていく必要がある。そのテンポが歯切れが悪すぎる。
 またまた思い出すのは、ポール・グリーングラス監督である。「ボーン・アルティメイタム」(★★★★★)。新聞記者が殺されるまでの駅のシーン。マット・デイモンと彼を暗殺しようとする側の人間をカメラが非常に緊迫感をもった映像で伝えている。カメラがマット・デイモンの視線そのものになったり、敵の視線そのものになったりしながら、動きながら空間とひとを浮かび上がらせるからである。ポール・グリーングラス監督はほんとうに天才である。役者に演技させるのではなく、カメラに演技を引き出させるのである。
 この映画、「ワルキューレ」のカメラは、ただ役者が演技するのを待っている。監督もただストーリーをわかりやすく紹介することだけに力をそそいでいる。映画ではなく、紙芝居になっている。

 トム・クルーズやブライアン・シンガー監督には申し訳ないが、ポール・グリーングラス監督がいかに天才であるか、ということを実感するだけの映画であった。



 ブライアン・シンガー監督の「ユナイテッド93」は必見の映画です。「ワルキューレ」を見る時間があるなら、「ユナイテッド93」を見ましょう。 

 
ユナイテッド93 [DVD]

ユニバーサル・ピクチャーズ・ジャパン

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(35)

2009-03-25 00:00:00 | 田村隆一
 「だるい根」はエリオットの「荒地」(中桐雅夫訳)を引用しながらことばを動かしている。この詩が私はとても好きだ。これまで取り上げてきた田村の詩とは少し趣が違っているかもしれない。

「夏はやつてきてわたしたちを驚かせた、
驟雨がスタルンベルガーズ湖を蔽つたのだ」
ぼくが少年だつたとき
このイギリスの長詩の翻訳を読んで
ドイツのミュンヘン郊外の湖を空想した
そして少年時代から青春が灰となつて燃えつきるまで
ぼくはぼくの時代の
驟雨をなんど経験しただろう
不気味な閃光をともなつて暗黒を一瞬のうちに照らしだす
ぼくの内なる驟雨

 ことばからはじまる「空想」。「少年」だった田村はイギリスもドイツも実際には知らないだろう。ことど、地図のうえでの認識があるだけだろう。何も知らない。けれど、ことばは見たことのない「スタルンベルガーズ湖」を目の前に出現させる。
 なぜだろう。
 「驟雨」を田村が知っているからだ。知っているものが知らないものを、まるで、その知らないものまで知っているかのような錯覚に陥らせる。
 だが、田村は、とても正直な詩人だ。知らないものは「空想」のなかだけにとどめておいて、あるいは、その「空想」をサーチライトのように利用して、知っているものを追いつづけはじめる。
 この瞬間、この切り返しが私はとても好きだ。
 見たことのない「スタルンベルガーズ湖」を空想する。しかし、そのとき見ているのは「湖」ではなく、あくまで知っている「驟雨」なのである。
 現実の「驟雨」。そして、「ぼくの内なる驟雨」。現実と、空想ではなく、比喩としての「驟雨」。現実の「驟雨」と、ことばになることによって存在しはじめる「精神・感性の驟雨」。その出会いが、田村自身のことばではなく、中桐が訳したエリオットのことばによって照らしだされる。
 ことばは、場所も時代も超越して、そこにひとつの「場」--現実の場であると同時に精神・感性の場を結晶させる。

一九三〇年代末期の裏町の薄暗い酒場で
長髪の痩せた大学生が薄い文学雑誌を見せてくれたつけ
表紙はピカソのデッサンで
「四月はもつとも残酷な月だ」
まるでぼくらの墓碑銘のように
スタルンベルガーズ湖の夏の驟雨が走りぬける
イギリス人の長詩の冒頭の一行がついていて

「死の土地からライラックの花を咲かせ、
記憶と欲望とを混ぜあわせ、
だるい根を春の雨でうごかす」

ぼくの家の小さな庭にも細いライラックの木があって
その土が死からよみがえる瞬間を告知する「時」がある
その「時」のなかに
ぼくの少年と青年は埋葬されてしまつたが
まだ
だるい根だけは残つている

 詩のことばはさらに、田村の庭の土、ライラックともつながる。それはすべてエリオットが書いた土、ライラックではない。けれど、ことばは、遠い空想の土地やライラックとではなく、現実に知っている土地、ライラックと結びつき、田村を刺激する。
 エリオットの書いた(中桐の訳した)土、ライラックと、田村が知っている土、ライラックのあいだ、ことばが結びつける見知らぬものと実際に知っているもののあいだで、田村は「比喩」「象徴」としての「だるい根」をみつける。

 いや、「だるい根」ではなく、「だるい」を見つける--と言い換えた方がいいかもしれない。「だるい」が「根」と結びつき、そこに、いままで存在しなかったものを浮かび上がらせる。そういうことができるということばの可能性をみつける、と言った方がいいかもしれない。

 ことばはいつでも、ことばでしか表現できないものへと向かって動いていく。
 そしてことばを読むとは、あるいはことばを書くとは、そこに書いてあることを事実として知るということをとおして、ことばの動かし方、ことばの書き方を発見することなのだ。
 詩とは、結局、ことばへの批評なのだ。

 --そんなことは、この詩には書いてない。ここには、エリオットの詩に出会った時の思い出が、刺激された精神の記憶が抒情として書かれている、と読むべきなのかもしれない。
 けれども、私は、そういうことを通り越して、詩とは何か、どんなふうに書くものかということが、ここに書かれているように感じてしまう。



現代の詩人〈3〉田村隆一 (1983年)
大岡 信,谷川 俊太郎
中央公論社

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする