監督 デヴィッド・リーン 出演 ピーター・オトゥール、アレック・ギネス、オマー・シャリフ
映画は生き物である。つくづく、そう思った。かつて大画面で見た砂漠の感動を確かめるために見に行ったのだが、期待外れだった。
理由はいくつかある。ひとつは、画面の大きさである。私はKBCシネマ2(福岡市)で見たのだが、画面が小さい。スクリーンが小さいために、砂漠の広大な感じがしない。風に吹かれた砂がスクリーンから舞ってくるという感動が、 100席程度の劇場では、不可能なのだ。広大な自然を映し出すには広大なスクリーンが必要なのだ。小さいスクリーンだと砂漠が閉じ込められてしまう。風に吹かれた砂も、スクリーンのなかだけで、繊細に動く。
ふたつめ。観客の熱気。花見のシーズンと重なったためか、観客が少なかった。そして、見に来ている観客は、たぶん、この映画がはじめてではない。みな、昔の感動を求めてやってきている。どんな映画だろうという期待がない。劇場の空気が、はじめての上映のときに比べて冷めている。スクリーンを、その映像を盗んでやる、というような熱気がない。見逃したら、観客の誰かにスクリーン全体が盗まれてしまう、というような不安感がない。
映画はひとりで見るものではない。その点が読書と決定的に違う。ひとつのスクリーンを大勢で奪い合ってみるものなのだ。奪い合う気持ちが「共有」へと変わっていくとき、感動になるのもなのだ。
「なまもの」という気持ちがなかったせいか(?)、気づいたことがいくつかある。ひとつは、デヴィッド・リーンは「構図」の監督であるということ。映像がしっかりした構図をもっていて、それが「美」を支えている。
最初のタイトルバックのシーンが象徴的である。ピーター・オトゥールがオートバイに乗るまで。カメラはバイクとピーター・オトゥールを俯瞰している。画面の左隅にバイクがあり、右4分の3は空白である。その空白にタイトルや出演者の名前が出る。出演者の文字が画面を壊さないように工夫しているのである。
ただ、この構図意識は、画面を窮屈にしている。きれいにおさまりすぎて、荒々しさに欠ける。砂漠も、人間を襲う、人間を拒絶するという印象がない。ぎらつく太陽の光の強さには、あらためて感動したけれど、それでも、広大な砂漠越えのシーンでさえ、必ず砂漠を渡り切れるという印象がする。(映画を見て、ストーリーを知っているからではない。)スクリーンの両端がきれいに構図になりすぎている。(スクリーンの大きさとも関係がない。)駱駝の隊列があまりにも美しい構図になっている。地平線が静かすぎる。
少年が底無し砂(?)というか、蟻地獄のような場所に落ちて死んでいくシーンでさえ、悲しみや絶望が伝わって来ない。円錐形の砂の流れる形が、あ、美しいと思ってしまうのだ。
たぶん、「アラビアのロレンス」以降、いくつもの砂漠を見ているということも影響しているかもしれない。オーストラリア映画の、前景と遠景だけで中景のない遠近感とか、「シェルタリングスカイ」(ベルナルド・ベルトルッチ監督、★★★★★)の泥のような砂漠とか……。デヴィッド・リーン監督に対抗して、さまざまな監督が砂漠を生々しく撮った。そのため、デヴィッド・リーン監督の砂漠には「美」しか残らなかった、ということかもしれない。(こういう変質は、ある意味では、デヴィッド・リーン監督の功績?かもしれないけれど。)
もうひとつ、気がついたこと。これは映画そのものというよりも、私の方の変質というべきものである。あ、アラビアのロレンスというのは英雄ではないのだ。人間なのだ。苦悩したのだ--という、昔は見えなかったものがくっきりと見えた。アラビアのロレンスの人物評価が分かれるのは知ってはいるけれど、映画でも、とてもくっきりその評価の分かれる部分を描いていた。--あたりまえのことかもしれないけれど、人物評価(批評)というようなものは、若いときにはさっぱりわからないものである。そのことが、わかった。
映画はロレンスの生涯を描くふりをして、ロレンスの人物批評をやっている。台詞回しのくっきりした口調など、昔の映画だから、という理由を通り越して、しっかりとことばを聞かせるために(批評の形を正確に知らせるために)、あえてそんな語り口にさせているのだとさえ思えた。ロレンスの行動だけでなく、イギリス政治、中東の政治そのものをも批評している。そして、「コーラン」の、あるいは「コーラン」を手に砂漠を生きる人々への愛を語っている。ローレンスが彼等を愛した以上にデヴィッド・リーン監督は砂漠を生きる人々を愛している。そのために、その舞台である砂漠をあくまでも美しく描いたのだということがわかる。
この映画を、そういう視点から眺めると、この映画は一転して「傑作」になる。映像は、いまとなっては物足りないが、人物批評としての映画と見るなら、これはすごい。デヴィッド・リーン監督は、異文化というものをきちんと評価できる人間なのだとあらためて思った。「インドへの道」を突然、もう一度、見てみたいと思った。
映画は生き物である。つくづく、そう思った。かつて大画面で見た砂漠の感動を確かめるために見に行ったのだが、期待外れだった。
理由はいくつかある。ひとつは、画面の大きさである。私はKBCシネマ2(福岡市)で見たのだが、画面が小さい。スクリーンが小さいために、砂漠の広大な感じがしない。風に吹かれた砂がスクリーンから舞ってくるという感動が、 100席程度の劇場では、不可能なのだ。広大な自然を映し出すには広大なスクリーンが必要なのだ。小さいスクリーンだと砂漠が閉じ込められてしまう。風に吹かれた砂も、スクリーンのなかだけで、繊細に動く。
ふたつめ。観客の熱気。花見のシーズンと重なったためか、観客が少なかった。そして、見に来ている観客は、たぶん、この映画がはじめてではない。みな、昔の感動を求めてやってきている。どんな映画だろうという期待がない。劇場の空気が、はじめての上映のときに比べて冷めている。スクリーンを、その映像を盗んでやる、というような熱気がない。見逃したら、観客の誰かにスクリーン全体が盗まれてしまう、というような不安感がない。
映画はひとりで見るものではない。その点が読書と決定的に違う。ひとつのスクリーンを大勢で奪い合ってみるものなのだ。奪い合う気持ちが「共有」へと変わっていくとき、感動になるのもなのだ。
「なまもの」という気持ちがなかったせいか(?)、気づいたことがいくつかある。ひとつは、デヴィッド・リーンは「構図」の監督であるということ。映像がしっかりした構図をもっていて、それが「美」を支えている。
最初のタイトルバックのシーンが象徴的である。ピーター・オトゥールがオートバイに乗るまで。カメラはバイクとピーター・オトゥールを俯瞰している。画面の左隅にバイクがあり、右4分の3は空白である。その空白にタイトルや出演者の名前が出る。出演者の文字が画面を壊さないように工夫しているのである。
ただ、この構図意識は、画面を窮屈にしている。きれいにおさまりすぎて、荒々しさに欠ける。砂漠も、人間を襲う、人間を拒絶するという印象がない。ぎらつく太陽の光の強さには、あらためて感動したけれど、それでも、広大な砂漠越えのシーンでさえ、必ず砂漠を渡り切れるという印象がする。(映画を見て、ストーリーを知っているからではない。)スクリーンの両端がきれいに構図になりすぎている。(スクリーンの大きさとも関係がない。)駱駝の隊列があまりにも美しい構図になっている。地平線が静かすぎる。
少年が底無し砂(?)というか、蟻地獄のような場所に落ちて死んでいくシーンでさえ、悲しみや絶望が伝わって来ない。円錐形の砂の流れる形が、あ、美しいと思ってしまうのだ。
たぶん、「アラビアのロレンス」以降、いくつもの砂漠を見ているということも影響しているかもしれない。オーストラリア映画の、前景と遠景だけで中景のない遠近感とか、「シェルタリングスカイ」(ベルナルド・ベルトルッチ監督、★★★★★)の泥のような砂漠とか……。デヴィッド・リーン監督に対抗して、さまざまな監督が砂漠を生々しく撮った。そのため、デヴィッド・リーン監督の砂漠には「美」しか残らなかった、ということかもしれない。(こういう変質は、ある意味では、デヴィッド・リーン監督の功績?かもしれないけれど。)
もうひとつ、気がついたこと。これは映画そのものというよりも、私の方の変質というべきものである。あ、アラビアのロレンスというのは英雄ではないのだ。人間なのだ。苦悩したのだ--という、昔は見えなかったものがくっきりと見えた。アラビアのロレンスの人物評価が分かれるのは知ってはいるけれど、映画でも、とてもくっきりその評価の分かれる部分を描いていた。--あたりまえのことかもしれないけれど、人物評価(批評)というようなものは、若いときにはさっぱりわからないものである。そのことが、わかった。
映画はロレンスの生涯を描くふりをして、ロレンスの人物批評をやっている。台詞回しのくっきりした口調など、昔の映画だから、という理由を通り越して、しっかりとことばを聞かせるために(批評の形を正確に知らせるために)、あえてそんな語り口にさせているのだとさえ思えた。ロレンスの行動だけでなく、イギリス政治、中東の政治そのものをも批評している。そして、「コーラン」の、あるいは「コーラン」を手に砂漠を生きる人々への愛を語っている。ローレンスが彼等を愛した以上にデヴィッド・リーン監督は砂漠を生きる人々を愛している。そのために、その舞台である砂漠をあくまでも美しく描いたのだということがわかる。
この映画を、そういう視点から眺めると、この映画は一転して「傑作」になる。映像は、いまとなっては物足りないが、人物批評としての映画と見るなら、これはすごい。デヴィッド・リーン監督は、異文化というものをきちんと評価できる人間なのだとあらためて思った。「インドへの道」を突然、もう一度、見てみたいと思った。
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