詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

デヴィッド・リーン監督「アラビアのロレンス」(完全版)(★★あるいは★★★★★)

2009-03-28 22:48:18 | 映画
監督 デヴィッド・リーン 出演 ピーター・オトゥール、アレック・ギネス、オマー・シャリフ 

 映画は生き物である。つくづく、そう思った。かつて大画面で見た砂漠の感動を確かめるために見に行ったのだが、期待外れだった。
 理由はいくつかある。ひとつは、画面の大きさである。私はKBCシネマ2(福岡市)で見たのだが、画面が小さい。スクリーンが小さいために、砂漠の広大な感じがしない。風に吹かれた砂がスクリーンから舞ってくるという感動が、 100席程度の劇場では、不可能なのだ。広大な自然を映し出すには広大なスクリーンが必要なのだ。小さいスクリーンだと砂漠が閉じ込められてしまう。風に吹かれた砂も、スクリーンのなかだけで、繊細に動く。
 ふたつめ。観客の熱気。花見のシーズンと重なったためか、観客が少なかった。そして、見に来ている観客は、たぶん、この映画がはじめてではない。みな、昔の感動を求めてやってきている。どんな映画だろうという期待がない。劇場の空気が、はじめての上映のときに比べて冷めている。スクリーンを、その映像を盗んでやる、というような熱気がない。見逃したら、観客の誰かにスクリーン全体が盗まれてしまう、というような不安感がない。
 映画はひとりで見るものではない。その点が読書と決定的に違う。ひとつのスクリーンを大勢で奪い合ってみるものなのだ。奪い合う気持ちが「共有」へと変わっていくとき、感動になるのもなのだ。

 「なまもの」という気持ちがなかったせいか(?)、気づいたことがいくつかある。ひとつは、デヴィッド・リーンは「構図」の監督であるということ。映像がしっかりした構図をもっていて、それが「美」を支えている。
 最初のタイトルバックのシーンが象徴的である。ピーター・オトゥールがオートバイに乗るまで。カメラはバイクとピーター・オトゥールを俯瞰している。画面の左隅にバイクがあり、右4分の3は空白である。その空白にタイトルや出演者の名前が出る。出演者の文字が画面を壊さないように工夫しているのである。
 ただ、この構図意識は、画面を窮屈にしている。きれいにおさまりすぎて、荒々しさに欠ける。砂漠も、人間を襲う、人間を拒絶するという印象がない。ぎらつく太陽の光の強さには、あらためて感動したけれど、それでも、広大な砂漠越えのシーンでさえ、必ず砂漠を渡り切れるという印象がする。(映画を見て、ストーリーを知っているからではない。)スクリーンの両端がきれいに構図になりすぎている。(スクリーンの大きさとも関係がない。)駱駝の隊列があまりにも美しい構図になっている。地平線が静かすぎる。
 少年が底無し砂(?)というか、蟻地獄のような場所に落ちて死んでいくシーンでさえ、悲しみや絶望が伝わって来ない。円錐形の砂の流れる形が、あ、美しいと思ってしまうのだ。
 たぶん、「アラビアのロレンス」以降、いくつもの砂漠を見ているということも影響しているかもしれない。オーストラリア映画の、前景と遠景だけで中景のない遠近感とか、「シェルタリングスカイ」(ベルナルド・ベルトルッチ監督、★★★★★)の泥のような砂漠とか……。デヴィッド・リーン監督に対抗して、さまざまな監督が砂漠を生々しく撮った。そのため、デヴィッド・リーン監督の砂漠には「美」しか残らなかった、ということかもしれない。(こういう変質は、ある意味では、デヴィッド・リーン監督の功績?かもしれないけれど。)
 もうひとつ、気がついたこと。これは映画そのものというよりも、私の方の変質というべきものである。あ、アラビアのロレンスというのは英雄ではないのだ。人間なのだ。苦悩したのだ--という、昔は見えなかったものがくっきりと見えた。アラビアのロレンスの人物評価が分かれるのは知ってはいるけれど、映画でも、とてもくっきりその評価の分かれる部分を描いていた。--あたりまえのことかもしれないけれど、人物評価(批評)というようなものは、若いときにはさっぱりわからないものである。そのことが、わかった。
 映画はロレンスの生涯を描くふりをして、ロレンスの人物批評をやっている。台詞回しのくっきりした口調など、昔の映画だから、という理由を通り越して、しっかりとことばを聞かせるために(批評の形を正確に知らせるために)、あえてそんな語り口にさせているのだとさえ思えた。ロレンスの行動だけでなく、イギリス政治、中東の政治そのものをも批評している。そして、「コーラン」の、あるいは「コーラン」を手に砂漠を生きる人々への愛を語っている。ローレンスが彼等を愛した以上にデヴィッド・リーン監督は砂漠を生きる人々を愛している。そのために、その舞台である砂漠をあくまでも美しく描いたのだということがわかる。
 この映画を、そういう視点から眺めると、この映画は一転して「傑作」になる。映像は、いまとなっては物足りないが、人物批評としての映画と見るなら、これはすごい。デヴィッド・リーン監督は、異文化というものをきちんと評価できる人間なのだとあらためて思った。「インドへの道」を突然、もう一度、見てみたいと思った。


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『田村隆一全詩集』を読む(38)

2009-03-28 01:04:23 | 田村隆一
 『水半球』には「木」がたくさん出てくる。「木」というタイトルのものもある。

木は黙っているから好きだ
木は歩いたり走ったりしないから好きだ
木は愛とか正義とかわめかないから好きだ

ほんとうにそうか
ほんとうにそうなのか

見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で
木は歩いているのだ 空に向かって
木は稲妻のごとく走っているのだ 地の下へ
木はたしたにわめかないが
木は
愛そのものだ それでなかったら小鳥が飛んできて
枝にとまるはずがない
正義そのものだ それでなかったら地下水を根から吸いあげて
空にかえすはずがない

若木
老樹

ひとつとして同じ木がない
ひとつとして同じ星の光りのなかで
目ざめている木はない


ぼくはきみのことが大好きだ

 「意味」がとても強い詩である。「意味」とは、ことばを利用して姿をととのえる論理、見えないもののことである。「意味」とは、論理をととのえる力である。私たちの意識はいつも乱れている。右往左往する。それをととのえるのが「意味」の力である。「意味」に価値があるのではなく、ととのえる力に価値がある。

 この詩の、いちばん不思議なところは、そして、誰もたぶん不思議と思わずに、無意識に読んでしまう行、あるいは、その展開は、

見る人が見たら
木は囁いているのだ ゆったりと静かな声で

 という2行である。「見る人が見たら」というのは慣用句である。誰もがつかう。見る人が見れば、わかる、と。それが慣用句であるために、たぶん見落とすのだが、この2行には飛躍がある。逸脱がある。
 「見る」とは「わかる」、「見える」とは「わかる」ということだが、田村は、その「見る」を「わかる」という精神の動きではなく、「聞く」へと動かしていく。感覚をずらしている。視覚と聴覚を融合させ、そういう融合のありようが、「わかる」ということなのだと告げている。
 田村は「聞く」ということばのかわりに「囁く」「声」という表現をつかっているのだが。
 「囁く」(囁き)、「声」を認識する、識別する、「わかる」のは「見る」機能をになっている「目」ではなく、「耳」である。
 田村は、木を見ながら、耳を働かせている。目から逸脱して、耳で木をとらえている。そして、その逸脱--見ているはずなのに聞いているという状態を通るために、そこから「世界」が変化しはじめる。視覚と聴覚がとけあい、肉体のなかで感覚の融合がはじまるので、

木は歩いているのだ 空にむかって

 という、普通の目には見えないものを見る。感覚の融合、肉体の機能の融合が、普通に言われている目で見えるものを超えて、普通には存在しないものを見てしまう。融合した肉体が、見えないものを見てしまう。

 そして、そういう普通は存在しない状態を出現させるのが、ことばである。
 このとき、ことばは「肉体」を通っている。「肉体」がすべてを融合させ、解放するのである。私たちの目も耳も体から分離できない。それは、それが独立していながら、同時に互いに何かを、ことばにならないなにかを、共有し、その共有する力で、硬くつながっているということでもある。
 硬くつながり、深いところで溶け合っているにもかかわらず、私たちは便宜上、「目」「耳」とその一部を呼び、そして「見る」「聞く」という機能を割り振って分類している。
 ところが、それはほんとうは、肉体の中のどこかでは「未分化」なのである。
 その「未分化」の「場」をくぐり抜けるとき、「目」は「肉眼」になる。「耳」は「肉耳」(?--こんなことばはないけれど)になる。そして、そういう「未分化」の肉体をとおしてふれあったものを、人間は「大好き」になる。
 「好き」とは、「未分化」の「肉体」の叫びなのである。「愛」とは、「未分化」の「肉体」のいのりなのである。

 そういうことを踏まえて、『水半球』の巻頭の「祝婚歌」は読むべきである。ここにも「木」が出てくる。

おまえたち
木になれるなら木になるべし

おまえたち
水になれるなら水になるべし

(略)

ただし人の子が人になるためには
木のごとく
水のごとく
そして(ここが重要なのだが)
木にならず
水にならず
鳥にならず

言語によって共和国をつくらざるべからず
人よ 人の子よ
ぼくをふくめておまえたちの前途を心から
祝福せん
されば

 これは、「未分化」の「肉体」への勧めである。「愛」とは「肉体」を発見するためのさけては通れない「場」である。



現代の詩人〈3〉田村隆一 (1983年)
大岡 信,谷川 俊太郎
中央公論社

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