詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

韓成禮『光のドラマ』(2)

2009-03-05 12:25:44 | 詩集
韓成禮『光のドラマ』(2)(書肆青樹社、2009年03月01日発行)

 「ロータリーは回る」という作品がある。その1連目。

時計台の立つロータリーの真ん中
遠い道を息を切らして駆けて来た馬の群れが
横断歩道の信号の横に止まって立っている
東京の真ん中、高田馬場、マルジュクコリ
今やっと駆けて来た馬 ゆったりとしている馬 ほっと一息つく馬

 東京のど真ん中に馬の群れが駆けて来ることはない。けれども「高田馬場」という地名に会ったとたんに、韓成禮の「肉体」のなかに、「馬」があらわれる。まるで時間が逆流したかのようだ。「いま」をたたき割って、馬が群れていた時間が噴出して来る。そして、不思議な「場」として広がる。その「ここ」ではない、過去、あるいは歴史の場の出現は、「ここ」を突き破って、ソウルに直結する。「マルジュクコリ」。これはソウルの通りの名前で「馬に餌をやる通り」。高田馬場とマルジュクコリが「馬」でつながり、時間を超える。
 地名--地名という「地霊」、人間が土地に与えた力が、逆に、土地から人間へと逆噴射して来る。
 韓成禮は、こういう不思議な力を呼吸する。大地そのものを呼吸し、大地と(自然と)一体になる。雪の露天風呂で、母と水子と、温泉と羊水が一体になったように、地名と、場所と、馬と、人間と、今と、過去と、東京と、ソウルが融合する。人間が「名前」を思いつくことの力、名前によって(ことばによって)、大地やその他に対して与えた力を呼吸し、人間であることを超越する。人間であることを超越するという言い方が変であるなら、自分だけの「いのち」ではなく、無数の人間の「いのち」につながるといえばいいのだろうか。
 東京のど真ん中で「馬」を見るとき、韓成禮は「見る人間」であるだけではなく、「馬」そのものになっている。「水子」で、韓成禮はまぼろしの「母」であり、同時に「水子」自身であったように、ここでも人間であり、同時に馬なのだ。その「場」は東京であり、同時にソウルなのだ。そして、「場」が東京とソウルと複数であるように、人間や馬は、「ひとり」、あるいは「一頭」ではなく、「群れ」なのである。
 2行目に、韓成禮は「馬の群れ」と書いているが、この「群れ」、複数の存在こそが韓成禮の「思想」のように私には感じられる。韓成禮に「孤独」というものがあるとすれば、それは「群れ」を知っているからこその「群れ」である。「悲しみ」「喜び」などの感情も、それは「感情の群れ(複数の融合)」を知っているからこそのもの、他の感情と絡み合って、絡み合うことで、一つの感情のなかの余分なもの(?)をふりしぼるようにして、透明になってくるものなのだ。

一匹の馬が群れに遅れる
その馬を視野の中に引っぱる
独りの女が携帯電話を耳に当てて
途中で赤信号に変わってもそのまま
腕を組んだ若いカップル
女が男の耳たぶに唇を当ててささやく
ぴんと立つ男のたてがみ
夜来の生臭い花のにおいをかいで
女は風になびく長い髪の毛を
腰をねじって、背中の方に掻き送る

 馬なのか、人間なのか、男なのか、女なのか。区別のつかない「群れ」がうごめき、そこに単独ではとらえられない「いのち」が疾走する。そこにはいろいろなもの、「複数」が混在しているはずなのに、感じるのは「複数」(群れ)であるよりも、その「群れ」をつらぬいて存在してしまう「いのち」そのもの。
 不思議だ。

 「馬」を描いたもう一篇、「野生馬保護地域」も、とてもおもしろい。「いのち」が、なにものかに分類される前のいのち、たとえば男・女、東京・ソウル(ここでは、モンゴル・フステインルルという地名が出て来るが)に分類される前のいのちが、ぐい、と前に出て来る。

一日中 岩の横に一頭だけ立ち
じっと遠い空を見つめている
モンゴル・フステインルルの野生馬たち
野生馬保護地区で
保護されることを頑に拒否する姿勢
寂しければ寂しいほどさらに楽になり
一人でもよく遊ぶんだ!
お願いだから、私の生に割り込まないでくれ!
瞬きもしない大きな目が
そう言っている

 「一頭だけ」(1行目)なのに「野生馬たち」(3行目)と複数であることの矛盾を超越した生き方。「保護地区」にいながら「保護」を拒否するという姿勢で存在することの矛盾を超越したいのち、いのちの意志。その強い輝き。
 「群れ」--複数の存在として生きながら、複数であることを拒絶するいのち。そのことをなんと呼ぶか。韓成禮は「自由」と呼ぶ。

生んだばかりの自分の子も
人の手が触れればその異臭を嫌い
それに耐えることができず
噛み殺してしまう
野生馬はただ自由が必要なのだ
水や空気のように淡白な自由

 野生馬を書いているとき、韓成禮は人間ではなく、野生馬なのだ、とつくづく思う。


 
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『田村隆一全詩集』を読む(15)

2009-03-05 00:00:00 | 詩集
 「腐敗性物質」に強烈に胸に響いて来ることばがある。書き出し部分。

魂は形式
魂が形式ならば
蒼ざめてふるえているものはなにか

 3行目に登場する「なにか」である。問いかけるとき、私たちは、たいてい「答え」を知っている。知っているけれど、それは予感として知っているだけで、それがほんとうに知っていることかどうかわかるのは、ずーっと先のことである。それが自分にとってどんな役割を果たすのか、自分をどう動かしていくのかわかるのも、もちろんずーっと先のことである。
 わからないけれど、知っている。--これは矛盾だけれど、それが矛盾であるからこそ、ひとはそれを信じることができる。問いかけながら先へ進むことができる。問いかけることは、精神の推進力なのだ。
 わからないけれど、知っているものがある。知っているからこそ、それを確かめるために精神は動く。つまり、ことばは動く。

魂は形式
魂が形式ならば
蒼ざめてふるえているものはなにか
地にかがみ耳をおおい
眼をとじてふるえているものはなにか
われら「時」のなかにいて
時間から遁れられない物質
われら変質者のごとく
都市のあらゆる窓から侵入して
しかも窓の外にただずむもの
われら独裁者のごとく
感覚の王国を支配するゴキブリのひげ
われら
さかさまにしか世界を観察しない鳥の眼
やさしい殺人者の鳶色の眼
針の先端にひかる歯科医の瞳孔
われら
蜻蛉の細い影
一枚の木の葉
一粒の小石
われらひとしなみ蒼ざめてふるえるもの

 ここまで読んで「なにか」とは「われら」であることがわかる。ただし、その「なにか」が「われら」であることを知っているだけで、それが実際に「なに」であるかは、わからない。「われら」は「変質者」であり、「独裁者」であり、「ゴキブリ」でもあれば、「殺人者」「歯科医」でも、「木の葉」「小石」でもある。
 --そんなことはありえない。そんなふうに「複数」ではありえない。だいたい「ゴキブリ」であり、同時に「殺人者」であり、「小石」であることなど、論理的に矛盾している。
 そうなのだ。矛盾しているのだ。だから、書くのだ。
 田村はいつでも矛盾を書く。矛盾していることだけを書く。
 なぜか。それは、矛盾をたたき壊すためである。
 でも、どうやって?
 ここでは、「捨てる」という方法をとっているのだと私は思う。「変質者」からはじまり、「小石」まで、いろいろな存在が「われら」として書かれている。しかし、そのひとつひとつは、「われら」とどういう関係にあるのか書かれていない。「蒼ざめてふるえている」という、とても抒情的な(気分的な)ことばで、あるいは「魂」ということばで統一されようとしているけれど、その「統一のための径路」は何一つ書かれていない。これは、それらを結びつけるためではなく、捨てるためだからである。
 「変質者」を捨てる。「独裁者」を捨てる。「ゴキブリ」を捨てる。「鳥」を「殺人者」を「歯科医」を「木の葉」を「小石」を捨てる。ただし、捨てるといっても、その存在を消してしまうというのではない。それらの存在を通り抜けて、それらの存在とは違うもののなかへ入っていくということである。そういう変化(移動)のなかで、「変質者」から「小石」までが、「存在」(もの)ではなく、「時間」になる。捨てるということは、「時間」を手に入れるということなのである。そして、そうやって手に入れた「時間」を別なことばでいえば、それは「変化」になる。
 矛盾とは、変化という運動のために絶対に必要なものだ。
 ただし、この変化は、見せ掛けのものである。「矛盾は変化という運動のために必要なものだ」と言ってしまえば、それは弁証法になる。矛盾→止揚→発展、矛盾→止揚→発展という永久運動になってしまう。それは変化ではなく、「発展」という近代化の遺産としての運動である。
 そこのとを、田村は、次のように書いている。

動かないもの
不動のもの
変化しないものはない
この王国になにひとつとしててい
死者でさえ死に向かつて動く
死にむかつて変化する
死にむかつて分解し溶解する
おお 瞬時に消えるもの
われら瞬時に消え
分解し
溶解するもの
だがそれは
変化のなかの変化にすぎない
それは変化ではない
真の変化ではない

 田村は「変化」と「真の変化」を区別している。そういう区別があることを(区別しなければならないことを)、田村は知っている。しかし、それはどういうものかわからない。「なにか」としか言いようがない。その「なにか」にことばが正確にぶつかるまで、ことは「真」ではないと拒絶し、捨て去っていくしかない。
 「真の変化」は次のように書かれている。

(岩がほしい
 変化に耐えて真に変化するものがほしい
 岩そのものがほしい
 その岩から
 岩そのものの声を
 生きているものの行為を
 野獣の性的な叫びを
 ある夏の日の虫の羽音
 日と夜を裂く稲妻の光を聞きたい)
          (谷内注 「虫の羽音」の「羽」は、原文は「支」+「羽」) 

 「変化に耐える変化」。これは言語矛盾である。「岩そのもの」となれば、そこには「変化」が入り込む余地はない。ここに書かれていることが矛盾でなくなるのは、今、ここにある「岩」が、いくつもの概念(人間のことば)で汚染されたものであり、田村が「ほしい」と言っているのは、そういう「今」ここにある「岩」ではなく、何者にも汚染されていない「岩」と考えるときである。
 田村は「岩」をたたきわり、「岩」というときに人間が抱いてしまう概念をたたき割り、「岩」に帰りたいのである。帰ることを欲しているのである。「その岩から」の「から」が重要である。この「から」は「なかから」の省略形である。「から」にたどりつくためには、それを叩き割る、つまり破壊する必要がある。
 「岩」のなかに田村はなにがあると感じているのか。「野獣の性的な叫び」「虫の羽音」「稲妻の光」などだ。しかも、光を「見たい」ではなく「聞きたい」と田村は書く。この「聞きたい」は「叫び」「羽音」を聞きたいということばに引きずられたものではあるけれど。
 こういうものは科学の世界では否定されているものである。科学の知識は、そういうものを否定するが、田村は、そういうものが存在すると「知っている」。ただし、それがどんなふうに証明できるかは「わからない」。証明方法・実証方法は知らない。だから田村のやっていることは「科学」としては否定されるものである。だが、科学が否定したからといって、田村の感じていることが否定されるわけではない。むしろ、逆である。否定されることで、さらに欲望が強くなる。
 田村の欲していることは矛盾である。存在しないことである。不可能なことである。それが「いま」不可能であるがゆえに、それを書くのだ。「不可能」ではない、と、ことばは「予感」しているからである。



 田村の書いていることは「不可能」の領域のことである。と書いたけれど、私は実は「不可能」とは感じていない。

 その岩から
 岩そのものの声を
 生きているものの行為を
 野獣の性的な叫びを
 ある夏の日の虫の羽音
 日と夜を裂く稲妻の光を聞きたい)

 「稲妻の光を聞きたい」というのは学校でならう日本語文法からするとまちがっている。「光」は「見る」ものであって「聞く」ものではない。けれど、この「稲妻の光を聞きたい」という表現には、奇妙に生々しいものがある。「聞きたい」は「野獣の性的な叫び」を聞きたい、「虫の羽音」を聞きたいという意識の動きにひきづられてでてきたことばといえるけれど、それだけでもない。稲妻を見る--そのとき私たちはたいてい雷鳴も聞いてしまう。稲妻を見ることと、雷鳴を聞くことはひとつの現象としてつながっている。そういう記憶が、感覚の記憶が、ショートして「稲妻を聞く」という表現を不自然に感じさせない。人間の感覚は肉体のなかで入り組んでいる。そしてつながっている。そのため、それが融合して、区別がつかなくなるときがある。
 人間の感覚には視覚、聴覚、触覚、嗅覚がある……という分類は、実は、あとからできた分類だろう。田村が欲しているのは、そういう分類がはじまる前の世界なのだ。
 矛盾、不可能--そういうものを描くことで、田村は、あらゆる分類がはじまる前の世界、こんとんとしたエネルギーの世界を求めている。そのエネルギーの世界そのものが「真の変化」の世界になるのだと思う。
 なぜ、あらゆるものが融合した世界、こんとんの世界が「真の変化」の世界かというと、そこからはなんでも生成が可能だからだ。「稲妻を聞く」という表現の生成もそこでは可能だからである。





腐敗性物質 (講談社文芸文庫)
田村 隆一
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