韓成禮『光のドラマ』(2)(書肆青樹社、2009年03月01日発行)
「ロータリーは回る」という作品がある。その1連目。
東京のど真ん中に馬の群れが駆けて来ることはない。けれども「高田馬場」という地名に会ったとたんに、韓成禮の「肉体」のなかに、「馬」があらわれる。まるで時間が逆流したかのようだ。「いま」をたたき割って、馬が群れていた時間が噴出して来る。そして、不思議な「場」として広がる。その「ここ」ではない、過去、あるいは歴史の場の出現は、「ここ」を突き破って、ソウルに直結する。「マルジュクコリ」。これはソウルの通りの名前で「馬に餌をやる通り」。高田馬場とマルジュクコリが「馬」でつながり、時間を超える。
地名--地名という「地霊」、人間が土地に与えた力が、逆に、土地から人間へと逆噴射して来る。
韓成禮は、こういう不思議な力を呼吸する。大地そのものを呼吸し、大地と(自然と)一体になる。雪の露天風呂で、母と水子と、温泉と羊水が一体になったように、地名と、場所と、馬と、人間と、今と、過去と、東京と、ソウルが融合する。人間が「名前」を思いつくことの力、名前によって(ことばによって)、大地やその他に対して与えた力を呼吸し、人間であることを超越する。人間であることを超越するという言い方が変であるなら、自分だけの「いのち」ではなく、無数の人間の「いのち」につながるといえばいいのだろうか。
東京のど真ん中で「馬」を見るとき、韓成禮は「見る人間」であるだけではなく、「馬」そのものになっている。「水子」で、韓成禮はまぼろしの「母」であり、同時に「水子」自身であったように、ここでも人間であり、同時に馬なのだ。その「場」は東京であり、同時にソウルなのだ。そして、「場」が東京とソウルと複数であるように、人間や馬は、「ひとり」、あるいは「一頭」ではなく、「群れ」なのである。
2行目に、韓成禮は「馬の群れ」と書いているが、この「群れ」、複数の存在こそが韓成禮の「思想」のように私には感じられる。韓成禮に「孤独」というものがあるとすれば、それは「群れ」を知っているからこその「群れ」である。「悲しみ」「喜び」などの感情も、それは「感情の群れ(複数の融合)」を知っているからこそのもの、他の感情と絡み合って、絡み合うことで、一つの感情のなかの余分なもの(?)をふりしぼるようにして、透明になってくるものなのだ。
馬なのか、人間なのか、男なのか、女なのか。区別のつかない「群れ」がうごめき、そこに単独ではとらえられない「いのち」が疾走する。そこにはいろいろなもの、「複数」が混在しているはずなのに、感じるのは「複数」(群れ)であるよりも、その「群れ」をつらぬいて存在してしまう「いのち」そのもの。
不思議だ。
「馬」を描いたもう一篇、「野生馬保護地域」も、とてもおもしろい。「いのち」が、なにものかに分類される前のいのち、たとえば男・女、東京・ソウル(ここでは、モンゴル・フステインルルという地名が出て来るが)に分類される前のいのちが、ぐい、と前に出て来る。
「一頭だけ」(1行目)なのに「野生馬たち」(3行目)と複数であることの矛盾を超越した生き方。「保護地区」にいながら「保護」を拒否するという姿勢で存在することの矛盾を超越したいのち、いのちの意志。その強い輝き。
「群れ」--複数の存在として生きながら、複数であることを拒絶するいのち。そのことをなんと呼ぶか。韓成禮は「自由」と呼ぶ。
野生馬を書いているとき、韓成禮は人間ではなく、野生馬なのだ、とつくづく思う。
「ロータリーは回る」という作品がある。その1連目。
時計台の立つロータリーの真ん中
遠い道を息を切らして駆けて来た馬の群れが
横断歩道の信号の横に止まって立っている
東京の真ん中、高田馬場、マルジュクコリ
今やっと駆けて来た馬 ゆったりとしている馬 ほっと一息つく馬
東京のど真ん中に馬の群れが駆けて来ることはない。けれども「高田馬場」という地名に会ったとたんに、韓成禮の「肉体」のなかに、「馬」があらわれる。まるで時間が逆流したかのようだ。「いま」をたたき割って、馬が群れていた時間が噴出して来る。そして、不思議な「場」として広がる。その「ここ」ではない、過去、あるいは歴史の場の出現は、「ここ」を突き破って、ソウルに直結する。「マルジュクコリ」。これはソウルの通りの名前で「馬に餌をやる通り」。高田馬場とマルジュクコリが「馬」でつながり、時間を超える。
地名--地名という「地霊」、人間が土地に与えた力が、逆に、土地から人間へと逆噴射して来る。
韓成禮は、こういう不思議な力を呼吸する。大地そのものを呼吸し、大地と(自然と)一体になる。雪の露天風呂で、母と水子と、温泉と羊水が一体になったように、地名と、場所と、馬と、人間と、今と、過去と、東京と、ソウルが融合する。人間が「名前」を思いつくことの力、名前によって(ことばによって)、大地やその他に対して与えた力を呼吸し、人間であることを超越する。人間であることを超越するという言い方が変であるなら、自分だけの「いのち」ではなく、無数の人間の「いのち」につながるといえばいいのだろうか。
東京のど真ん中で「馬」を見るとき、韓成禮は「見る人間」であるだけではなく、「馬」そのものになっている。「水子」で、韓成禮はまぼろしの「母」であり、同時に「水子」自身であったように、ここでも人間であり、同時に馬なのだ。その「場」は東京であり、同時にソウルなのだ。そして、「場」が東京とソウルと複数であるように、人間や馬は、「ひとり」、あるいは「一頭」ではなく、「群れ」なのである。
2行目に、韓成禮は「馬の群れ」と書いているが、この「群れ」、複数の存在こそが韓成禮の「思想」のように私には感じられる。韓成禮に「孤独」というものがあるとすれば、それは「群れ」を知っているからこその「群れ」である。「悲しみ」「喜び」などの感情も、それは「感情の群れ(複数の融合)」を知っているからこそのもの、他の感情と絡み合って、絡み合うことで、一つの感情のなかの余分なもの(?)をふりしぼるようにして、透明になってくるものなのだ。
一匹の馬が群れに遅れる
その馬を視野の中に引っぱる
独りの女が携帯電話を耳に当てて
途中で赤信号に変わってもそのまま
腕を組んだ若いカップル
女が男の耳たぶに唇を当ててささやく
ぴんと立つ男のたてがみ
夜来の生臭い花のにおいをかいで
女は風になびく長い髪の毛を
腰をねじって、背中の方に掻き送る
馬なのか、人間なのか、男なのか、女なのか。区別のつかない「群れ」がうごめき、そこに単独ではとらえられない「いのち」が疾走する。そこにはいろいろなもの、「複数」が混在しているはずなのに、感じるのは「複数」(群れ)であるよりも、その「群れ」をつらぬいて存在してしまう「いのち」そのもの。
不思議だ。
「馬」を描いたもう一篇、「野生馬保護地域」も、とてもおもしろい。「いのち」が、なにものかに分類される前のいのち、たとえば男・女、東京・ソウル(ここでは、モンゴル・フステインルルという地名が出て来るが)に分類される前のいのちが、ぐい、と前に出て来る。
一日中 岩の横に一頭だけ立ち
じっと遠い空を見つめている
モンゴル・フステインルルの野生馬たち
野生馬保護地区で
保護されることを頑に拒否する姿勢
寂しければ寂しいほどさらに楽になり
一人でもよく遊ぶんだ!
お願いだから、私の生に割り込まないでくれ!
瞬きもしない大きな目が
そう言っている
「一頭だけ」(1行目)なのに「野生馬たち」(3行目)と複数であることの矛盾を超越した生き方。「保護地区」にいながら「保護」を拒否するという姿勢で存在することの矛盾を超越したいのち、いのちの意志。その強い輝き。
「群れ」--複数の存在として生きながら、複数であることを拒絶するいのち。そのことをなんと呼ぶか。韓成禮は「自由」と呼ぶ。
生んだばかりの自分の子も
人の手が触れればその異臭を嫌い
それに耐えることができず
噛み殺してしまう
野生馬はただ自由が必要なのだ
水や空気のように淡白な自由
野生馬を書いているとき、韓成禮は人間ではなく、野生馬なのだ、とつくづく思う。