監督 エリック・ロメール 出演 フランスの緑、アンディー・ジレ、ステファニー・クレイヤンクール
主演フランスの緑。フランスの自然--としかいいようのない不思議な不思議な映画。いま、どこにこんな美しい緑があるのだろうと感嘆してしまう。草木はやさしく人間をつつむ。光は緑のざわめきを祝福するかのように広がる。唯一、凶暴な自然として水(河)が登場するけれど、その水も結局人のいのちを奪わないのだから、ほんとうは凶暴とはいえない。
あまりに緑が美しいので、主人公が絶望しているにもかかわらず、ぜんぜん絶望感がつたわってこない。祝福される結末へ向かって、ただ絶望という回路があるだけ、という感じである。こういう役には、役者の存在感はいらない。ただ美貌だけが求められる。エリック・ロメールは、そういうことがはっきりとわかっているのだろう。役者に「美」しか求めない。しかも自然と同じように、汚れのない美だけを求める。
どこで見つけ出してきたのだろう。少女マンガの主役をオーディションしたのかといいたくなるような感じの2人が登場する。少年(青年?)は切れ長の目、すっきりした鼻、やわらかい唇、白い肌。少女(娘)は大きな瞳、やわらかい頬、あまい唇、そして美しい乳房に、真っ白なふともも。少女の乳房と、白い腿にはいくぶん存在感が要求されているが、たぶんそれは少年の恋(愛)というものが視覚から出発するからだろう。少年の欲望が見ることからはじまるからだろう。
せりふまわし、そのことばも、役者の存在感によって汚れていない。まるで本を読んでいるような感じだ。つまり自分のなかの感情によって自然にことばがあふれてくるというより、本を読みながら、自分にあうことばを探しているような感じである。
その結果、映画というよりも、完璧に具体化された想像力(空想)つきの「読書」をしているような、とても奇妙な印象に襲われる。
たぶん、そうなんだろうなあ、と思う。
エリック・ロメールは、映画で「読書」をしているのだろう。映画で、観客に「読書」を提供しているのだろう。それも、おとなの読書ではなく、少年・少女の、あるいはもっと幼い幼年期の読書を。子どもにも感情はあるし、欲望もあるけれど、それがどんなものかはっきりとはわからない。読書をとおして、他人の体験をおいかけるということをとおして、感情や欲望を発見する。つまり、自分を発見する。--そういうことを、エリック・ロメールはやっている。
そして、その「読書」を映画のなかの登場人物にもやらせる。
ふつう、人間は、自分のなかの感情をおさえきれずに行動する。この映画でも、登場人物は自分の感情に従って生きてはいるのだが(そういう設定なのだが)、見ていると、自分の感情にしたがって動いているというより、自分の感情を探すために動いているということがよくわかる。そのために、一種の「芝居」が演じられる。少年・少女がきちんと気持ちがつたえあうことができるように、おとなが手配して2人を接近させるという「芝居」が。おとなの企みによって(指導によって)、2人の恋はきめられた道をたどり、その道をたどることで、ほんとうの気持ちをに至り、つたえあい、幸福をつかむ。--「読書」とは、ある意味で、他人が用意してくれた道をたどり、その道が到達する世界へ、しらずしらずに到達することである。
*
とても、とても、とても奇妙である。--私の「映画」の範疇からは大きく逸脱する作品である。こんなものは映画ではない、と書こうとして書きはじめたのだが、意外とおもしろいかもしれない、と感想を書きながら思いはじめてしまった。
「読書」ということ、あるいは、この映画のなかでもでてきた「芝居」(本のない時代の読書は、芝居を見ることだっただろうと思う)について語った映画である--という視点でこの映画を見つめなおせば、「傑作」という結論(?)に達するかもしれない。きょうは★2個の評価しかしなかったけれど、あるいは4個の映画なのかもしれない。(絶対に3個という映画ではない。)そして、その「読書」という観点から見つめなおせば、その文体、自然の美しさをていねいに描写する文体(映像)に対して、あらためて驚きが生まれてくるのを感じてしまう。こんなきれいな緑、その描きわけ、それに向き合う人間の肉体のおさえ方--その気配りに、感動してしまいそうな気がする。
書いていて、いつかきっと、きょう書いた感想を自分で破棄して、この映画は傑作である--と書いてしまいそうで、少し、こわい。
見ているときは、見ていたときは、ただひたすら退屈なだけの映画なのだから。なぜ、こんな絵空事がいま作られるのかさっぱりわからない、エリック・ロメールは美少年をスクリーンに定着させたいという欲望だけで、それにふさわしい自然とストーリーを選んだのかもしれないなあ。ビスコンティが生きていたら、この少年を主人公にして映画をつくるかなあ。見ているときは、ほんとうにそういう感想しか思いつかないくらい退屈な映画なのだから。
不思議。とてもとてもとても不思議な映画である。
主演フランスの緑。フランスの自然--としかいいようのない不思議な不思議な映画。いま、どこにこんな美しい緑があるのだろうと感嘆してしまう。草木はやさしく人間をつつむ。光は緑のざわめきを祝福するかのように広がる。唯一、凶暴な自然として水(河)が登場するけれど、その水も結局人のいのちを奪わないのだから、ほんとうは凶暴とはいえない。
あまりに緑が美しいので、主人公が絶望しているにもかかわらず、ぜんぜん絶望感がつたわってこない。祝福される結末へ向かって、ただ絶望という回路があるだけ、という感じである。こういう役には、役者の存在感はいらない。ただ美貌だけが求められる。エリック・ロメールは、そういうことがはっきりとわかっているのだろう。役者に「美」しか求めない。しかも自然と同じように、汚れのない美だけを求める。
どこで見つけ出してきたのだろう。少女マンガの主役をオーディションしたのかといいたくなるような感じの2人が登場する。少年(青年?)は切れ長の目、すっきりした鼻、やわらかい唇、白い肌。少女(娘)は大きな瞳、やわらかい頬、あまい唇、そして美しい乳房に、真っ白なふともも。少女の乳房と、白い腿にはいくぶん存在感が要求されているが、たぶんそれは少年の恋(愛)というものが視覚から出発するからだろう。少年の欲望が見ることからはじまるからだろう。
せりふまわし、そのことばも、役者の存在感によって汚れていない。まるで本を読んでいるような感じだ。つまり自分のなかの感情によって自然にことばがあふれてくるというより、本を読みながら、自分にあうことばを探しているような感じである。
その結果、映画というよりも、完璧に具体化された想像力(空想)つきの「読書」をしているような、とても奇妙な印象に襲われる。
たぶん、そうなんだろうなあ、と思う。
エリック・ロメールは、映画で「読書」をしているのだろう。映画で、観客に「読書」を提供しているのだろう。それも、おとなの読書ではなく、少年・少女の、あるいはもっと幼い幼年期の読書を。子どもにも感情はあるし、欲望もあるけれど、それがどんなものかはっきりとはわからない。読書をとおして、他人の体験をおいかけるということをとおして、感情や欲望を発見する。つまり、自分を発見する。--そういうことを、エリック・ロメールはやっている。
そして、その「読書」を映画のなかの登場人物にもやらせる。
ふつう、人間は、自分のなかの感情をおさえきれずに行動する。この映画でも、登場人物は自分の感情に従って生きてはいるのだが(そういう設定なのだが)、見ていると、自分の感情にしたがって動いているというより、自分の感情を探すために動いているということがよくわかる。そのために、一種の「芝居」が演じられる。少年・少女がきちんと気持ちがつたえあうことができるように、おとなが手配して2人を接近させるという「芝居」が。おとなの企みによって(指導によって)、2人の恋はきめられた道をたどり、その道をたどることで、ほんとうの気持ちをに至り、つたえあい、幸福をつかむ。--「読書」とは、ある意味で、他人が用意してくれた道をたどり、その道が到達する世界へ、しらずしらずに到達することである。
*
とても、とても、とても奇妙である。--私の「映画」の範疇からは大きく逸脱する作品である。こんなものは映画ではない、と書こうとして書きはじめたのだが、意外とおもしろいかもしれない、と感想を書きながら思いはじめてしまった。
「読書」ということ、あるいは、この映画のなかでもでてきた「芝居」(本のない時代の読書は、芝居を見ることだっただろうと思う)について語った映画である--という視点でこの映画を見つめなおせば、「傑作」という結論(?)に達するかもしれない。きょうは★2個の評価しかしなかったけれど、あるいは4個の映画なのかもしれない。(絶対に3個という映画ではない。)そして、その「読書」という観点から見つめなおせば、その文体、自然の美しさをていねいに描写する文体(映像)に対して、あらためて驚きが生まれてくるのを感じてしまう。こんなきれいな緑、その描きわけ、それに向き合う人間の肉体のおさえ方--その気配りに、感動してしまいそうな気がする。
書いていて、いつかきっと、きょう書いた感想を自分で破棄して、この映画は傑作である--と書いてしまいそうで、少し、こわい。
見ているときは、見ていたときは、ただひたすら退屈なだけの映画なのだから。なぜ、こんな絵空事がいま作られるのかさっぱりわからない、エリック・ロメールは美少年をスクリーンに定着させたいという欲望だけで、それにふさわしい自然とストーリーを選んだのかもしれないなあ。ビスコンティが生きていたら、この少年を主人公にして映画をつくるかなあ。見ているときは、ほんとうにそういう感想しか思いつかないくらい退屈な映画なのだから。
不思議。とてもとてもとても不思議な映画である。
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