詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

エリック・ロメール監督「我が至上の愛~アストレとセラドン~」(★★)

2009-03-14 09:19:31 | 映画
監督 エリック・ロメール 出演 フランスの緑、アンディー・ジレ、ステファニー・クレイヤンクール

 主演フランスの緑。フランスの自然--としかいいようのない不思議な不思議な映画。いま、どこにこんな美しい緑があるのだろうと感嘆してしまう。草木はやさしく人間をつつむ。光は緑のざわめきを祝福するかのように広がる。唯一、凶暴な自然として水(河)が登場するけれど、その水も結局人のいのちを奪わないのだから、ほんとうは凶暴とはいえない。
 あまりに緑が美しいので、主人公が絶望しているにもかかわらず、ぜんぜん絶望感がつたわってこない。祝福される結末へ向かって、ただ絶望という回路があるだけ、という感じである。こういう役には、役者の存在感はいらない。ただ美貌だけが求められる。エリック・ロメールは、そういうことがはっきりとわかっているのだろう。役者に「美」しか求めない。しかも自然と同じように、汚れのない美だけを求める。
 どこで見つけ出してきたのだろう。少女マンガの主役をオーディションしたのかといいたくなるような感じの2人が登場する。少年(青年?)は切れ長の目、すっきりした鼻、やわらかい唇、白い肌。少女(娘)は大きな瞳、やわらかい頬、あまい唇、そして美しい乳房に、真っ白なふともも。少女の乳房と、白い腿にはいくぶん存在感が要求されているが、たぶんそれは少年の恋(愛)というものが視覚から出発するからだろう。少年の欲望が見ることからはじまるからだろう。
 せりふまわし、そのことばも、役者の存在感によって汚れていない。まるで本を読んでいるような感じだ。つまり自分のなかの感情によって自然にことばがあふれてくるというより、本を読みながら、自分にあうことばを探しているような感じである。
 その結果、映画というよりも、完璧に具体化された想像力(空想)つきの「読書」をしているような、とても奇妙な印象に襲われる。
 たぶん、そうなんだろうなあ、と思う。
 エリック・ロメールは、映画で「読書」をしているのだろう。映画で、観客に「読書」を提供しているのだろう。それも、おとなの読書ではなく、少年・少女の、あるいはもっと幼い幼年期の読書を。子どもにも感情はあるし、欲望もあるけれど、それがどんなものかはっきりとはわからない。読書をとおして、他人の体験をおいかけるということをとおして、感情や欲望を発見する。つまり、自分を発見する。--そういうことを、エリック・ロメールはやっている。
 そして、その「読書」を映画のなかの登場人物にもやらせる。
 ふつう、人間は、自分のなかの感情をおさえきれずに行動する。この映画でも、登場人物は自分の感情に従って生きてはいるのだが(そういう設定なのだが)、見ていると、自分の感情にしたがって動いているというより、自分の感情を探すために動いているということがよくわかる。そのために、一種の「芝居」が演じられる。少年・少女がきちんと気持ちがつたえあうことができるように、おとなが手配して2人を接近させるという「芝居」が。おとなの企みによって(指導によって)、2人の恋はきめられた道をたどり、その道をたどることで、ほんとうの気持ちをに至り、つたえあい、幸福をつかむ。--「読書」とは、ある意味で、他人が用意してくれた道をたどり、その道が到達する世界へ、しらずしらずに到達することである。 



 とても、とても、とても奇妙である。--私の「映画」の範疇からは大きく逸脱する作品である。こんなものは映画ではない、と書こうとして書きはじめたのだが、意外とおもしろいかもしれない、と感想を書きながら思いはじめてしまった。
 「読書」ということ、あるいは、この映画のなかでもでてきた「芝居」(本のない時代の読書は、芝居を見ることだっただろうと思う)について語った映画である--という視点でこの映画を見つめなおせば、「傑作」という結論(?)に達するかもしれない。きょうは★2個の評価しかしなかったけれど、あるいは4個の映画なのかもしれない。(絶対に3個という映画ではない。)そして、その「読書」という観点から見つめなおせば、その文体、自然の美しさをていねいに描写する文体(映像)に対して、あらためて驚きが生まれてくるのを感じてしまう。こんなきれいな緑、その描きわけ、それに向き合う人間の肉体のおさえ方--その気配りに、感動してしまいそうな気がする。

 書いていて、いつかきっと、きょう書いた感想を自分で破棄して、この映画は傑作である--と書いてしまいそうで、少し、こわい。
 見ているときは、見ていたときは、ただひたすら退屈なだけの映画なのだから。なぜ、こんな絵空事がいま作られるのかさっぱりわからない、エリック・ロメールは美少年をスクリーンに定着させたいという欲望だけで、それにふさわしい自然とストーリーを選んだのかもしれないなあ。ビスコンティが生きていたら、この少年を主人公にして映画をつくるかなあ。見ているときは、ほんとうにそういう感想しか思いつかないくらい退屈な映画なのだから。
 不思議。とてもとてもとても不思議な映画である。



エリック・ロメール コレクション 緑の光線 [DVD]

紀伊國屋書店

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(24)

2009-03-14 00:08:27 | 田村隆一
 詩人がことばを書くのではない。ことばが詩人を、詩人の肉体を引きずって行く。「どこへ」。それはわからない。
 だが、そのことばに引きずられるままではいけない。田村は、ひとつの「枠」を設定している。禁忌を設定している。「「北」についてのノート」に記されている。それは確かに「ノート」と呼ぶべきものである。

世界を、さらにもう一度、凍結せしめねばならぬ。「北」の詩には、雪、氷、凍、寒、囚人、その他、「北」を連想せしめる如き言葉(修辞)は厳禁。

 田村は、ことばと「頭脳」の関係を熟知している。また、ことばの「罠」も熟知している。「頭脳」、あるいはことばは、すぐに結びつきたがる。連想というつながりへ動いて言ってしまう。「北」と「雪」、「北」と「氷」。これらは結びついたとき、「矛盾」という形をとらない。そういうものは詩ではない。
 詩は、矛盾でなければならない。
 「頭脳」(頭)は矛盾を嫌う。合理的ではないからだ。「頭脳」は人間の肉体のなかでもっともずぼら(?)な器官であって、ひたすら楽をしようとする。安易な径路をたどろうとする。数学も物理も、もっとも合理的な論理をもとめる。それを「答え」は判断する。合理的ではないもの、論理的ではないものを、誤謬とする。世界の運動をもっとも省力化しようとするのが数学・物理(科学)である。
 詩は、そうであってはならない。矛盾・誤謬でなければならない。合理的ではないと判断され、除外されたもののなかにある「いのち」を復活させるのが詩である。合理的なものを破壊し、矛盾にかえし、合理的という枠が殺していたもの(合理性によって葬られた死者)を甦らせるのが詩である。

 こういう詩のことを、田村は「自由」ということばでとらえている。

 「「北」についてのノート」には、まえがき(?)がついている。そこに「自由」ということばが出てくる。

絵画と音楽に国境はなし、というのは、真赤な嘘なり。ぼくが、北米の田舎町で経験した「自由」、および「自由」の回路となりうるもの、ただ一つ、それは言語なり。  北米、アイオワ州にて。一九六八年一月

 絵画、音楽(ことばを含まない演奏という意味だと思う)は国境を持たない。なぜなら、それは感性(肉体の感覚)へ直接訴えかけてくるからだ。眼と耳がそれを受け入れる。障害物はない。ところが、ことばは、いったん「頭」を通らないと感覚にまではならない。肉体へと働きかけない。感情を動かさない。--一般的には、そう考えられている。しかし、田村は、逆に考える。
 人間の感覚・感性は直接的に見えても、実際は、そうではない。感覚・感情にも「一定」の径路がある。人間の感情・感覚はひとりで形成されたものではなく、集団のなかで形成され、みがかれたものである。そのことを人は、ふつうは、意識しないけれど。
 たとえば冷たい水は絵画では寒色で表現される。暖色で表現される冷たい水はない。
 何を冷たいと感じ、何を温かいと感じるか--視覚の領域では、それはもうほとんど固定化されていて、そこには「自由」がない。ピンクで「冷たい水」を表現するのは、たぶん、許されていない。
 ことばも、もちろん、同じようにつみかさねられてきた感情・感覚・認識の径路をたどる。「北」と「雪」、「北」と「氷」は安直に結びつき、そこに径路があるということさえ、人は気がつかない。
 ところが、外国語がであうとき、その安直な結びつきは、安直ではおさまらない。外国語に熟達しても、あるいは熟達すればするほどというべきか、それぞれの国語が特有の径路をもっていることがわかる。ほんとうに共通のなにかを感じようとすれば、そこには微妙なずれがあることがわかるはずだ。
 このとき、ふつう、人は「外国語は不便だ」と感じる。ところが、その不便さのなかに、田村は可能性を見ているのだ。同じ径路をもたないということ--それは、別の径路の可能性をくっきりと浮かび上がらせる。自分がしらずに身につけてきた径路を破壊し、抑圧されているもの、合理的な径路が隠しているもの(わきに退けたもの)に直接触れることができる可能性がある。
 そういうことを田村は「自由」と言っている。

 その「自由」の定義は、「北」と「雪」、「北」と「氷」という結びつきは「厳禁」ということばから逆に証明することができる。「北」と「雪」、「北」と「氷」という結びつきは「自由」ではないのである。それは私たちが無意識のうちに獲得してきたことばの運動であり、感覚の連動なのである。
 2連目を読むと、そのことがさらにわかる。

氷河期--燃える言葉、エロティックなリズムで書くこと(小動物、森の動物が歩くリズムで)。深刻、悲愴、孤立、断絶、極北、極点、原点、の如き用語、フィーリング、使用すべからず。

 「フィーリング」。ことばのなかには、そのことばを話す国民が獲得した(確立した)フィーリングがある。(それはときとして、何か国語にも共通するものである。)そういうものは「自由」ではない。
 「自由」なことば--それは「氷河期」に対して「燃える言葉」。
 「氷河」と「燃える」は矛盾する。それは対立→止揚→発展、という運動ができない。氷河が燃えれば氷河ではなくなる。「頭脳」の「合理的な論理」に反する。
 けれど、その「頭脳」に反すること、合理的な径路に反することのなかに「自由」がある。詩がある。詩が、すくいださなければならない「いのち」がある。いや、すくいだすのではなく、田村の流儀にしたがっていえば、かえっていかなければならない「いのち」がある。

 だが、ことばが「自由」の回路であるとして、そのことばはどうやって手に入れることができるのか。
 「肉体」をとおしてである。
 詩の最後の方に書いている。

敗戦時におけるツキジデス像をこの眼で見ること。

 「この眼で」の「この」には原文では、傍点が打ってある。「この私の」つまり、肉眼でと田村は言いたいのだろう。「頭脳」ではなく、「肉眼」で手に入れるのだ。「頭脳」には蓄積されたことばの「回路」がある。その回路から遠い「肉体」で存在をつかみとること。田村は、そういうことを意志していると思う。
 「肉体」がつかみとったもので、「頭脳」をたたきこわす。破壊する。完成された回路を叩き壊すとき、そこに新しい原野が広がる。詩という原野が。



田村隆一エッセンス
田村 隆一
河出書房新社

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする