高貝弘也「風誑--中也追悼」(「歴程」557 、2009年02月28日発行)
高貝弘也のことばは「肉体」を持たない。
きのう感想を書いた原利代子のことばは「肉体」を持っている。人間は「肉体」ゆえに、他人とはまじりあわない。ひとりひとりであることの基本は「肉体」があることだ。「肉体」によってひとりひとりは、他人とは別個の存在であるということを出発点にしている。「肉体」は世界に複数存在する。「こころ」というものが「肉体」のなかにあるとすれば、「肉体」の数だけ「こころ」も存在することになる。けれど、その「こころ」は、あるとき、融合する。「肉体」がひとつの「形」(動作)を共有するとき、「こころ」も知らずに「ひとつ」の形を共有し、そのけっか「ひとつ」になる。その不思議さを、「肉体」を強調すること、重なり合わない肉体があること、日常の暮らしを書くことで浮き彫りにしていた。
高貝は、そういう「肉体」を出発点とはしていない。そういう「肉体」があるこを気にしていない。私には、そんなふうに思える。
高貝がことばのよりどころとしているのは、ことばそのものである。文法である。文法というのは、ことばの動きから分離してあるものではなく、ことばの動きの伝統そのもののなかにある。たとえば、高貝の利用している、日本語は「主語」を省略できるという独特の文法は最初から存在するものではなく、長い長いことばの伝統のなかで確立されたものである。そこには、数えきれない「暮らし」と「文学」の「伝統」がある。そのなかから生まれてきたものである。
高貝は、この「文法」を、つまり、日本語の歴史・伝統そのものを、彼のことばの「肉体」としている。高貝にとっては、人間が現実に生きているときの「肉体」、飯を食ったり、服を着たりするための「肉体」よりも、日本語がかかえこんでいることばの動かし方、ことばを動かすときの自然な、ことば自身の「ふるまい」の方が「肉体」なのである。
高貝は、現実の人間の、その暮らしの「ふるまい」のかわりに、日本語の伝統の「ふるまい」を書く。伝統の「ふるまい」を「いま」「ここ」に再現して見せる。「ふるまい」を「所作」と言い換えると、それはなんだか洗練された(?)動きになるかもしれないけれど、高貝が書いているもの、ことばに託しているものは、そういうものだと思う。
「風誑」の1連目。
誑かす--だます。このことばは、「主語」と「補語」を必要とする。高貝は「主語」として「風」「空」を明示しているが、何を誑かしたのか、その「補語」を書いていない。--というのは、見かけの文法である。
ここでは「主語」も「動詞」も省略されていて、ほんとうは「補語」だけが書かれている。
私は(=主語)風が誑かす(のを=補語)見る(=述語・動詞)
さらに、1連全体に、その運動をひろげていけば、
私は、風が、大葉子の揺らしているのを、大葉子が風に、せせり、せせりと(?)ゆらいでいるのを、まるで風が大葉子を誑かしているかのように見る(感じる)
ということになるかもしれない。
私の推測は、もちろん、正確ではない。正確ではないが、そういうことを推測させるように高貝のことばは誘っている。
高貝は、主語を消すことで、ことばを人間から切り離し、ことばそのものの運動のなかへ帰してしまう。高貝のことばが、かつて日本語の歴史のなかでどんなふうにつかわれてきたかを、読者に(私に)、想像させながら自在に動いていく。
「せせり せせり」というのは不思議なことばで、私の「日常語」には存在しない。私はそういうことばを口にしないし、聞きもしない。けれども、その音がもっている感じ、「さ行」の響き、母音「え」「い」の揺らぎが、風に揺れる何かを想像させる。
私の印象では、大葉子は風にそよぎなどはしないのだが(風にそよぐのは、もっと弱々しい草花である)、それが風にそよがないだけに、奇妙に、ことばの運動だけが、まるで「他人の肉体」のように、そこに突然あらわれてきたような、そこにあるのに勝手に動かすことができないような、なんとも不思議な印象で存在する。
高貝の動かすことばが、日本語の歴史(古典)を踏まえながら、同時に不思議な違和感、手触りとして何かを動かしているのを感じる。文法--ことばとことばのつながり方そのものを揺さぶっている感じがする。
私の書いていることは抽象的すぎるかもしれない。けれど、抽象的にしか語れないのが高貝のことばであると思う。
1連目には、風と大葉が「誑かす」ということばで出会っていたが、2連目も、とても奇妙である。ことばの出会い方が、一方で日本語の伝統をふまえながら(?)、とても奇妙に動く。少なくとも、私には、そう見える。
大葉子が自然に生えているところは、まあ、田舎である。そこには「ブヨ」だっているだろう。しかし、「ブヨ」をやさしいなんて感じるのは、実際にブヨにさされたことのない人間--自分の「肉体」と「ブヨ」が出会ったらどうなるかを知らない人だろう。
高貝は「蚋」を「ぶよ」という音だけで感じ取っている。その「ぶよ」の「ぶ」が「つぶら」の「ぶ」と響きあって、それが逆流するように「やさしい」ということばに結びつき、「つぶら」は「眼」とつながり、さらに「まなこ」へと転化する。「つぶら」な「まなこ」は「真な子」という字を当てられたときには、幼い子ども、「たよりない」子ども、生きている「やさしい」いのち、「生きながらえてほしい」願いの対象を引き寄せる。
ことばは実際の、現実の意味、「対象=名称」の関係を離れ、対象という「肉体」を失って、音のなかで、別なものに変わってしまう。
主語を明示しない、ときには述語さえ明示しないという日本語文法の肉体を利用して、高貝は「音」という「肉体」への侵入し、そこから、日常を裏切るようなことばの動きを抽出する。その不思議な、抽出された高貝語が、いま、私たちのつかっている日本語を揺さぶる。伝統を利用しながら、伝統をも裏切り(「やさしい蚋」を見よ!)、ことばそのものを批評するのである。
この批評、ことばへの批評は、だれの役にも立たない。--私は、そう思うが、だからこそといえばいいのだろうか、この役立たない、無意味な、ことばの「肉体感覚」は、やはり詩以外のなにものでもない。詩としてでしか生き存えることのできないことばの運動だ。
高貝は、とても不思議な位置にいる。
高貝弘也のことばは「肉体」を持たない。
きのう感想を書いた原利代子のことばは「肉体」を持っている。人間は「肉体」ゆえに、他人とはまじりあわない。ひとりひとりであることの基本は「肉体」があることだ。「肉体」によってひとりひとりは、他人とは別個の存在であるということを出発点にしている。「肉体」は世界に複数存在する。「こころ」というものが「肉体」のなかにあるとすれば、「肉体」の数だけ「こころ」も存在することになる。けれど、その「こころ」は、あるとき、融合する。「肉体」がひとつの「形」(動作)を共有するとき、「こころ」も知らずに「ひとつ」の形を共有し、そのけっか「ひとつ」になる。その不思議さを、「肉体」を強調すること、重なり合わない肉体があること、日常の暮らしを書くことで浮き彫りにしていた。
高貝は、そういう「肉体」を出発点とはしていない。そういう「肉体」があるこを気にしていない。私には、そんなふうに思える。
高貝がことばのよりどころとしているのは、ことばそのものである。文法である。文法というのは、ことばの動きから分離してあるものではなく、ことばの動きの伝統そのもののなかにある。たとえば、高貝の利用している、日本語は「主語」を省略できるという独特の文法は最初から存在するものではなく、長い長いことばの伝統のなかで確立されたものである。そこには、数えきれない「暮らし」と「文学」の「伝統」がある。そのなかから生まれてきたものである。
高貝は、この「文法」を、つまり、日本語の歴史・伝統そのものを、彼のことばの「肉体」としている。高貝にとっては、人間が現実に生きているときの「肉体」、飯を食ったり、服を着たりするための「肉体」よりも、日本語がかかえこんでいることばの動かし方、ことばを動かすときの自然な、ことば自身の「ふるまい」の方が「肉体」なのである。
高貝は、現実の人間の、その暮らしの「ふるまい」のかわりに、日本語の伝統の「ふるまい」を書く。伝統の「ふるまい」を「いま」「ここ」に再現して見せる。「ふるまい」を「所作」と言い換えると、それはなんだか洗練された(?)動きになるかもしれないけれど、高貝が書いているもの、ことばに託しているものは、そういうものだと思う。
「風誑」の1連目。
風が誑(たぶら)かす、空が誑かす。
せせり せせりと---
大葉子(オオバコ)の、静けさよ
(風が誑かす、空が誑かす)
誑かす--だます。このことばは、「主語」と「補語」を必要とする。高貝は「主語」として「風」「空」を明示しているが、何を誑かしたのか、その「補語」を書いていない。--というのは、見かけの文法である。
ここでは「主語」も「動詞」も省略されていて、ほんとうは「補語」だけが書かれている。
私は(=主語)風が誑かす(のを=補語)見る(=述語・動詞)
さらに、1連全体に、その運動をひろげていけば、
私は、風が、大葉子の揺らしているのを、大葉子が風に、せせり、せせりと(?)ゆらいでいるのを、まるで風が大葉子を誑かしているかのように見る(感じる)
ということになるかもしれない。
私の推測は、もちろん、正確ではない。正確ではないが、そういうことを推測させるように高貝のことばは誘っている。
高貝は、主語を消すことで、ことばを人間から切り離し、ことばそのものの運動のなかへ帰してしまう。高貝のことばが、かつて日本語の歴史のなかでどんなふうにつかわれてきたかを、読者に(私に)、想像させながら自在に動いていく。
「せせり せせり」というのは不思議なことばで、私の「日常語」には存在しない。私はそういうことばを口にしないし、聞きもしない。けれども、その音がもっている感じ、「さ行」の響き、母音「え」「い」の揺らぎが、風に揺れる何かを想像させる。
私の印象では、大葉子は風にそよぎなどはしないのだが(風にそよぐのは、もっと弱々しい草花である)、それが風にそよがないだけに、奇妙に、ことばの運動だけが、まるで「他人の肉体」のように、そこに突然あらわれてきたような、そこにあるのに勝手に動かすことができないような、なんとも不思議な印象で存在する。
高貝の動かすことばが、日本語の歴史(古典)を踏まえながら、同時に不思議な違和感、手触りとして何かを動かしているのを感じる。文法--ことばとことばのつながり方そのものを揺さぶっている感じがする。
私の書いていることは抽象的すぎるかもしれない。けれど、抽象的にしか語れないのが高貝のことばであると思う。
1連目には、風と大葉が「誑かす」ということばで出会っていたが、2連目も、とても奇妙である。ことばの出会い方が、一方で日本語の伝統をふまえながら(?)、とても奇妙に動く。少なくとも、私には、そう見える。
生きながらえている、やさしい蚋(ぶよ)。その円(つぶら)な眼は……、
--真な子よ まなこ!
そこでたよりなく揺れているのは
大葉子が自然に生えているところは、まあ、田舎である。そこには「ブヨ」だっているだろう。しかし、「ブヨ」をやさしいなんて感じるのは、実際にブヨにさされたことのない人間--自分の「肉体」と「ブヨ」が出会ったらどうなるかを知らない人だろう。
高貝は「蚋」を「ぶよ」という音だけで感じ取っている。その「ぶよ」の「ぶ」が「つぶら」の「ぶ」と響きあって、それが逆流するように「やさしい」ということばに結びつき、「つぶら」は「眼」とつながり、さらに「まなこ」へと転化する。「つぶら」な「まなこ」は「真な子」という字を当てられたときには、幼い子ども、「たよりない」子ども、生きている「やさしい」いのち、「生きながらえてほしい」願いの対象を引き寄せる。
ことばは実際の、現実の意味、「対象=名称」の関係を離れ、対象という「肉体」を失って、音のなかで、別なものに変わってしまう。
主語を明示しない、ときには述語さえ明示しないという日本語文法の肉体を利用して、高貝は「音」という「肉体」への侵入し、そこから、日常を裏切るようなことばの動きを抽出する。その不思議な、抽出された高貝語が、いま、私たちのつかっている日本語を揺さぶる。伝統を利用しながら、伝統をも裏切り(「やさしい蚋」を見よ!)、ことばそのものを批評するのである。
この批評、ことばへの批評は、だれの役にも立たない。--私は、そう思うが、だからこそといえばいいのだろうか、この役立たない、無意味な、ことばの「肉体感覚」は、やはり詩以外のなにものでもない。詩としてでしか生き存えることのできないことばの運動だ。
高貝は、とても不思議な位置にいる。
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