詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高貝弘也「風誑--中也追悼」

2009-03-08 08:58:14 | 詩(雑誌・同人誌)
高貝弘也「風誑--中也追悼」(「歴程」557 、2009年02月28日発行)

 高貝弘也のことばは「肉体」を持たない。
 きのう感想を書いた原利代子のことばは「肉体」を持っている。人間は「肉体」ゆえに、他人とはまじりあわない。ひとりひとりであることの基本は「肉体」があることだ。「肉体」によってひとりひとりは、他人とは別個の存在であるということを出発点にしている。「肉体」は世界に複数存在する。「こころ」というものが「肉体」のなかにあるとすれば、「肉体」の数だけ「こころ」も存在することになる。けれど、その「こころ」は、あるとき、融合する。「肉体」がひとつの「形」(動作)を共有するとき、「こころ」も知らずに「ひとつ」の形を共有し、そのけっか「ひとつ」になる。その不思議さを、「肉体」を強調すること、重なり合わない肉体があること、日常の暮らしを書くことで浮き彫りにしていた。
 高貝は、そういう「肉体」を出発点とはしていない。そういう「肉体」があるこを気にしていない。私には、そんなふうに思える。

 高貝がことばのよりどころとしているのは、ことばそのものである。文法である。文法というのは、ことばの動きから分離してあるものではなく、ことばの動きの伝統そのもののなかにある。たとえば、高貝の利用している、日本語は「主語」を省略できるという独特の文法は最初から存在するものではなく、長い長いことばの伝統のなかで確立されたものである。そこには、数えきれない「暮らし」と「文学」の「伝統」がある。そのなかから生まれてきたものである。
 高貝は、この「文法」を、つまり、日本語の歴史・伝統そのものを、彼のことばの「肉体」としている。高貝にとっては、人間が現実に生きているときの「肉体」、飯を食ったり、服を着たりするための「肉体」よりも、日本語がかかえこんでいることばの動かし方、ことばを動かすときの自然な、ことば自身の「ふるまい」の方が「肉体」なのである。
 高貝は、現実の人間の、その暮らしの「ふるまい」のかわりに、日本語の伝統の「ふるまい」を書く。伝統の「ふるまい」を「いま」「ここ」に再現して見せる。「ふるまい」を「所作」と言い換えると、それはなんだか洗練された(?)動きになるかもしれないけれど、高貝が書いているもの、ことばに託しているものは、そういうものだと思う。
 「風誑」の1連目。

風が誑(たぶら)かす、空が誑かす。
 せせり せせりと---
大葉子(オオバコ)の、静けさよ
 (風が誑かす、空が誑かす)

 誑かす--だます。このことばは、「主語」と「補語」を必要とする。高貝は「主語」として「風」「空」を明示しているが、何を誑かしたのか、その「補語」を書いていない。--というのは、見かけの文法である。
 ここでは「主語」も「動詞」も省略されていて、ほんとうは「補語」だけが書かれている。
 私は(=主語)風が誑かす(のを=補語)見る(=述語・動詞)
 さらに、1連全体に、その運動をひろげていけば、
 私は、風が、大葉子の揺らしているのを、大葉子が風に、せせり、せせりと(?)ゆらいでいるのを、まるで風が大葉子を誑かしているかのように見る(感じる)
 ということになるかもしれない。
 私の推測は、もちろん、正確ではない。正確ではないが、そういうことを推測させるように高貝のことばは誘っている。
 高貝は、主語を消すことで、ことばを人間から切り離し、ことばそのものの運動のなかへ帰してしまう。高貝のことばが、かつて日本語の歴史のなかでどんなふうにつかわれてきたかを、読者に(私に)、想像させながら自在に動いていく。
 「せせり せせり」というのは不思議なことばで、私の「日常語」には存在しない。私はそういうことばを口にしないし、聞きもしない。けれども、その音がもっている感じ、「さ行」の響き、母音「え」「い」の揺らぎが、風に揺れる何かを想像させる。
 私の印象では、大葉子は風にそよぎなどはしないのだが(風にそよぐのは、もっと弱々しい草花である)、それが風にそよがないだけに、奇妙に、ことばの運動だけが、まるで「他人の肉体」のように、そこに突然あらわれてきたような、そこにあるのに勝手に動かすことができないような、なんとも不思議な印象で存在する。
 高貝の動かすことばが、日本語の歴史(古典)を踏まえながら、同時に不思議な違和感、手触りとして何かを動かしているのを感じる。文法--ことばとことばのつながり方そのものを揺さぶっている感じがする。

 私の書いていることは抽象的すぎるかもしれない。けれど、抽象的にしか語れないのが高貝のことばであると思う。
 1連目には、風と大葉が「誑かす」ということばで出会っていたが、2連目も、とても奇妙である。ことばの出会い方が、一方で日本語の伝統をふまえながら(?)、とても奇妙に動く。少なくとも、私には、そう見える。

生きながらえている、やさしい蚋(ぶよ)。その円(つぶら)な眼は……、
--真な子よ まなこ!
そこでたよりなく揺れているのは

 大葉子が自然に生えているところは、まあ、田舎である。そこには「ブヨ」だっているだろう。しかし、「ブヨ」をやさしいなんて感じるのは、実際にブヨにさされたことのない人間--自分の「肉体」と「ブヨ」が出会ったらどうなるかを知らない人だろう。
 高貝は「蚋」を「ぶよ」という音だけで感じ取っている。その「ぶよ」の「ぶ」が「つぶら」の「ぶ」と響きあって、それが逆流するように「やさしい」ということばに結びつき、「つぶら」は「眼」とつながり、さらに「まなこ」へと転化する。「つぶら」な「まなこ」は「真な子」という字を当てられたときには、幼い子ども、「たよりない」子ども、生きている「やさしい」いのち、「生きながらえてほしい」願いの対象を引き寄せる。
 ことばは実際の、現実の意味、「対象=名称」の関係を離れ、対象という「肉体」を失って、音のなかで、別なものに変わってしまう。

 主語を明示しない、ときには述語さえ明示しないという日本語文法の肉体を利用して、高貝は「音」という「肉体」への侵入し、そこから、日常を裏切るようなことばの動きを抽出する。その不思議な、抽出された高貝語が、いま、私たちのつかっている日本語を揺さぶる。伝統を利用しながら、伝統をも裏切り(「やさしい蚋」を見よ!)、ことばそのものを批評するのである。
 この批評、ことばへの批評は、だれの役にも立たない。--私は、そう思うが、だからこそといえばいいのだろうか、この役立たない、無意味な、ことばの「肉体感覚」は、やはり詩以外のなにものでもない。詩としてでしか生き存えることのできないことばの運動だ。
 高貝は、とても不思議な位置にいる。


子葉声韻
高貝 弘也
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(18)

2009-03-08 00:34:53 | 田村隆一
 「日没の瞬間-一九五六年冬-」には、不思議なところがある。前半の3連。

小鳥を見た
小さな欲望から生れ
ちいさな生にむかって慄えている小鳥をぼくは見た

ちいさな欲望とちいさな生のうえを歩いてはきたが
ぼくには小鳥を描写することができない
つめたい空から
地上に落ちてくる ぼくの全生涯よりも長い瞬間に
するどい嘴と冬の光りにきらめくちいさな眼は
分解するだけだ

  おお どうしよう ぼくはあいを描写することができない
  おお どうしよう ぼくはものを分解するだけだ
        
 「ぼく」と「小鳥」が2連目で交錯する。「するどい嘴と冬の光りにきらめくちいさな眼は/分解するだけだ」の「眼は」はだれの眼か。文法的には「ぼく」の眼ではない。「小鳥」の眼である。小鳥は空から地上に落ちて来る。そのとき小鳥の眼は何かを分解する。何かは書かれていない。
 だが、ほんとうに小鳥の眼なのか。
 小鳥の眼であって、小鳥の眼ではない。「ぼく」の眼が、その眼と重なっている。小鳥を見たときから、田村は、小鳥と一体になっている。
 2連目2行目の「ぼくには小鳥を描写することはできない」は、実は、

ぼくには小鳥の眼で、小鳥の見たものを描写することはできない

 という文なのだ。そして「の眼で、小鳥の見たもの」が省略されているのだ。
 1連目から読み返すと、そのことがよくわかる。どんなふうにして田村と「小鳥」が一体になっているかがわかる。
 1連目に登場する眼(肉眼)は田村自身の眼である。それは「小鳥」を見た。そして、小鳥を「小さな欲望から生れ/小さな生にむかって慄えている」ととらえるとき、それは田村自身の姿と重なる。
 田村は自分自身のことを、1連目につかったことばを流用して「ちいさな欲望とちいさな生のうえを歩いてはきたが」と定義する。「小さな欲望」「小さな生」ということばのなかで、田村と小鳥は「一体」になる。同じことばで表現できる存在になる。

 この「一体感」は、自己放棄である。そして、この態度は、私には、とても日本的な自己放棄に見える。俳句などの「遠心・求心」としての自己放棄に見える。自己を捨て、その瞬間、世界全体を一気に凝縮させる。自己と小鳥を「一体」に感じるその感覚のなかに、一気に世界を凝縮させ、同時に、その「一体感」を世界全体にひろげる。
 俳句ならば、たしかに、そういう世界が出現するはずである。

 田村は、そういうものに触れる。触れるけれど、田村の書いているのは「俳句」ではないから、そういう「遠心・求心」の世界の洗い出し方、生成の仕方をとることはない。
 田村は「遠心・求心」の世界には行かずに、「一体感」を抱えながら、違うことばの運動について考える。

 「一体」になったけれど、それでも田村は、小鳥の眼で小鳥の見たものを描写はできない。そこには「自意識」(田村の意識)が反映されていると考える。
 そんなふうに、自分の肉眼ではなく、他者の肉眼を通って(他者の肉眼を想像力をつかって通って)何かを見ることを、田村は「分解」と呼んでいる。--「俳句」の「遠心・求心」が「描写」であるのに対し、田村の見つめる世界は「分解」であると定義する。
 そうなのだ。
 ここでは、田村は、俳句的な世界に触れながら、それを「俳句的」定義から切り離し、あくまで田村流に定義し直している。「水」で書いたような世界、水を飲んだら「匂いがあって味があって/音まできこえる」という感覚(五感)の越境--俳句的越境、俳句的統合に触れながら、田村が書いているのは「俳句ではない」と定義しているのである。
 「俳句」とは結局のところ「統合」である。統合された描写である。そこには複数の感覚が統合され、統合された感覚でのみ把握できる「新世界」が描写されている。
 けれども、田村が書いているのは、「統合」ではない。「分解」である。それは、別のことばで言えば「統合」の拒絶である。
 イメージが形成されることの拒絶である。
 以前、田村が書いているのは、弁証法でいう対立→止揚→統合(発展)ではなく、あくまでそういう運動を解体することであると書いた。その運動は、ここでも同じなのだ。
 複数のもの(対立するもの、人間と小鳥という同じではないもの)を統合するのではなく、同じ次元(小さな欲望、小さな生)で衝突させることで、その両方を破壊しようとする。その両方を破壊して、その奥にあるものを、解放し、噴出させようとする。そういうことばを運動を指して、田村は「分解」と定義しているのである。

 ことばの全体は、一見、「俳句」に見える。(特に「水」の世界は。)けれど、田村がしようとしていることは、「俳句」とは対極にあることなのである。
 小鳥が「地上に落ちてくる ぼくの全生涯より長い瞬間」という矛盾に満ちたことば、その1行のなかに凝縮した矛盾、衝突が「遠心・求心」の「和解」とはまったく別のものを田村が書こうと欲していることを象徴しているように思える。





ロートレックストーリー
アンリ・ド・トゥルーズ ロートレック,田村 隆一
講談社

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