詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

海埜今日子「《わたしは水に忘れないで、》」、野村喜和夫「旅の驚異」

2009-03-20 08:38:44 | 詩(雑誌・同人誌)
海埜今日子「《わたしは水に忘れないで、》」、野村喜和夫「旅の驚異」(「hotel 」21、2009年03月01日発行)

 海埜今日子「《わたしは水に忘れないで、》」は、ミレイの「オフィーリア」を見た感想、印象を詩にしたものである。不思議な表記がある。

こゆびをふきとったせいしんになる。あのひとは、そうつたえ(られないいみをぬぐいながら、だんぺんとなったかつじのいくばくかはひろいあつめ、うしみつどきにいのりをこめて)、およぐこえはたてごとです。

 「そうつたえ」のあとかっこ記号がつづきことばが挿入されるのだが、それは「つたえられない」というひとつの文章にもなっている。たどってきた道が、そのかっこ記号のところで二股に分かれ、どちらへ行っても、道は道である、どこかへつづいていくという感じである。
 こうした文体は、その後も登場する。

へだたったほとばしりを、しげみのなかでそうさいしたのか(もしれない、よふけにうまれつつあるはなばなのことば、たちは、しんそこぺんさきをひたしていたのだと)、やなぎ、かなしんで

ゆびのうかんだがっきです、からんだうたをちんもくし(たのだと、うしみつどきはきびすをかえした、はなをつままれても、つまりかつじはみあたらないのだ)、きおくはいまをあるひながれ、

 そして、二股に分かれた道を、こっち別の道と信じて歩いていくと、またいつの間にかかっこが閉じられ、もとの道につながる。
 迷子になったのか、迷子にならずにすんだのか、わからないまま、見知らぬ街を歩いているような不思議な感じである。
 海埜にとって、何かを、たとえばミレイの「オフィーリア」を見るというような行為は、たぶんそういう感覚なのだろう。見知らぬ街を歩き、いくつもの枝分かれした道をたどり、その先々で新しいものを発見し、それが積み重なって「街」になる。言い換えると、「世界」に、あるいは「現実」になる。--海埜にとって、「世界」「現実」とは複数の道が交錯し、つながり、ひろがっているものなのだ。どの道が正しいということはない。どの道も同じである。どれだけ多くの道をたどることができるか、どれだけ多くの道を体験できるかが問題なのだ。
 道は複数に広がる。その道を「ひとつ」に統一しない。--その意志は、たとえば漢字を拒み、ひらがなをつかう表記にもあらわれている。ひらがなは、簡単な文字であるけれど、つまり誰でもが読める文字であるけれど(なんと読んでいいかわからない文字はないけれど)、読み違いも誘う。漢字なら間違わずに読めても、ひらがななら間違えるということがある。たとえば、

はなをつままれても

 私は、このことばを「花を摘まれても」「花を包まれても」とも読んだ。引用しながら、あれっ、何か書き写し間違えているような気がすると思い、じっくり読み返し、えっ、「鼻をつままれても」なのか?とびっくりした。
 読みながら、私は、海埜が書かなかった道まで歩いていって、迷子になり、もどり、また迷い、えっ、これでいいのか?と驚いたのである。
 私は海埜のことばを引用するにあたって、たぶん、いつくかの誤記(書き写し間違い)をしているだろう。引用しなかった部分も「誤読」しているに違いない。けれど、開き直っていうわけではないけれど、海埜のことば、海埜の詩は、そういう誤読を承知で提出されていると思う。
 誤読のなかに、別の場所へ通じる道があるのだ。
 そして、その「別の場所」というのは、実は「いま」「この」場所にほかならない。「いま」「ここ」というのは、実は、いくつもの「場」なのである。
 海埜のつかっているかっこ記号( )は、一方で何かを閉ざし、他方で何かを解放する魔法の扉なのである。その、魔法の扉こそ、海埜の「思想」(肉体)である。



 野村喜和夫「旅の驚異」は、海埜の作品を「とある熱帯アジアの国を旅した」ときに置き換えたものである。そこには共通の「思想」がある。あるひとつの「道」をたどり、何かに出会う。そのとき、その何かは「ひとつ」ではない。常に複数のものがかたくむすびついていて、私たちは、その複数のなかから何かを選びとってさらに先へ先へと進むのだが、それは「ひとつ」からずれることであり、同時に「ひとつ」そのものになることだ。あるいは、どれだけ多くの複数にであうことができるかによって、ほんとうの(?)「ひとつ」にたどりつけるか、たどりつけないかが問われている。
 野村は、はげしく複数を求めることで、「ひとつ」の世界をめざしている。いくつもの書き方を(文体を)次々につかうのも、そういう「思想」が彼の「肉体」だからである。


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『田村隆一全詩集』を読む(30)

2009-03-20 00:26:39 | 田村隆一
 『死語』には旅の詩がいくつかある。「暗闇の中の集団」も旅の詩である。インドを旅している。田村の旅の詩が魅力的なのは、そこに「他人」が登場してきて、田村を洗い直すからである。

正午
ぼくはジャムナ河とガンジス河の
合流点に出た
巨大な河床が砂漠のような地模様をつくりながら
古い城壁まで
はてしなくつづいている
痩せた犬と土でできている人間が
原色の布にくるまってうごめいている
人間がうごめいているのではない
土がうごめいているのである

 「人間」を「土でできている」といいきってしまう田村。そして、「人間がうごめいているのではない/土がうごめいているのである」と断言する強さ。
 人間をそんなふうに断定するのは非礼なことかもしれない。そうかもしれない。しかし、田村がもし田村自身をも土でできていると感じていたらどうだろうか。その断言は、深い共感をあらわしていることにならないだろうか。
 私は、共感を感じる。
 土となって生きている人間。土から生まれてきた人間。--そういうとき、土とは何か。土とは、いのちがまだいのちになるまえの「場」なのだ。そこにはエネルギーだけがあり、形はまだないのだ。

ジャナム河は暗緑色
ガンジス河は褐色
そして二つの大河が合流すると
河は聖なる腐敗色に変る
土は不定形となる

 私は、いつも、ここで震える。
 河を描写しているのか、いのちを描写しているのか。合流しているのはほんとうに河なのか。田村とインドが合流して、そのとき田村と宇宙が合流しているという気がする。もちろん田村という人間とインドという大地がそのまま合流できるわけがない。田村という人間と宇宙がそのままの形で合流できるわけがない。もし、田村が「人間」の「形」をしたままであるなら。しかし「人間」という「枠」を失ってしまっているとしたらどうだろう。「人間」でなくなっていたとしたらどうだろう。
 たとえば「土」に。いや、「泥」に。どろどろの、腐敗した色の「泥」。形をもたない「泥」。「不定形」の「泥」に。
 私の勝手な想像ではあるのだが、田村は、ジャナム河とガンジス河を見た瞬間から「人間」ではなくなったのだ。「泥」になったのだ。河床の「泥」に。「泥」に共感してしまったのだ。「泥」に対する共感が、田村から「人間」の「形」を洗い流した。二つの河が田村から「人間」の「形」を洗い流し、田村を「形」のない「泥」にしてしまった。
 「泥」になってしまった田村は、「泥」を見る。「土」ということばを田村はつかっているが、私は、それを「泥」と誤読する。

うごめいている土には
わずかに諸器官が残っていて
手も足も燃え尽きてしまってはいるが
嗅覚と触覚と聴覚と味覚は
地中のバクテリアによってかろうじて養われている

 「人間」以前、「いのち」以前--そういうものが、ここにはある。手足という「形」がなくなっても、嗅覚などの「感覚」は残っている。
 この感覚--いくつかの感覚の中に「視覚」がない。そのことが、また、私を震えさせる。「視覚」はたぶん、「人間」のなかでもっとも発達した感覚、最後に完成した感覚なのかもしれない。それに対して「嗅覚」「触覚」というのは、なまなましいままの、原始的な(?)感覚という感じがする。未分化の、定義のあいまいな感覚という気がする。それはたとえば、その感覚のためのことばを数え上げればわかると思う。「視覚」は「色」の数の多さだけでもずいぶん「分化」した感覚だということがわかる。「聴覚」も「音楽」をみるとよくわかるが、記述方法が確立されている。ところが「嗅覚」は? 「触覚」は? 「視覚」「聴覚」に比べると、驚くほど記述方法が確立されていない。つまり「未分化」、原始的(?)である--その原始的なものと「泥」(土)がむすびついて、そこに「いのち」の未分化なありようを浮かび上がらせる。「人間」は「バクテリア」の状態で、「泥」(土)のなかに生きている。
 インドという巨大な「他人」が田村を、そういう状態にまで洗い流したのである。

その紅い土には真紅の布が頭からおおいかぶさっていて
小さな顔の部分だけが
わずかに空気にさらされている
盲目の少女
その土は少女の形をしていて
唇のようなものがたえまなく開閉しながら
リズムのないリズム
意味のない意味
政治的危機の情報からも
宗教的陰極の感情の喚起からも
もっとも遠い通信を発信しつづけている

 「盲目の少女」--それは「視覚」以前の、視覚が未分化の人間の象徴である。いや、原型である。到達点である。その未分化の「いのち」そのものに対する共感が、ここにはある。
 文明のあらゆるものからもっとも遠く、未分化の「いのち」そのものが、「いのち」をむきだしにして、「いま」「ここ」に存在している。その存在と向き合うために、田村はことばの力を借りて、田村自身を「泥」(土)にしたのである。




新選田村隆一詩集 (1977年) (新選現代詩文庫)
田村 隆一
思潮社

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