詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

大西若人「なぜ体だけ写したか」

2009-03-18 19:17:27 | その他(音楽、小説etc)
大西若人「なぜ体だけ写したか」(「朝日新聞」2009年03月18日夕刊)

 大西若人は大変魅力的な文章を書く。私が大西若人を知ったのは、写真や絵の紹介記事(朝日新聞)だが、新聞の署名だけで名前を覚えたのは彼だけである。
 03月18日の夕刊には濱谷浩の「田植女」を紹介している。田植えする女性の、首から下を写した写真だ。顔は写っていない。そのことについて大西は書いている。

濱谷浩の作品は、時代を刻印する記録性を強く備えていた。
 だから、富山県の泥沼同然の田んぼに胸までつかって田植えする過酷さを記録するなら、女性の顔までとらえる方法もあっただろう。苦痛にゆがむ表情や疲れ果てた顔が撮れたかもかもしれない。
 そうしなかったのは、喜怒哀楽を見せる表情は雄弁であると同時に、そこでは意味が完結しかねないからだろうか。

 「喜怒哀楽を見せる表情は雄弁であると同時に、そこでは意味が完結しかねない」はとても鋭い指摘だ。有無をいわさず納得させられる。あ、どこかでこの文章を流用して(まねした)何か書く機会があればなあ、とさえ思う。言い換えれば、「書きたい」という気持ちを誘う文章である。
 大西の文章にもし問題があるとすれば、それはたぶんここにある。
 大西が紹介している作品を一瞬忘れてしまう。大西の文章に酔わされ、文学心(?)が頭をもたげてくる。
 作品に誘われてことばが動いたというより、ことばが作品を呼び寄せたような、不思議な印象が残る。

 そして、そこから疑問もうまれてくる。
 「苦痛にゆがむ表情や疲れ果てた顔が撮れたかもかもしれない」はほんとうだろうか。過酷な労働(田植え)はつらい。疲れる。それは誰もが想像できる。
大西の文章は、想像力をきちんと型にはめ込み、きれいに動かしてくれる。そして、その想像力の自然な動きが、「喜怒哀楽を見せる表情は雄弁であると同時に、そこでは意味が完結しかねない」という形而上学的文章に昇華する。その動きがあまりにも美しいので、事実を踏まえているのかどうか疑問になってくる。
女性の顔はほんとうに「苦痛」や「疲れ」た表情だったのか。
農作業には不思議な楽しみもある。ものを作る楽しみ、好きな連れ合いと一緒に田んぼにゆく楽しさ。疲れながらも、そこには喜びもあったかもしれない。そういう「想像力」を大西の文章は排除しているかもしれない。
 言い換えると、大西の美しい解説を読むと、その瞬間、鑑賞が完結してしまいかねない。そこに大西の書く文章の問題がある。
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北原千代「水の交わり」

2009-03-18 08:56:50 | 詩(雑誌・同人誌)
北原千代「水の交わり」(「PO」132 、2009年02月20日発行)

 驚きがことばになるまで--その回路、驚きが、いくつものことばを辿って、ことばをさがしながらさまよう。そのさまよいをどこまでていねいに描くことができるか。詩の出発は、たぶん、そういうところにある。ことばをさがす--知っていることばをつなぎながら、自分なりのことばの回路をつくるというところに。
 北原千代「水の交わり」はエレベーターを描写するのに「水」ということばをつかったところから、独自の回路をとる。

透明な水をたふたふゆらし
まあたらしい靴がのぼっていきます
水がエレベーターに乗っているなんて!
夕陽を筒いっぱいにつめこんだエレベーター

 「なんて!」と自分で驚いてしまっては、詩は逃げていくのだが、その逃げいてくものを北原はがんばって追いかけていく。そこがおもしろい。
 「水」ということばをつかったために、以後、世界が「水」を中心にして様子をかえていくのである。

空中庭園のまんなか
噴水が虹色に回っています
芝生に小鳥が来ています
イチジクの堅い実
枝に毛虫が来ています
イチジクの木の根っこ
交わる水と水
音さやかに

混ざると水は何色になりますか
うすい藍色とうすいバイオレットに分かれ
どちらもやっぱり水のまま

うすい藍色のアダムは靴をはき
心臓をだいじそうに抱えて立ち上がりました
驚いている芝生のうえで
うすいバイオレットは水たまりの姿勢で
うしろすがたの赤紫の夕陽に手をふっています
蒸発するまで

 たぶん心臓になんらかの問題をかかえる連れ合いとひさびさに外出してきたときのことを書いているのだと思う。シースルーエレベーターにのって空中庭園へ来た。そのときシースルーエレベーターは「水」を積んでいるように見えた。そのエレベーターに乗る時、ふたりは「水」になる。「水」にまじる。それでもやっぱり、それぞれの「色」をもっている。独立している。独立しているけれど、おなじ「水」として触れ合っている。ふたりはもちろん、世界のすべてと。芝生さえ、そのとき、「水」の一種である。「水」とつながっている。
 連れ合いアダムが藍色で、北原イヴはバイオレット。イヴはひとりで立って歩くアダムを「水たまり」のようにしずかに横たわった姿でみつめている。水平に--は、たぶん垂直のものはアダムの障害になりかねないからだろうけれど。
 とてもやさしい。
 
 もしかすると、私の誤読かもしれない。ふたりの外出は、私の夢想かもしれない。けれど、その夢想は私をやさしい気持ちにしてくれる。
 「水」を見るために、シースルーエレベーターを見に行きたい、という気持ちにしてくれる。

 詩は、ふたりが夜になって空中庭園から地上におりてくるところまで書いているが、その最後が、また非常に余韻がある。

ああ、雨のにおいです

 「水」が「雨」を呼び寄せたのだ。「雨」そのものではなく「におい」ということろに、深い「肉体」の余韻を感じる。



詩集 スピリトゥス (21世紀詩人叢書)
北原 千代
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『田村隆一全詩集』を読む(28)

2009-03-18 00:00:00 | 田村隆一

 『死語』は1976年の詩集である。そのなかの「夜間飛行」という詩。私は、この書き出しがとても好きだ。

はげしい歯痛に耐えるために
高等数学に熱中する初老の男のエピソードが
「魔の山」という小説のなかにあったっけ
そして主人公の「単純な」青年の葉巻は
マリア・マンチーニ

どうして葉巻の名前なんか
ぼくはおぼえているのだ 三十三年まえに読んだドイツの翻訳小説なのに

 この「どうして」を田村は解きあかしていない。解きあかす必要がないと知っているからだ。そういう「どうして」は誰もが経験することである。そしてまた、それは説明できないものだからである。強いて言えば、それは「知らないもの」だからである。「知らないもの」に名付けられた名前だからである。見たことも、すったこともない葉巻の名前--そこには「知らない」ということがとても強く影響している。
 そこにはただ「ことば」があるだけなのだ。わかるのは「ことば」(名前)だけである。存在を知らないから、それをそのまま覚え、それが目の前にあらわれるまで松しかない「ことば」だからである。私たちは、そういうものを、覚えるしかないのである。
 ことばが存在をひっぱりだしてくる。世界のなかから、その前に。
 それは4行目の「単純な」も同じである。この「単純な」は「マリア・マンチーニ」よりも、もっと(?)「ことば」である。「ことば」としかいいようのないものである。「マリア・マンチーニ」は固有名詞だから、その名前がないと何かはわからない。一方「単純な」は主人公の青年の「人間性」をあらわしているが、「単純な」人間性をそなえているのは主人公の青年だけではなく、世の中にはたくさんいるだろう。「マリア・マンチーニ」ということばを手がかりにすれば、世界からその葉巻を探し出してくることができるけれど、「単純な」というひとことで主人公の青年を世界から探し出してくることはできない。けれども、田村は、その「単純な」を覚えている。「マリア・マンチーニ」と同じように。そして、そのことは、その青年をあらわす「単純な」ということば、「単純な」であらわされる青年の人間性を田村が知らなかった--青年をとおして「単純な」ということを知ったということを意味する。
 「単純な」が青年の人間性をひっぱりだしてくる。いろいろな人間性のなかから、その性質を。それを知った、それを覚えている--と田村は、ここでは書いているのだ。「どうして葉巻の名前なんか」という行があるために、そのことは視界から消えてしまいそうだが、葉巻の名前を覚えていることよりも「単純な」ということばを覚えていることの方がほんとうははるかに不思議である。

 ことば、他人のことば。それが田村を洗い直すのである。「魔の山」の青年を、他の青年から区別するのは「単純な」ということばである。どこにでもある、誰もがつかう、けれどトーマス・マンによってしっかり洗い直され、書き記された「単純な」が田村をさらに洗い直すのだ。「単純な」は「魔の山」の青年のような人間にのみつかうべきことばなのだ、と。

 人間は、結局「ことば」を生きているのである。

 「噴水へ」には不思議な行がある。

西風にさからって
太陽が沈む地平線にむかって一直線に
飛ぶ
あの小鳥は「鳥」のなかで飛んでいるのだ
深夜に吠える犬
ぼくらの耳にきこえない危機の兆候
ぼくらの目に見えない恐怖の叫びにむかって
凍りつくような声で吠えている
あの犬だって「犬」のなかで吠えているのだ
それなら
ぼくは「人間」のなかで生きているのか
ぼくの肉体は「動物」だが
心は「動物」よりも鈍感なのさ

 4行目。「鳥」と括弧でくくられたことば。それは「鳥ということば」「鳥という概念」と言い換えることができる。「鳥」ということばで呼ばれ、目の前にあらわれるもの、そのことばを実は人間は「認識」している。
 「犬」も同じである。「人間」も「動物」も同じである。
 こういう状態は、しかし、正しいことではない。というか、そういう状態は、詩ではない。そういう世界は、詩からもっとも遠い世界である。「鳥」ということばを洗い直し、そのことばを洗い直すことで田村自身をも洗い直す--そのとき動くことば、そのときのベクトル、→、こそが詩なのである。

 詩は、このあと、鮎川信夫の「名刺」という作品を引用し、そのあと、次の展開がある。 

この詩をはじめて読んだのは
ぼくが十六歳のときだ
世界はまだ
絶望的に明るくてぼくは「ぼく」のなかで生きていた
ぼくの肉体は動物よりももっと動物的だったし
心は「動物」に属していた
ぼくの目は「言葉」を媒介しなくても
太陽が沈む地平線がくっきりと見えた

 「言葉」を媒介しなくても--ことばを媒介しないところ、ことばを媒介しなくても目で(肉体で)世界をくっきりとつかみ取る瞬間--そこに詩があるのだ。
 「単純な」ということばは「魔の山」の青年を特徴づけることばだが、「単純な」ということばを媒介しなくてもそれはくっきりと存在した。そしてそれをあとから便宜上「単純な」と名付けた(呼んだ)だけなのである。

 ことばを媒介とせずにつかんだもの--それをことばで書くしかないという矛盾。詩は、いつでもその矛盾のなかにある。詩のことばが難解であるのは、それがもともと、そういう矛盾と向き合っているからである。

 「他人」のことばを田村が引用するのは、「他人」のことばは田村が無自覚につかっていることばを洗い流すからである。「他人」のことばにであったとき、たとえば「魔の山」の青年をあらわす「単純な」ということばに出会った時、田村は彼自身のなかにある「単純な」ということばを奪われる。田村の「単純な」は無効である、青年を目の前に出現させるには無効であるとつげられる。トーマス・マンのつかっている「単純な」をつかわないことには青年を把握できないと知らされるのである。だからこそ、トーマス・マンのつかった「単純な」をそのまま括弧のなかにいれてつかうのである。





続続・田村隆一詩集 (現代詩文庫)
田村 隆一
思潮社

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