詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

八柳李花「削がれた跡に残るもの」、みみやさきちがこ「むむいしきなまはたぎ」

2009-03-09 11:20:13 | 詩(雑誌・同人誌)
八柳李花「削がれた跡に残るもの」、みみやさきちがこ「むむいしきなまはたぎ」(「現代詩手帖」2009年03月号)

 新人作品(投稿)欄に掲載されていた2つの詩が印象に残った。
 八柳李花「削がれた跡に残るもの」は論理(?)が、少しずれる(?)というか、少し強引(?)というか、妙にひっかかる。悪い、というのではなく、それが、とてもおもしろい。

夜の動物園に来てみないか、と
言った男の
言われた男
の、
耳の奥で波音をたてる
古びた水槽の記憶
なにか釈然としない物事の順序には
黙されたメッセージがひそむというから
二点を最も離れた仮定の上から
意味を付加しようと気づいた

 「なにか釈然としない」というのは八柳のことばだが、不思議に釈然としない。釈然としないというのは微妙な反語であって、なにかが伝わって来るものがあってはじめて釈然としないのである。そういう微妙なずれがおもしろい。「夜の動物園に来てみないか」と男は言ったのか、言われたのか--というのはまったく逆の立場だが、その立場を超えるものがある。ちがったものを結びつけてしまうものがある。結びつけるものがあるからこそ、「夜の動物園に来てみないか」と言ったり、言われたりするのだ。
 その結びつけるものを、「黙されたメッセージがひそむから」の「から」で強引に割り込んでゆく。そのとき、そこには八柳特有の飛躍がある。こういう飛躍をもっているということ、こういう飛躍が「肉体」として身についているというのは、とてもおもしろい。

白亜紀の頃に奪われた豊かさは
ともに完成されて
琥珀よりも暗く認められていたのである、
であるから
拡大ではなく無形肥大であった

 この部分に出て来る「であるから」も同じである。なぜそれが「であるから」なのか、さっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、きっとあとで思い出すのだ。八柳は、ときどき「であるから」「というから」というような、「……から」というわけのわからない「理由」でことばを強引に動かしていく人なんだなあ、と。
 こうした癖(?)は詩人には絶対に必要な「肉体」であると、私は思う。



 みみやさきちがこ「むむいしきなまはたぎ」は、名前もタイトルも、わざと音をずらして文字にしているのだろうと思った。そういう「わざと」が各行にもある。

新宿の目がみていて
おじいさんが車椅子にのっているおじいさんをはこんでいて
わたしは繊維入りマスカラの繊維いっぽんを舌先にのってけてい
新宿の目のぐるぐるをみていて
新宿の目がみていて 
ドックフードのによいがかぎたくなって
切れないはさみでうわばきをきりたくなって

 「……て」と末尾をそろえる。それだけ(?)のことだが、それが「わざと」であるとき、そこにどうしても「肉体」が紛れ込んで来る。「頭」だけでは処理できないことがらがまじって来る。「ドックフードのによいがかぎたくなって」はタイトルと同じように「わざと」そこで「肉体」を強調している。デジタルに処理できないもの、ずれてしまうものを、もう一度「わざと」デジタルに、アナログの間違いをそのまま正確にデジタルに処理して組み込むことで、「肉体」を強調する。その呼吸が、不思議と「……て」の「て」と響きあっている。
 途中には、

おかあさんにおこられて
白ちゃんにおこられて
若子におこられて
ほかほかちゃんにおこられて
しまって

 と、「しまって」というような、思わずわらいだしてしまうしかない「……て」もある。あ、「しまって」の詩人なんだ、と私は、あとから思い出すに違いないと思った。こういう、思わず笑いだしてしまう、独特の行が私はとても好きである。

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『田村隆一全詩集』を読む(19)

2009-03-09 00:11:16 | 田村隆一
 「悪い比喩」。このなかに出て来る「眼」ということばが強く印象に残る。最後の2行である。

瞬時に溶けよ
人類の眼

 眼とは何だろうか。田村にとって、眼とは何だろうか。田村は眼を「悪い比喩」をつくりだすもの、うみだすもの、と感じているのかもしれない。

蒼白い商業と菫色の重工業は
朔太郎の抒情詩で終ってしまったが

戦争から帰ってきた青年たちは
砂漠と氷河の詩を歌ったっけ

むろん かれらだって
砂漠で戦ったこともなければ

氷河を見てきたわけでもない
仲間が死んだのは南の海だ

砂漠も氷河も悪い比喩だ
比喩は死んで死比喩になったけれど

「死んだ男」はいまだに死なぬ
古いアルバムの鳶色の夢のなかで

夭折の権利を笑っているのさ
道造や中也そっくりの

瞬時に溶けよ
人類の眼

 「氷河を見てきたわけでもない」の「見てきた」が「眼」に呼応している。そして、その「見てきた」ものが「比喩」である。なにかしら、「眼」で「見る」こと、そして「見る」ことから始まる思考の動きを、田村は拒絶しようとしている。
 この詩には、その拒絶がくっきりとあらわれているわけではない。だからこそ、そこには、なにかあいまいなままの、思想になりきれていな思想がうごめいている感じがする。書けなかったことがらが、最後の2行に必死になって結晶しているという感じがする。

 「蒼白い」「菫色」「鳶色」。この詩には、そういう「色」が出て来る。「色」は眼でとらえるものである。それは「表面」ということかもしれない。そういうものに触れてしまう「眼」、そこからなにかを感じてしまう「眼」--そいう「眼」そのものを田村は拒絶しようとしているのかもしれない。

   *

 「眼」では見ないもの--「眼」以外で見るもの。「夢」。「飛ぶ」という作品。

きみが眼ざめるとき
どんな夢を見る?

 この作品は、いきなり矛盾から始まっている。目覚めるとは、ある意味では夢を見ないことである。夢は眠りのなかで見る。けれど、田村はここでは逆に問いかけている。
 「肉眼」で見る夢があるのだ。「肉眼」でしか見えない「夢」があるのだ。それが詩である。そして、そうであるなら、その「肉眼」が見るものは、「蒼白い」「菫色」「鳶色」というような色--なにかの表面にあると考えられているものであるはずだ。
 だが、それは何?

きみが眼ざめたとき
きみのなかではじめて眠りにつくものが
夢にみるだけ

 この逆説に満ちたことば。
 「きみのなかで」の「なかで」が重要なのかもしれない。「肉眼」でなにかをみるとき、逆になにかが何も見なくなる。何もみずに「眠りにつく」。
 具体的には書かず、ただそういう「運動」があるということだけを、田村は書いている。それをまだ、書くことができずにいる。
 --不完全な詩というと変だけれど、代表作とはいえないような(「飛ぶ」にしろ、「悪い比喩」にしろ、私は田村の代表作とは考えていない。感じていない)作品には、なにか書こうとして書けないものの「芽」のようなものが動いている。詩人が留保したなにかが、そこにはある。その留保したもの、そのことばの動きを、きちんと掬いだして動かせれば、きっと詩人の本質がわかると思うのだが……。 

 眠っているとき、肉眼を閉ざし、肉体の内部の眼が動いているとき、なにかが見え、逆に肉眼で見始めたとき、なにかが見えなくなる。
 どうすればいいのか。
 「秋の山」のなかに次の行がある。

この透明度には危険なレトリックがある
遠くのものが近くになる時

近くのものは見えなくなる

 「秋の山」という作品は「遠くのものが近くになる」という行で書き出されている。秋になると「遠くのものが近くになる」。これは正確には、「遠くにあるものがまるで近くにあるかのように見える」ということを指している。それはもちろん錯覚である。現実には、遠近そのものが逆転するわけではない。けれども、私たちはそういう言い方をする。この「言い方」を「レトリック」と田村はここでは定義している。
 この世界にあるのは、そういう「レトリック」--現実をとらえるとらえ方、そしてそのとらえたものを言い表す方法だけなのである。その方法のなかに「比喩」もある。ものごとをどうとらえるか--というとき、大切なのは「肉眼」の正確さではない。「肉眼」の力に頼らず、肉眼を否定していく力だろう。
 田村は、俳句的世界を描きながら、(それに通じる詩を書きながら)、そのときに動く「肉眼」を拒絶し、「肉眼」ではない力で、自然を--日本人が親しんでいる風景を、「分解」しようとしているように感じられる。




ロートレックストーリー
アンリ・ド・トゥルーズ ロートレック,田村 隆一
講談社

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