八柳李花「削がれた跡に残るもの」、みみやさきちがこ「むむいしきなまはたぎ」(「現代詩手帖」2009年03月号)
新人作品(投稿)欄に掲載されていた2つの詩が印象に残った。
八柳李花「削がれた跡に残るもの」は論理(?)が、少しずれる(?)というか、少し強引(?)というか、妙にひっかかる。悪い、というのではなく、それが、とてもおもしろい。
「なにか釈然としない」というのは八柳のことばだが、不思議に釈然としない。釈然としないというのは微妙な反語であって、なにかが伝わって来るものがあってはじめて釈然としないのである。そういう微妙なずれがおもしろい。「夜の動物園に来てみないか」と男は言ったのか、言われたのか--というのはまったく逆の立場だが、その立場を超えるものがある。ちがったものを結びつけてしまうものがある。結びつけるものがあるからこそ、「夜の動物園に来てみないか」と言ったり、言われたりするのだ。
その結びつけるものを、「黙されたメッセージがひそむから」の「から」で強引に割り込んでゆく。そのとき、そこには八柳特有の飛躍がある。こういう飛躍をもっているということ、こういう飛躍が「肉体」として身についているというのは、とてもおもしろい。
この部分に出て来る「であるから」も同じである。なぜそれが「であるから」なのか、さっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、きっとあとで思い出すのだ。八柳は、ときどき「であるから」「というから」というような、「……から」というわけのわからない「理由」でことばを強引に動かしていく人なんだなあ、と。
こうした癖(?)は詩人には絶対に必要な「肉体」であると、私は思う。
*
みみやさきちがこ「むむいしきなまはたぎ」は、名前もタイトルも、わざと音をずらして文字にしているのだろうと思った。そういう「わざと」が各行にもある。
「……て」と末尾をそろえる。それだけ(?)のことだが、それが「わざと」であるとき、そこにどうしても「肉体」が紛れ込んで来る。「頭」だけでは処理できないことがらがまじって来る。「ドックフードのによいがかぎたくなって」はタイトルと同じように「わざと」そこで「肉体」を強調している。デジタルに処理できないもの、ずれてしまうものを、もう一度「わざと」デジタルに、アナログの間違いをそのまま正確にデジタルに処理して組み込むことで、「肉体」を強調する。その呼吸が、不思議と「……て」の「て」と響きあっている。
途中には、
と、「しまって」というような、思わずわらいだしてしまうしかない「……て」もある。あ、「しまって」の詩人なんだ、と私は、あとから思い出すに違いないと思った。こういう、思わず笑いだしてしまう、独特の行が私はとても好きである。
新人作品(投稿)欄に掲載されていた2つの詩が印象に残った。
八柳李花「削がれた跡に残るもの」は論理(?)が、少しずれる(?)というか、少し強引(?)というか、妙にひっかかる。悪い、というのではなく、それが、とてもおもしろい。
夜の動物園に来てみないか、と
言った男の
言われた男
の、
耳の奥で波音をたてる
古びた水槽の記憶
なにか釈然としない物事の順序には
黙されたメッセージがひそむというから
二点を最も離れた仮定の上から
意味を付加しようと気づいた
「なにか釈然としない」というのは八柳のことばだが、不思議に釈然としない。釈然としないというのは微妙な反語であって、なにかが伝わって来るものがあってはじめて釈然としないのである。そういう微妙なずれがおもしろい。「夜の動物園に来てみないか」と男は言ったのか、言われたのか--というのはまったく逆の立場だが、その立場を超えるものがある。ちがったものを結びつけてしまうものがある。結びつけるものがあるからこそ、「夜の動物園に来てみないか」と言ったり、言われたりするのだ。
その結びつけるものを、「黙されたメッセージがひそむから」の「から」で強引に割り込んでゆく。そのとき、そこには八柳特有の飛躍がある。こういう飛躍をもっているということ、こういう飛躍が「肉体」として身についているというのは、とてもおもしろい。
白亜紀の頃に奪われた豊かさは
ともに完成されて
琥珀よりも暗く認められていたのである、
であるから
拡大ではなく無形肥大であった
この部分に出て来る「であるから」も同じである。なぜそれが「であるから」なのか、さっぱりわからない。さっぱりわからないけれど、きっとあとで思い出すのだ。八柳は、ときどき「であるから」「というから」というような、「……から」というわけのわからない「理由」でことばを強引に動かしていく人なんだなあ、と。
こうした癖(?)は詩人には絶対に必要な「肉体」であると、私は思う。
*
みみやさきちがこ「むむいしきなまはたぎ」は、名前もタイトルも、わざと音をずらして文字にしているのだろうと思った。そういう「わざと」が各行にもある。
新宿の目がみていて
おじいさんが車椅子にのっているおじいさんをはこんでいて
わたしは繊維入りマスカラの繊維いっぽんを舌先にのってけてい
新宿の目のぐるぐるをみていて
新宿の目がみていて
ドックフードのによいがかぎたくなって
切れないはさみでうわばきをきりたくなって
「……て」と末尾をそろえる。それだけ(?)のことだが、それが「わざと」であるとき、そこにどうしても「肉体」が紛れ込んで来る。「頭」だけでは処理できないことがらがまじって来る。「ドックフードのによいがかぎたくなって」はタイトルと同じように「わざと」そこで「肉体」を強調している。デジタルに処理できないもの、ずれてしまうものを、もう一度「わざと」デジタルに、アナログの間違いをそのまま正確にデジタルに処理して組み込むことで、「肉体」を強調する。その呼吸が、不思議と「……て」の「て」と響きあっている。
途中には、
おかあさんにおこられて
白ちゃんにおこられて
若子におこられて
ほかほかちゃんにおこられて
しまって
と、「しまって」というような、思わずわらいだしてしまうしかない「……て」もある。あ、「しまって」の詩人なんだ、と私は、あとから思い出すに違いないと思った。こういう、思わず笑いだしてしまう、独特の行が私はとても好きである。