韓成禮『光のドラマ』(書肆青樹社、2009年03月01日発行)
巻頭に「水子」という作品がある。03月01日、福岡であったトークセッションで韓成禮が日本語と韓国語で朗読した。日本語の朗読のときは、その詩がよくわからなかった。韓国語のときは、韓国語が理解できないにもかかわらず、強く伝わって来るものがあった。私は韓国語を理解できないのだから、私が受け止めたものは、まったく違ったものかもしれない。まちがった理解の仕方かもしれない。けれども、そのことを書いておきたい。
韓成禮はこの詩を説明して、露天風呂(温泉)へ行ったときのことを書いたのだと説明した。(そう記憶している。)そして、実際に、そういう風景が描かれている。
季節は冬。雪が舞っている。「小さく白い虫たち」というのは雪のことである。そうはわかっていても、この比喩には、奇妙にひっかかるものがある。
「水子」というタイトルから生まれなかった胎児を思う。そして、受精を思う。「小さく白い虫たち」は精子に見える。「腰のあたりで消えてしまう」の「腰」が、その印象を強くする。
「意味」が強く浮かび上がりすぎる。「意味」を隠して、ことばが動くので、その「意味」がいっそう強くなる。雪。積もることなく解けてしまう雪。それは精子の直喩。あるいは、胎児の将来の直喩。受精し、胎児になったけれど、生まれることができなかった「水子」。その「水子」を思っている、思い出している韓成禮。その関係、ことばで描かれていることがらが強すぎ、「意味」になりすぎている感じがして、聞いていて窮屈だった。
ところが、韓国語の朗読では、そうい意味はまったくわからない。ただ、声だけが、まっすぐに聞こえる。
このとき、私は、映画「風の丘を越えて」を思い出していた。生き別れになっていた姉と弟が再会する。姉は盲目である。尋ねてきたのが弟だとはわからない。弟の太鼓にあわせて姉がパンソリを歌う。そして、太鼓にあわせて歌いはじめると、彼が弟だとわかる。しかし、そのことは告げずに、ただ歌う。弟は姉がわかってくれたということを実感し、また何もいわずに太鼓をたたきながら、歌を聞く。このとき、映画では姉の声は流れず、フルートのような音が流れる。そこには「ことば」はない。けれど、ことばがないために、逆に強烈に、恋しい思いが直接的に伝わって来る。スクリーンを越えて、映画館にその激情があふれる。--その瞬間に似ていた。
「ことば」ではなく、「音楽」、その純粋ないのちの旋律を聞いて、私は、あ、日本語を聞いたときはまちがったふうに聞いていたと悟った。
韓成禮は「水子」を思い出しているのではない。思っているのではない。もちろん、「水子」に対する思いはあるのだが、そういう思いを越えて、「水子」そのものになっている。韓成禮が生まれることのなかった子どもを思い、嘆いているというよりも、その生まれることのなかった子どもが、母を思って、「私はここにいる」と言っているように聞こえたのだ。「お母さん、私はここにいます。お母さん、私はこうやって、いつでもあなたに会いに来ています。お母さんのことを忘れたことはありません。」そんなふうに聞こえたのだ。
これには、びっくりしてしまった。
最後の部分。
露天風呂、温泉は子宮であり、羊水である。そのなかで、韓成禮は胎児になる。ああ、こんなふうにもう一度、お母さんの胎内に帰りたい。ゆったりと浮かんでいたい。私をつくってくれた精子たちも、私をつくりあげた瞬間をなつかしむように、この子宮へ子宮へと舞いおちて来る……。
このとき、韓成禮は女性であるだけではなく、奇妙な言い方になってしまうが、男性でもある。女性・男性の区別を超越した「いのち」である。そして、その「いのち」になって、「お母さん」と、発することのなかった「産声」をあげているのである。
*
セッションの最後の方で、韓成禮は韓国でいう「恨(はん)」について語った。自分自身の中に溜まりつづける悔恨のようなもの。その蓄積--私は、韓成禮の説明を、そんなふうに聞いたが、「水子」はそういう「恨」につながる「いのち」である。
韓成禮に産むことのできなかった悔恨があるとすれば、「水子」には生まれることがでなかった悔恨がある。謝罪がある。そのふたつは切り離せない。融合して、愛になって、さらに強く結びつく。
巻頭に「水子」という作品がある。03月01日、福岡であったトークセッションで韓成禮が日本語と韓国語で朗読した。日本語の朗読のときは、その詩がよくわからなかった。韓国語のときは、韓国語が理解できないにもかかわらず、強く伝わって来るものがあった。私は韓国語を理解できないのだから、私が受け止めたものは、まったく違ったものかもしれない。まちがった理解の仕方かもしれない。けれども、そのことを書いておきたい。
韓成禮はこの詩を説明して、露天風呂(温泉)へ行ったときのことを書いたのだと説明した。(そう記憶している。)そして、実際に、そういう風景が描かれている。
原色をひらひら踊らせ
絵を音楽としても流す
マティスの絵画のように
関東の北の山奥 四万 露天温泉
小さく白い虫たちがくねくねと川の水のように
斜めに飛びながら空を流れている
まるで蜉蝣のように 飛ぶものたちは
地に触れることもできず
腰のあたりのどこかで消えてしまう
季節は冬。雪が舞っている。「小さく白い虫たち」というのは雪のことである。そうはわかっていても、この比喩には、奇妙にひっかかるものがある。
「水子」というタイトルから生まれなかった胎児を思う。そして、受精を思う。「小さく白い虫たち」は精子に見える。「腰のあたりで消えてしまう」の「腰」が、その印象を強くする。
「意味」が強く浮かび上がりすぎる。「意味」を隠して、ことばが動くので、その「意味」がいっそう強くなる。雪。積もることなく解けてしまう雪。それは精子の直喩。あるいは、胎児の将来の直喩。受精し、胎児になったけれど、生まれることができなかった「水子」。その「水子」を思っている、思い出している韓成禮。その関係、ことばで描かれていることがらが強すぎ、「意味」になりすぎている感じがして、聞いていて窮屈だった。
ところが、韓国語の朗読では、そうい意味はまったくわからない。ただ、声だけが、まっすぐに聞こえる。
このとき、私は、映画「風の丘を越えて」を思い出していた。生き別れになっていた姉と弟が再会する。姉は盲目である。尋ねてきたのが弟だとはわからない。弟の太鼓にあわせて姉がパンソリを歌う。そして、太鼓にあわせて歌いはじめると、彼が弟だとわかる。しかし、そのことは告げずに、ただ歌う。弟は姉がわかってくれたということを実感し、また何もいわずに太鼓をたたきながら、歌を聞く。このとき、映画では姉の声は流れず、フルートのような音が流れる。そこには「ことば」はない。けれど、ことばがないために、逆に強烈に、恋しい思いが直接的に伝わって来る。スクリーンを越えて、映画館にその激情があふれる。--その瞬間に似ていた。
「ことば」ではなく、「音楽」、その純粋ないのちの旋律を聞いて、私は、あ、日本語を聞いたときはまちがったふうに聞いていたと悟った。
韓成禮は「水子」を思い出しているのではない。思っているのではない。もちろん、「水子」に対する思いはあるのだが、そういう思いを越えて、「水子」そのものになっている。韓成禮が生まれることのなかった子どもを思い、嘆いているというよりも、その生まれることのなかった子どもが、母を思って、「私はここにいる」と言っているように聞こえたのだ。「お母さん、私はここにいます。お母さん、私はこうやって、いつでもあなたに会いに来ています。お母さんのことを忘れたことはありません。」そんなふうに聞こえたのだ。
これには、びっくりしてしまった。
最後の部分。
あの飛ぶものたちは
虚空をくるくる回る くるくる回る
しばらく留まった子宮の中がとても恋しくて
二度と入れない 温かい湯の中に向かって
止めどなく落ちて行く
初冬の温泉地に舞う霙
露天風呂、温泉は子宮であり、羊水である。そのなかで、韓成禮は胎児になる。ああ、こんなふうにもう一度、お母さんの胎内に帰りたい。ゆったりと浮かんでいたい。私をつくってくれた精子たちも、私をつくりあげた瞬間をなつかしむように、この子宮へ子宮へと舞いおちて来る……。
このとき、韓成禮は女性であるだけではなく、奇妙な言い方になってしまうが、男性でもある。女性・男性の区別を超越した「いのち」である。そして、その「いのち」になって、「お母さん」と、発することのなかった「産声」をあげているのである。
*
セッションの最後の方で、韓成禮は韓国でいう「恨(はん)」について語った。自分自身の中に溜まりつづける悔恨のようなもの。その蓄積--私は、韓成禮の説明を、そんなふうに聞いたが、「水子」はそういう「恨」につながる「いのち」である。
韓成禮に産むことのできなかった悔恨があるとすれば、「水子」には生まれることがでなかった悔恨がある。謝罪がある。そのふたつは切り離せない。融合して、愛になって、さらに強く結びつく。