詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

韓成禮『光のドラマ』

2009-03-03 07:38:44 | 詩集
韓成禮『光のドラマ』(書肆青樹社、2009年03月01日発行)

 巻頭に「水子」という作品がある。03月01日、福岡であったトークセッションで韓成禮が日本語と韓国語で朗読した。日本語の朗読のときは、その詩がよくわからなかった。韓国語のときは、韓国語が理解できないにもかかわらず、強く伝わって来るものがあった。私は韓国語を理解できないのだから、私が受け止めたものは、まったく違ったものかもしれない。まちがった理解の仕方かもしれない。けれども、そのことを書いておきたい。
 韓成禮はこの詩を説明して、露天風呂(温泉)へ行ったときのことを書いたのだと説明した。(そう記憶している。)そして、実際に、そういう風景が描かれている。

原色をひらひら踊らせ
絵を音楽としても流す
マティスの絵画のように
関東の北の山奥 四万 露天温泉
小さく白い虫たちがくねくねと川の水のように
斜めに飛びながら空を流れている
まるで蜉蝣のように 飛ぶものたちは
地に触れることもできず
腰のあたりのどこかで消えてしまう

 季節は冬。雪が舞っている。「小さく白い虫たち」というのは雪のことである。そうはわかっていても、この比喩には、奇妙にひっかかるものがある。
 「水子」というタイトルから生まれなかった胎児を思う。そして、受精を思う。「小さく白い虫たち」は精子に見える。「腰のあたりで消えてしまう」の「腰」が、その印象を強くする。
 「意味」が強く浮かび上がりすぎる。「意味」を隠して、ことばが動くので、その「意味」がいっそう強くなる。雪。積もることなく解けてしまう雪。それは精子の直喩。あるいは、胎児の将来の直喩。受精し、胎児になったけれど、生まれることができなかった「水子」。その「水子」を思っている、思い出している韓成禮。その関係、ことばで描かれていることがらが強すぎ、「意味」になりすぎている感じがして、聞いていて窮屈だった。
 ところが、韓国語の朗読では、そうい意味はまったくわからない。ただ、声だけが、まっすぐに聞こえる。
 このとき、私は、映画「風の丘を越えて」を思い出していた。生き別れになっていた姉と弟が再会する。姉は盲目である。尋ねてきたのが弟だとはわからない。弟の太鼓にあわせて姉がパンソリを歌う。そして、太鼓にあわせて歌いはじめると、彼が弟だとわかる。しかし、そのことは告げずに、ただ歌う。弟は姉がわかってくれたということを実感し、また何もいわずに太鼓をたたきながら、歌を聞く。このとき、映画では姉の声は流れず、フルートのような音が流れる。そこには「ことば」はない。けれど、ことばがないために、逆に強烈に、恋しい思いが直接的に伝わって来る。スクリーンを越えて、映画館にその激情があふれる。--その瞬間に似ていた。
 「ことば」ではなく、「音楽」、その純粋ないのちの旋律を聞いて、私は、あ、日本語を聞いたときはまちがったふうに聞いていたと悟った。
 韓成禮は「水子」を思い出しているのではない。思っているのではない。もちろん、「水子」に対する思いはあるのだが、そういう思いを越えて、「水子」そのものになっている。韓成禮が生まれることのなかった子どもを思い、嘆いているというよりも、その生まれることのなかった子どもが、母を思って、「私はここにいる」と言っているように聞こえたのだ。「お母さん、私はここにいます。お母さん、私はこうやって、いつでもあなたに会いに来ています。お母さんのことを忘れたことはありません。」そんなふうに聞こえたのだ。
 これには、びっくりしてしまった。

  最後の部分。

あの飛ぶものたちは
虚空をくるくる回る くるくる回る
しばらく留まった子宮の中がとても恋しくて
二度と入れない 温かい湯の中に向かって
止めどなく落ちて行く
初冬の温泉地に舞う霙

 露天風呂、温泉は子宮であり、羊水である。そのなかで、韓成禮は胎児になる。ああ、こんなふうにもう一度、お母さんの胎内に帰りたい。ゆったりと浮かんでいたい。私をつくってくれた精子たちも、私をつくりあげた瞬間をなつかしむように、この子宮へ子宮へと舞いおちて来る……。
 このとき、韓成禮は女性であるだけではなく、奇妙な言い方になってしまうが、男性でもある。女性・男性の区別を超越した「いのち」である。そして、その「いのち」になって、「お母さん」と、発することのなかった「産声」をあげているのである。



 セッションの最後の方で、韓成禮は韓国でいう「恨(はん)」について語った。自分自身の中に溜まりつづける悔恨のようなもの。その蓄積--私は、韓成禮の説明を、そんなふうに聞いたが、「水子」はそういう「恨」につながる「いのち」である。
 韓成禮に産むことのできなかった悔恨があるとすれば、「水子」には生まれることがでなかった悔恨がある。謝罪がある。そのふたつは切り離せない。融合して、愛になって、さらに強く結びつく。


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『田村隆一全詩集』を読む(13)

2009-03-03 00:01:33 | 田村隆一
 「言葉のない世界」は刺激的な行にあふれている。

  1

言葉のない世界は真昼の球体だ
おれは垂直的人間

言葉のない世界は正午の詩の世界だ
おれは水平的に人間にとどるまことはできない

 2連目の行は1連目の行の反復・言い直しである。「真昼の球体だ」は「正午の詩の世界だ」。1連目になくて2連目にあるもの。「詩」。「詩」が付け加えられている。このことによって、この作品が「詩」をテーマにしていることがわかる。そして「詩」を「球体」と考えていることも、わかる。
 作品を書き出したとき、田村はまだテーマを見つけてはいない。テーマがあって書きはじめているわけではない。書くこと、書いた瞬間にことばが動く--そして、そこからテーマが発生する。というより、発見されるのだ。「球体」は「詩」として発見され、そのその発見へ、発見のなかへとことばはさらに進んで行く。
 しかし、その進行は、簡単なことではない。
 「おれは垂直的人間」と「おれは水平的に人間にとどるまことはできない」という行のあいだでは、まだ何も発見されていない。単に「垂直」と「水平」が対比されているだけで、「垂直」の実質は何もわからない。

  2

言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかつて
真昼の球体を 正午の詩を
おれは垂直的人間
おれは水平的人間にとどまるわけにはいかない

 これは「1」をもう一度言い直し、言い直すことで、ことばの動きのベクトルを補強している。いったんひきさがり、原点からことばを再加速させ、飛躍しようとしている。そして、実際に、「3」から飛躍する。「球体」と「詩」は別のことばで、「球体」も「詩」も感じさせないことばで語られはじめる。
 なぜ、そういう飛躍になってしまうのか。そんな飛躍をしなければならないのか。

言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかつて

 この行の意味が、ここにある。飛躍の理由がここにある。「言葉のない世界を発見するのだ 言葉をつかつて」というのは、一種の論理矛盾である。ことばをつかえば、その瞬間から「言葉のない世界」は存在し得ない。そういう不可能性へ向かってことばは突き進むのだから、どこかで「矛盾」を超越しなければならない。ふっきらなければならない。それが「飛躍」なのだ。
 「現代詩」のことばは、どんな「飛躍」でも受け入れる、ということを出発点にしている。日常の論理を逸脱しても、その運動を受け入れるということを前提としている。それはことばを洗練させるというよりも、ことばの可能性をさぐる、日本語に何ができるかを発見・発明するということを詩の目標にしているからだ。

  3

六月の真昼
陽はおれの頭上に
おれは岩の大きな群れのなかにいた
そのとき
岩は死骸
あるいは活火山の
大爆発の
エネルギーの
溶岩の死骸

 「飛躍」のなかに、少しだけ「飛躍以前」の残骸が残っている。その残滓によって、「飛躍」が「飛躍」であることがわかる。「真昼」は「1」にでてきたことばである。「1」の「球体」は「陽」である。「詩」は太陽のようなものとして、ここで象徴的に語られていることになる。
 それにつづく行は、かなり複雑である。
 「岩の死骸」と言ったあと、その「死」のイメージとは逆のことばが何回かつづく。「活火山」「大爆発」「エネルギー」「溶岩」。そして、そういう、「死」を否定するようなことばを受けて、「の死骸」ともとに戻る。
 ここでは、ことばはまだことば自身の動きを発見していない。予感はしているが、どう進んでいいかは、まだわかっていない。
 そういうあいまいな(?)というか、予感だけの径路をとおって、ことばは動きをととのえる。
 前に書いたことを言い直しながら、徐々に言いたいことを見つけ出していく。生み出していく。
 詩は、先の引用部分のあと、1行の空き(小さな飛躍)のあと、突然濃密になりはじめる。

なぜそのとき
あらゆる諸形態はエネルギーの死骸なのか
なぜそのとき
あらゆる色彩とリズムはエネルギーの死骸なのか

 「岩」とは実は「田村以前の詩」であることが、ここまでことばが動いてきて、はじめてわかる。それは「死骸」である。たしかにその詩もかつてはエネルギーそのものだっただろうけれど、詩になってしまった瞬間、死骸になった。それは「言葉の世界」なのだ。「言葉のない世界」を覆い隠している否定すべき存在だ。
 田村は、ここでは、そういう死骸から脱けだし、新しい詩のなかに生まれかわりたいと欲望している。「言葉」の世界から脱出し「言葉のない世界」へ生まれ変わりたいと欲望している。その欲望だけは、はっきり自覚できる。
 でも、その新しい詩とは何か。はっきりしない。はっきりしないけれど、予感がある。インスピレーションが、田村を直撃する。

一羽の鳥
たとえば大鷲は
あのゆるやかな旋回のうちに
観察するが批評はしない
なぜそのとき
エネルギーの諸形態を観察だけしないのか
なぜそのとき
あらゆる色彩とリズムを批評しようとしないのか

 「観察」と「批評」。
 田村は「観察」は肯定するが「批評」を否定する。「批評」がはじまるとき、死がはじまるのだ。「世界」(対象)を観察しているとき、そこにはまだことばはない。それを語るとき、つまり「言葉の世界」がはじまるとき、そこに批評が加わり、その批評によって「世界」のもっているエネルギーの、まだ形をもっていないエネルギーそのものは、ひとつの「枠」のようなもの制御される。そして死んでしまう。死骸になる。

 そうならないような、ことばの動かし方はないのか。
 ことばがエネルギーを死骸におとしめることなく、エネルギーのまま、目の前に存在するようなあり方はないのか。
 --そんなふうに、田村は「現代詩」を定義しながら、ことばを動かす。
                          (この項、あすにつづく。)



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