西岡寿美子「会話」(「二人」277 、2009年02月05日発行)
庭へやってきた小鳥のことを描いている。描いているうちに、その小鳥がだんだん人間のようになってくる。
後半部分。
この「この時喉元を呑み下しているらしい」の「らしい」で私は笑ってしまった。楽しい。「キョトキョト」から「呻く」までは確かに想像ではなく、しっかり観察した小鳥の描写であり、「この時喉元を呑み下している」というのは外からはわからない。だから「らしい」と付け加え、それが想像ですよ、と西岡は付け加えるのだけれど、この「らしい」の付け加えの律儀さに笑ってしまった。笑ったというと申し訳ない気がしないでもないけれど、笑ってしまったのだからしようがない。
正確に事実を観察する。それをそのままことばにする。そして、その観察をとおして、何か感じたら、そのことを書く--その流れが、あまりにも律儀で、うれしくなってしまうのだ。
いま引用した部分では、西岡は、小鳥の「肉体」の動き、それも外からは見えない「肉体」の「内部」の動きを想像した。そこまでことばが動いてしまうと、次はどうなるか。どうしたって、その「内部」の「内部」、つまり、「こころ」というものを想像してしまう。そんなふうにして人間のこころは動いていくものだが、その動きが、西岡の場合、ほんとうにそのままなのだ。
肉体の外部の観察から、その肉体が何をしているかを判断・想像し、それから、その肉体をそんなふうに動かす時、こころはどうなっているかを想像する。この自然な、あまりにも自然な動きの律儀さ。
引用した部分につづく連。
「らしい」という思うでもなく思ってしまう想像が、この連ではしっかり「思う」という動詞をつかって、ことばを動かしている。「思う」はたぶん、西岡にとって、考えを確認することなのだ。「らしい」はぱっとつかんだ印象だが、「思う」はじっくりと腰を据えて、ことばの中へ入っていく。
あらゆることに通じるのだろうけれど、真剣に考えると、そこにはどうしても「人間」が入ってくる。自分というものが入ってくる。人間は基本的に自分を中心にして(自分の実感を中心にして)考える。小鳥のことを書きながら、小鳥そのものではなく、「人間」と重ね合わせた「いのち」のことを書いてしまう。そしてそのとき、「人間でもそうだから」という行にみられるように、「人間」は何かを説明するそえものになる。補強材料になる。補強しながら、対象と一体になる。これがおもしろい。ここまでくると、小鳥と人間は区別がつかなくなる。
最終連。
小鳥の「会話」を聞きながら、実は、西岡は小鳥と「会話」している。「会話」してしまっている。その事実におどろき、西岡は、ちょっと照れたように、身を引く。
いいなあ、この距離の取り方。「観念」というものを動物はもたないことになっている。人間の考えでは。そういうふうに「自覚」することで、西岡は、ここに書いたことが、やっぱり人間の思いにすぎず、小鳥とは違っているかもしれませんと、そっとはずかしがるのである。
自分の考えをぐいぐい押して、考えていないことまで考えてしまうという詩もおもしろいけれど、西岡の詩のように、書いているうちに思わず「こころ」が反応して対象と一体になってしまって、「会話」をしてしまって、あ、いま、逸脱してしまった。人間の暮らしからそれてしまったと、恥ずかしそうに引き返してくるというスタイルも楽しい。
庭へやってきた小鳥のことを描いている。描いているうちに、その小鳥がだんだん人間のようになってくる。
後半部分。
キョトキョトと落ち着きなく
細い頭を葉むらから差し上げたり竦めたり
辺りを窺ってナンテンの赤玉を素早く一つ銜え込み
しばらく嘴に挟んでククとまろばせた末
フィーヤ フィ ムムムは呻く
この時喉元を呑み下しているらしい
この「この時喉元を呑み下しているらしい」の「らしい」で私は笑ってしまった。楽しい。「キョトキョト」から「呻く」までは確かに想像ではなく、しっかり観察した小鳥の描写であり、「この時喉元を呑み下している」というのは外からはわからない。だから「らしい」と付け加え、それが想像ですよ、と西岡は付け加えるのだけれど、この「らしい」の付け加えの律儀さに笑ってしまった。笑ったというと申し訳ない気がしないでもないけれど、笑ってしまったのだからしようがない。
正確に事実を観察する。それをそのままことばにする。そして、その観察をとおして、何か感じたら、そのことを書く--その流れが、あまりにも律儀で、うれしくなってしまうのだ。
いま引用した部分では、西岡は、小鳥の「肉体」の動き、それも外からは見えない「肉体」の「内部」の動きを想像した。そこまでことばが動いてしまうと、次はどうなるか。どうしたって、その「内部」の「内部」、つまり、「こころ」というものを想像してしまう。そんなふうにして人間のこころは動いていくものだが、その動きが、西岡の場合、ほんとうにそのままなのだ。
肉体の外部の観察から、その肉体が何をしているかを判断・想像し、それから、その肉体をそんなふうに動かす時、こころはどうなっているかを想像する。この自然な、あまりにも自然な動きの律儀さ。
引用した部分につづく連。
一度に啄むのは精々四つか五つ
それでもはや腹が満ち
今日という日の糧を得た喜びの声を挙げるのだろうが
あんな一握りの身体で胸も張り裂けんばかり叫ぶので
何か悲しいことが起きたかとこちらは耳をそばだてる
思うに
人間でもそうだが
嬉しいことの極まりと
悲しいことのそれは似通っているのだろう
「らしい」という思うでもなく思ってしまう想像が、この連ではしっかり「思う」という動詞をつかって、ことばを動かしている。「思う」はたぶん、西岡にとって、考えを確認することなのだ。「らしい」はぱっとつかんだ印象だが、「思う」はじっくりと腰を据えて、ことばの中へ入っていく。
あらゆることに通じるのだろうけれど、真剣に考えると、そこにはどうしても「人間」が入ってくる。自分というものが入ってくる。人間は基本的に自分を中心にして(自分の実感を中心にして)考える。小鳥のことを書きながら、小鳥そのものではなく、「人間」と重ね合わせた「いのち」のことを書いてしまう。そしてそのとき、「人間でもそうだから」という行にみられるように、「人間」は何かを説明するそえものになる。補強材料になる。補強しながら、対象と一体になる。これがおもしろい。ここまでくると、小鳥と人間は区別がつかなくなる。
最終連。
雪でなくてよかった
風もなくてよかった
羽に陽を溜めたら
山へ帰ろう
フ ヒィーヨ
あしたまた来させて貰うことにしようよお前
と連れ合いと語り合うのだろう
--あの者らに「あした」の観念があるとしたらのことだが
小鳥の「会話」を聞きながら、実は、西岡は小鳥と「会話」している。「会話」してしまっている。その事実におどろき、西岡は、ちょっと照れたように、身を引く。
--あの者らに「あした」の観念があるとしたらのことだが
いいなあ、この距離の取り方。「観念」というものを動物はもたないことになっている。人間の考えでは。そういうふうに「自覚」することで、西岡は、ここに書いたことが、やっぱり人間の思いにすぎず、小鳥とは違っているかもしれませんと、そっとはずかしがるのである。
自分の考えをぐいぐい押して、考えていないことまで考えてしまうという詩もおもしろいけれど、西岡の詩のように、書いているうちに思わず「こころ」が反応して対象と一体になってしまって、「会話」をしてしまって、あ、いま、逸脱してしまった。人間の暮らしからそれてしまったと、恥ずかしそうに引き返してくるというスタイルも楽しい。
北地-わが養いの乳西岡 寿美子西岡寿美子このアイテムの詳細を見る |