詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

西岡寿美子「会話」

2009-03-04 09:23:21 | 詩(雑誌・同人誌)
西岡寿美子「会話」(「二人」277 、2009年02月05日発行)

 庭へやってきた小鳥のことを描いている。描いているうちに、その小鳥がだんだん人間のようになってくる。
 後半部分。

キョトキョトと落ち着きなく
細い頭を葉むらから差し上げたり竦めたり
辺りを窺ってナンテンの赤玉を素早く一つ銜え込み
しばらく嘴に挟んでククとまろばせた末
フィーヤ フィ ムムムは呻く
この時喉元を呑み下しているらしい

 この「この時喉元を呑み下しているらしい」の「らしい」で私は笑ってしまった。楽しい。「キョトキョト」から「呻く」までは確かに想像ではなく、しっかり観察した小鳥の描写であり、「この時喉元を呑み下している」というのは外からはわからない。だから「らしい」と付け加え、それが想像ですよ、と西岡は付け加えるのだけれど、この「らしい」の付け加えの律儀さに笑ってしまった。笑ったというと申し訳ない気がしないでもないけれど、笑ってしまったのだからしようがない。
 正確に事実を観察する。それをそのままことばにする。そして、その観察をとおして、何か感じたら、そのことを書く--その流れが、あまりにも律儀で、うれしくなってしまうのだ。
 いま引用した部分では、西岡は、小鳥の「肉体」の動き、それも外からは見えない「肉体」の「内部」の動きを想像した。そこまでことばが動いてしまうと、次はどうなるか。どうしたって、その「内部」の「内部」、つまり、「こころ」というものを想像してしまう。そんなふうにして人間のこころは動いていくものだが、その動きが、西岡の場合、ほんとうにそのままなのだ。
 肉体の外部の観察から、その肉体が何をしているかを判断・想像し、それから、その肉体をそんなふうに動かす時、こころはどうなっているかを想像する。この自然な、あまりにも自然な動きの律儀さ。
 引用した部分につづく連。

一度に啄むのは精々四つか五つ
それでもはや腹が満ち
今日という日の糧を得た喜びの声を挙げるのだろうが
あんな一握りの身体で胸も張り裂けんばかり叫ぶので
何か悲しいことが起きたかとこちらは耳をそばだてる
思うに
人間でもそうだが
嬉しいことの極まりと
悲しいことのそれは似通っているのだろう

 「らしい」という思うでもなく思ってしまう想像が、この連ではしっかり「思う」という動詞をつかって、ことばを動かしている。「思う」はたぶん、西岡にとって、考えを確認することなのだ。「らしい」はぱっとつかんだ印象だが、「思う」はじっくりと腰を据えて、ことばの中へ入っていく。
 あらゆることに通じるのだろうけれど、真剣に考えると、そこにはどうしても「人間」が入ってくる。自分というものが入ってくる。人間は基本的に自分を中心にして(自分の実感を中心にして)考える。小鳥のことを書きながら、小鳥そのものではなく、「人間」と重ね合わせた「いのち」のことを書いてしまう。そしてそのとき、「人間でもそうだから」という行にみられるように、「人間」は何かを説明するそえものになる。補強材料になる。補強しながら、対象と一体になる。これがおもしろい。ここまでくると、小鳥と人間は区別がつかなくなる。
 最終連。

雪でなくてよかった
風もなくてよかった
羽に陽を溜めたら
山へ帰ろう
フ ヒィーヨ
あしたまた来させて貰うことにしようよお前
と連れ合いと語り合うのだろう
--あの者らに「あした」の観念があるとしたらのことだが

 小鳥の「会話」を聞きながら、実は、西岡は小鳥と「会話」している。「会話」してしまっている。その事実におどろき、西岡は、ちょっと照れたように、身を引く。

--あの者らに「あした」の観念があるとしたらのことだが

 いいなあ、この距離の取り方。「観念」というものを動物はもたないことになっている。人間の考えでは。そういうふうに「自覚」することで、西岡は、ここに書いたことが、やっぱり人間の思いにすぎず、小鳥とは違っているかもしれませんと、そっとはずかしがるのである。
 自分の考えをぐいぐい押して、考えていないことまで考えてしまうという詩もおもしろいけれど、西岡の詩のように、書いているうちに思わず「こころ」が反応して対象と一体になってしまって、「会話」をしてしまって、あ、いま、逸脱してしまった。人間の暮らしからそれてしまったと、恥ずかしそうに引き返してくるというスタイルも楽しい。



北地-わが養いの乳
西岡 寿美子
西岡寿美子

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(14)

2009-03-04 00:00:00 | 田村隆一
                       (「言葉のない世界」のつづき。)
 「観察」と「批評」を田村は言い換える。「1」において「ことばのない世界は真昼の球体だ」を言い換えたように。

  5

鳥の目は邪悪そのもの
彼は観察し批評しない
鳥の舌は邪悪そのもの
彼は嚥下し批評しない

 「観察」てる鳥。その「観察」を田村は「邪悪」ということばで「肯定」している。「邪悪」というこきばは一般的に否定的につかわれる。「邪悪」なものは市民生活のなかでは否定される。しかし、「観察」を肯定しているのだから、「邪悪」も肯定していることになる。
 「現代詩」が難解といわれる要素がここにある。「現代詩」ではふつうの市民生活でつかわれるとおりのとこばの定義でことばをつかうわけではない。流通していることばの定義からことばを解放し、別の要素、だれも見いだしていない定義(詩人独自の定義)でことばを動かす。自分自身の定義をつくりだしてかまわない、どんな定義をしてもいい、というのが現代詩のルールなのである。
 肯定される「邪悪」。そして、その「邪悪」を補足するのにつかわれているもの。「目」と「舌」。肉体である。「観察」するのは「目」、「嚥下」するのは「舌」。それは、ことばを操作しない。(舌は声を操作するけれど、ことばそのものを動かすわけではない。)「肉体」は、「言葉のない世界」なのである。それは「邪悪」である。なぜか。「頭」を裏切るからである。「頭」の制御を振り切って、「いのち」におぼれるからである。快楽に忠実な本能だからである。
 田村は「邪悪」を補足する。どんな文学作品も、前に書いたことを補足しながら運動を進める。というよりも、そうやって運動することでしか前へ進めない。補足は、実は、書くことで発見する新しいいのちの姿なのである。補足は、それまでのことばを剥がしていく方法なのである。
 矛盾した言い方になるが、補足は、何かを継ぎ足すのではない。むしろ、覆い隠しているものをはぎ取るのである。ことばを追加することで、前のことばをはぎとり、その内部へ入ってく方法が文学における補足である。
 書きつづけるということは、次々に、最初の行では書けなかったことの内部、書こうとしている「活火山」の内部へ内部へと入っていくことなのである。

  6

するどく裂けたホシガラスの舌を見よ
異神の槍のようなアカゲラの舌を見よ
彫刻ナイフのようなヤマシギの舌を見よ
しなやかな凶器 トラツグミの舌を見よ

彼は観察し批評しない
彼は嚥下し批評しない

 「邪悪」とは「異神の槍」である。「異なる」ということ、「槍」という武器であることが、ここでは重要である。
 「邪悪」とは「しなやかな凶器」である。「しなやか」と「凶器」という、いわば反対のものの結びつきが、ここでは重要である。
 異質なものが結びつくとき、それはそれがほんらいのもの(正しい?結びつきのもの)を超越したパワーをもつ。
 「邪悪」とは「悪い」という価値判断をあらわすためにつかわれているのではなく、「超越」という意志をあらわすためにつかわれているのである。

 「邪悪」を田村は、さらに言い換えている。
 
  9

死と生殖の道は
小動物と昆虫の道
喊声をあげてとび去る蜜蜂の群れ
待ちぶせている千の針 万の針
批評も反批評も
意味の意味も
空虚な建設も卑小な希望もない道
暗喩も象徴も想像力もまつたく無用の道
あるものは破壊と繁殖だ
あるものは再創造と断片だ
あるものは破片と断片のなかの断片だ
あるものは破片と破片のなかの破片だ
あるものは巨大な地模様のなかの地模様だ

 「批評も反批評も」、あらゆるものが「ない」。「ある」ものは「破壊と繁殖」といったいわば反対にあるものの同居、あるきは「巨大な地模様のなかの地模様」といった区別のつかないもの。そういう状況をカオス、混沌と呼ぶことができる。
 「邪悪」とは「混沌」のことなのである。そして、その「混沌」のなかでは、破壊と繁殖が同時に行われている。死と生が同居している。矛盾しているものが同居しているから混沌というのだが……

  10

彼の目と舌は邪悪そのものだが彼は邪悪ではない

 これは、とても重要な行だ。「肉体」は邪悪である。けれど、彼の存在そのものは邪悪ではない。部分と全体の関係がここにある。
 詩の1行1行は、邪悪で混沌に満ちている。けれど詩そのものは邪悪ではない。
 ことばの1行1行は矛盾している。けれども詩そのもの、詩の全体は矛盾していない。
 あらゆることばは先行することばを破壊する。けれども、ことばのいのちそのものは破壊しない。
 むしろ、破壊することで、ことばを甦らせるのだ。「言葉のない世界」を新しく誕生させるのだ。新しいいのちの誕生へ向けて、ことばを破壊しつづけるのだ。「流通している言語」を。

 この詩の終わり方、最後の3行は、けれど、ちょっとナイーブである。そういうものが同居しているというのが田村の魅力だろう。

  13

おれは小屋にはかえらない
ウィスキーを水でわるように
言葉を意味でわるわけにはいかない

 私の感想は、いつでも、詩を割りすぎているかもしれない。反省。



ワインレッドの夏至―田村隆一詩集
田村 隆一
集英社

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする