詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ロドリゴ・ガルシア監督「パッセンジャーズ」(★)

2009-03-17 20:17:34 | 映画
監督 ロドリゴ・ガルシア 出演 アン・ハサウェイ、パトリック・ウィルソン、デヴィッド・モース

 飛行機墜落事故。なぜか、生存者が5人。その5人をセラピストを若い女性がつとめる。そして、明らかになる事実……。
 あ、だめです。
 見はじめてすぐに「明らかになる事実」がわかってしまう。これがわからないとしたら、よほど映画を見ていいな人。
 まず色彩。これが「アザーズ」(アレハンドロ・アメナーバル監督、ニコール・キッドマン主演)そっくり。しめった、水分の多い色。その空気のゆらぎ。そして、主役のアン・ハサウェイを見つめる関係者の目付き。これも「アザーズ」そっくり。
 「アザーズ」を見ていなくても、「シックス・センス」(M ・ナイト・シャマラン監督、ブルース・ウィリス主演)を見た人なら、途中で絶対にストーリーのどんでん返しがくっきりと見えて来る。
 どんな作品にも、それに先だつ作品があるのだから、そっくりだからといって、それがいけないというわけではないだろうけれど、この映画がひどいのは、その「そっくり」をごまかすために奇妙なことをしていること。
 アン・ハサウェイとパトリック・ウィルソンが途中で恋をする。精神科医と患者が恋をする。しかも、治療を通じて。これは実際にはあってはいけないこと。倫理違反。そんな現実には許されない倫理違反を挟んで、映画の「間」をもたせようとしているのだが、そのために逆に「間延び」してしまう。あまりのばかばかしい逸脱に、私は一瞬、あれ、これって「アザーズ」じゃないのか? 違うストーリーなのか? と思ってしまった。けれど、やっぱり「アザーズ」だった。げんなりしてしまう。



 ところで、この映画には、犬が登場する。そして、重要な役割もする。ところが、この犬が、とてもハリウッドの犬とは思えないほど演技力(?)がない。へたくそです。犬が演じるにしてはむずかしすぎる役ということもあるのだけれど。
 これは逆の言い方をすると、この映画のような重要な役を犬に演じさせてはいけない。それにふさわしい犬がいないなら(そういう映像が撮れなかったのなら)、その段階で犬のシーンはカットすべきもの。脚本も悪ければ、編集もおそまつ、ということ。
 私は犬が大好きなので、こんな役を演じさせられ、しかもきっとみんなからへたくそと非難されているのだと思うと、ただただその犬がかわいそうで、とても悔しい。




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森川雅美「(何も語らない)」、新延拳「遠い祈り」

2009-03-17 09:55:41 | 詩(雑誌・同人誌)
森川雅美「(何も語らない)」、新延拳「遠い祈り」(「現代詩図鑑」2009年冬号、2009年02月20日発行)

 森川雅美には1行がかなり長い詩がある。私は、そのときの森川のことばのリズムが嫌いである。「肉体」を欠いている。「頭」でことばを動かしている。ところが、1行が短いと、とてもいい。「頭」がことばのなかに入り込む余地がないのだろう。

何も語らない
地図の表層の地軸はずれる
傲慢な笑顔たちと
急激な出帆
走れ走れ走れ
煙の片腕に落ちる
青空を払い落とすこと
誰もが水を噛む
壁の傷は崩れる前に割れる
残酷な折り返し点と
少量の紅葉
走れ走れ走れ

 前半を引用したのだが、たとえば、そのなかの次の2行

煙の片腕に落ちる
青空を払い落とすこと

 これは1行ずつ独立したものとして読むことができる。また、また先行する「煙の片腕に落ちる」を次の行の「青空」を修飾することばとしても読むことができる。それは読者にまかされている。森川はそれをどちらかにしようと「頭」でことばを押さえ込んでいない。そのためにリズムが自由になる。解放される。そして逸脱していく。
 そして。
 あ、ちょっとどこへ動いているのかわからない--乗りすぎてしまった、と思ったら、思い出したように「走れ走れ走れ」ということばに戻って来る。戻って来て、というか、戻って来たからこそ、まるで出発点のときの元気さでさらにことばが加速する。ことばが「肉体」となって走っていく。
 これはいいなあ。
 どこへ、という意識がない。「頭」がない。ただ走れるから走る。そういう「肉体」がいい。
 後半は、引用しないが、たとえば一方に「目測はいつでも少し誤る」という抒情があり、他方に「葉を揺らす風は壊れる」という非情がある。また一方に「脳内分泌物」という細いリズムがあり、他方に「掌をはらむ」というひくくて太いリズムがある。どちらかにことばが収斂していくのではなく、逆に、加速することで、無意識に逸脱していく。
 でも、最後の最後は、

走れ走れ走れ
鳥の羽ばたきに叩かれる
脳内に光を見出すこと

 という、なんだ、やっぱり「頭」がでてきてしまうのか、という「オチ」までついていて、笑ってしまえるところが、とてもいい。



 新延拳「遠い祈り」と比較すると、森川の詩が、そのことばが「肉体」であることがわかりやすくなるかもしれない。否定的(?)参照のための例として紹介してしまうことになるので、新延には少し申し訳ない気もするのだが……。
 作品の1連目。

列車から通りすぎる時見るこの町の建物はみな裏側
路地が夕日に染まる頃
レース越しに嬰児が眠っているのが見えた
母親は頬杖をつき煙のようによりそって

 1行目の「裏側」ということばの、はっとするような新しさ。けれども、そのことばが2行目の「路地が夕日に染まる頃」に乗っ取られてしまうと、もう、そこから先は「頭」の世界である。「レース」「嬰児」「母親」。ことばが動いて行ける場はもう決定してしまっている。

遠い日にけった石ころが
いま足元に落ちてきた

 郷愁--という「頭」がつくりあげた感性の記憶。新延は、彼自身の感性であり、彼自身の記憶だというだろう。確かにそうなのだろうけれど、それが新延の感性であり、記憶だとわかるのは新延だけである。古今集からはじまり、いくつもの時代をへて、磨き上げてきたことばの選択方式。「頭」のなかに積み重なっている「文学」。そこから少しも逸脱していっていない。
 「頭」から逸脱する必要はない--新延はいうかもしれないけれど。



山越
森川 雅美
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『田村隆一全詩集』を読む(27)

2009-03-17 00:56:17 | 田村隆一
 「新年の手紙」は(その一)と(その二)の2篇がある。「材木座光明寺の除夜の鐘をきいてから」という行を中心に同じようなことばが動いているところもある。似ているけれど、微妙に違う。

 (その一)

材木座光明寺の除夜の鐘をきいてから
海岸に出てみたまえ すばらしい干潮!
沖にむかってどこまでも歩いていくのだ そして
ひたすら少数の者たちのために手紙を書くがいい

(その二)

大晦日の夜は材木座光明寺の除夜の鐘を聞いてから
暗い海岸に出てみるつもりです きっとすばらしい干潮!
どこまでも沖にむかってどこまでも歩いて行け!
もしかしたら
「ある肯定の炎」がぼくの瞳の光点に
見えるかもしれない
では

 あるいは、これは微妙に似ているが、決定的に違うというべきなのか。(その一)は「海岸に出てみたまえ」と相手に行動を勧めている(その二)は「海岸に出てみるつもりです」と自分の行動を語っている。ある意味では、それは「逆向き」のベクトルということができるかもしれない。対立、矛盾がここにある、といえるかもしれない。
 --しかし、やはり似ていると思う。立場がまったく逆なのに、同じに感じてしまう。なぜか。そこに書かれている行動が「海岸に出る」という動きのなかで重なるからだ。運動が重なると、それは「同じ」ものになるのだ。だれが、という「主語」が消える。
 たぶん、「新年の手紙」なかでいちばん大切なのは、「運動」が重なるとき「主語」が消えるということなのだ。

 この作品のなかで、田村はW・H・オーデンの詩の断片を送ってくれる「君」のことから書きはじめ、「こんどはぼくが出します」と書きはじめている。

元気ですか
毎年いつも君から「新年の手紙」をもらうので
こんどはぼくが出します
君の「新年の手紙」はW・H・オーデンの長詩の断片を
ガリ版刷にしたもので
いつも愉しい オーデンといえば
「一九三九年九月一日」という詩がぼくは大好きで
エピローグはこうですね--

 「君」がオーデンの詩を引用して「新年の手紙」を書いてきた。こんどは田村が同じことを「君」に向けてやる。そうすると、オーデンの詩を引用するという行為のなかで、「君」と「ぼく」の区別かなくなる。「主語」が消える。その結果、どうなるか。オーデンが代わりに生成して来る。生まれて来る。それはオーデンそのものなのだが、なぜか、「君」と「ぼく」とのあいだに、あたらしくオーデンが生まれて来るという感じがする。引用ではなく、二人のあいだでオーデンが、まるで新しい詩を書いているかのように、そのことばが姿をあらわす。
 田村は、そのオーデンの詩を引用しながら、オーデンがその詩を書いたときと、いま、田村がいきている時代の日本とのあいだで、やはりオーデンの国(オーデンの時代)と田村の国(田村の時代)の区別がなくなり、ただ、オーデンのことば、その精神だけが動いているのを感じるのだ。

 対話というのは、こういうことかもしれない。

 他人と出会う。他人のことばを繰り返す。そのとき、「他人」と「ぼく」の区別がなくなり、ことばだけが純粋に動く。その純粋なことばが「ぼく」を洗い流す。「いま」の「ぼく」を。「過去」の「ぼく」を。そこには、時代と場所を越えた、精神そのものがある。

 田村の、この「新年の手紙」を読むと、私はいつでも震えてしまう。
 オーデンの詩を引用し、そのなかにある「正しきものら」「メッセージ」ということば、「ある肯定の炎」ということばのの前で、田村のすべてのことばが消しさられ、消しさられたその「位置」から、新しく生まれようとうごめいているのを感じる。
 
 何が生まれているか、わからない。そこには、ほんとうに「主語」がない。ことばを発する人間という「主語」だけではなく、そこから誕生する「精神」にもまだ名前はつけられていない。つまり「主語」になっていない何か……。
 「対話」、「他人」との会話のなかでは、その話されているものも「主語」がない。それは、どこへでも動いていくということ、動く方向が決められていないということかもしれない。ただ、動くのだ。ただ、ベクトルに、矢印に、→になってしまうのだ。

 田村は、詩を「では」というあいさつで切り上げている。
 「では」どうしたというのだ--と問いかけてもむだである。私たちはいつでも動けるだけ動いたら「では」と動きを断ち切って、「いま」「ここ」ではないどこかへ行く(去っていく)しかないのである。
 「動いた」という記憶だけを抱いて。



田村隆一全詩集
田村 隆一
思潮社

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