原利代子「ひとつの心」(「現代詩図鑑」2009年冬、2009年02月20日発行)
原利代子「ひとつの心」は、知っている人の死を描いている。その描き方は、きのう読んだ伊藤悠子の作品とはずいぶん違っている。違っているが、やはり静かである。「フラワーさん」の「ご主人」が遺体となって病院から帰って来る。
死が、気持ちというよりも「日常」と対比されて描かれている。ユニクロへ買い物にゆく。歯医者へ治療にゆく。みかんを買いにゆく。そうした日常のすぐ隣に死がある。葬儀がある。
いのちと死がとなりあわせで存在している。--そういう現実は、ふいに訪れてきて、そのふいの訪問にひとはどうしていいかわからない。わからないから、わかっていることをする。そして、そのわかっていることをことばにしてみると、死と日常は遠くかけ離れているはずなのに、意外と近いということがわかっている。というか、どれほど遠いのかがわからなくなる。ひとは(原は)、知り合いの人の死を知って、知っているけれど、その死とはかかわりのないことができる。かかわりのないことを自分の日常としてやってしまう。そういう日常を暮らしながら、同時に、葬儀の日には葬儀に参列し、遺体を見送る。そういう行動をとる。そのとき、原の「肉体」ははじめて周りの人の「肉体」と、行動として重なり合う。みんなが、「しーんと手を合わせ その上に頭をたれ」るという「肉体」の形になる。
--その瞬間、なにかが、かわる。
肉体が同じ形をとる、ということは、大切なことなのだ。たいへんなことなのだ。
すべての人の肉体は対等に個別である。優劣がない。そして、その肉体は、どんなときでも、他人のこころとは関係なく動く。自分自身のこころとも関係なく動いてしまうかもしれない。それでも、そういう肉体がひとつの形をなぞるとき、ばらばらだったこころが、同じような形になる。ひとつになる。
「なる」というは、単なる変化をあらわしているだけではない。
それは「生む」ということなのだろう。きっと。「ひとつの心になる」のではなく、「ひとつの心を生む」のだ。だからこそ、最後の行では「ある」という動詞がつかわれる。「ひとつの心がありました」と。
こころは、常に動いていく。変化するということは当たり前である。「なる」だけなら、いつだって「なる」を繰り返している。けれども「なる」だけでは言い表せない瞬間がある。こうしたこころの形を、原は、日常の肉体を静かに並列させることで浮かび上がらせている。
原利代子「ひとつの心」は、知っている人の死を描いている。その描き方は、きのう読んだ伊藤悠子の作品とはずいぶん違っている。違っているが、やはり静かである。「フラワーさん」の「ご主人」が遺体となって病院から帰って来る。
フラワーさんと同じ組の住民は街角に集まって
ひそひそと 慣れない葬儀の相談を始めました
組が一緒でないあたしはユニクロへ買い物に行きました
フリースのバーゲンがあったからです
葬儀は二十九日 出棺が三時 と書かれた紙が張り出されました
その日 あたしは午前中は歯医者に行きました
奥歯の小さな義歯を作ってもらうためです
三時が近づくと ぞろぞろと人が集まり始めました
フラワーさんの家を取り囲み ざわざわとしていました
フラワーさんが出てきて涙ながらに最後のご挨拶をしました
三時出棺
しーんと手を合わせ その上に頭をたれ
あたしらはひとつの心になっていいました
長いクラクションを鳴らすと ワゴン車は厳かに動き始めました
そのあと あたしは無人販売機の小屋へみかんを会に行きました
そこのみかんは甘酸っぱくて美味しいのです
胸の中には死への感動がありました
ひとつの心がありました
死が、気持ちというよりも「日常」と対比されて描かれている。ユニクロへ買い物にゆく。歯医者へ治療にゆく。みかんを買いにゆく。そうした日常のすぐ隣に死がある。葬儀がある。
いのちと死がとなりあわせで存在している。--そういう現実は、ふいに訪れてきて、そのふいの訪問にひとはどうしていいかわからない。わからないから、わかっていることをする。そして、そのわかっていることをことばにしてみると、死と日常は遠くかけ離れているはずなのに、意外と近いということがわかっている。というか、どれほど遠いのかがわからなくなる。ひとは(原は)、知り合いの人の死を知って、知っているけれど、その死とはかかわりのないことができる。かかわりのないことを自分の日常としてやってしまう。そういう日常を暮らしながら、同時に、葬儀の日には葬儀に参列し、遺体を見送る。そういう行動をとる。そのとき、原の「肉体」ははじめて周りの人の「肉体」と、行動として重なり合う。みんなが、「しーんと手を合わせ その上に頭をたれ」るという「肉体」の形になる。
--その瞬間、なにかが、かわる。
あたしらはひとつの心になっていました
肉体が同じ形をとる、ということは、大切なことなのだ。たいへんなことなのだ。
すべての人の肉体は対等に個別である。優劣がない。そして、その肉体は、どんなときでも、他人のこころとは関係なく動く。自分自身のこころとも関係なく動いてしまうかもしれない。それでも、そういう肉体がひとつの形をなぞるとき、ばらばらだったこころが、同じような形になる。ひとつになる。
「なる」というは、単なる変化をあらわしているだけではない。
それは「生む」ということなのだろう。きっと。「ひとつの心になる」のではなく、「ひとつの心を生む」のだ。だからこそ、最後の行では「ある」という動詞がつかわれる。「ひとつの心がありました」と。
こころは、常に動いていく。変化するということは当たり前である。「なる」だけなら、いつだって「なる」を繰り返している。けれども「なる」だけでは言い表せない瞬間がある。こうしたこころの形を、原は、日常の肉体を静かに並列させることで浮かび上がらせている。
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