詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

原利代子「ひとつの心」

2009-03-07 08:22:03 | 詩(雑誌・同人誌)
原利代子「ひとつの心」(「現代詩図鑑」2009年冬、2009年02月20日発行)

 原利代子「ひとつの心」は、知っている人の死を描いている。その描き方は、きのう読んだ伊藤悠子の作品とはずいぶん違っている。違っているが、やはり静かである。「フラワーさん」の「ご主人」が遺体となって病院から帰って来る。

フラワーさんと同じ組の住民は街角に集まって
ひそひそと 慣れない葬儀の相談を始めました
組が一緒でないあたしはユニクロへ買い物に行きました
フリースのバーゲンがあったからです

葬儀は二十九日 出棺が三時 と書かれた紙が張り出されました
その日 あたしは午前中は歯医者に行きました
奥歯の小さな義歯を作ってもらうためです

三時が近づくと ぞろぞろと人が集まり始めました
フラワーさんの家を取り囲み ざわざわとしていました
フラワーさんが出てきて涙ながらに最後のご挨拶をしました
三時出棺
しーんと手を合わせ その上に頭をたれ
あたしらはひとつの心になっていいました
長いクラクションを鳴らすと ワゴン車は厳かに動き始めました

そのあと あたしは無人販売機の小屋へみかんを会に行きました
そこのみかんは甘酸っぱくて美味しいのです
胸の中には死への感動がありました
ひとつの心がありました

 死が、気持ちというよりも「日常」と対比されて描かれている。ユニクロへ買い物にゆく。歯医者へ治療にゆく。みかんを買いにゆく。そうした日常のすぐ隣に死がある。葬儀がある。
 いのちと死がとなりあわせで存在している。--そういう現実は、ふいに訪れてきて、そのふいの訪問にひとはどうしていいかわからない。わからないから、わかっていることをする。そして、そのわかっていることをことばにしてみると、死と日常は遠くかけ離れているはずなのに、意外と近いということがわかっている。というか、どれほど遠いのかがわからなくなる。ひとは(原は)、知り合いの人の死を知って、知っているけれど、その死とはかかわりのないことができる。かかわりのないことを自分の日常としてやってしまう。そういう日常を暮らしながら、同時に、葬儀の日には葬儀に参列し、遺体を見送る。そういう行動をとる。そのとき、原の「肉体」ははじめて周りの人の「肉体」と、行動として重なり合う。みんなが、「しーんと手を合わせ その上に頭をたれ」るという「肉体」の形になる。
 --その瞬間、なにかが、かわる。

あたしらはひとつの心になっていました

 肉体が同じ形をとる、ということは、大切なことなのだ。たいへんなことなのだ。
 すべての人の肉体は対等に個別である。優劣がない。そして、その肉体は、どんなときでも、他人のこころとは関係なく動く。自分自身のこころとも関係なく動いてしまうかもしれない。それでも、そういう肉体がひとつの形をなぞるとき、ばらばらだったこころが、同じような形になる。ひとつになる。
 「なる」というは、単なる変化をあらわしているだけではない。
 それは「生む」ということなのだろう。きっと。「ひとつの心になる」のではなく、「ひとつの心を生む」のだ。だからこそ、最後の行では「ある」という動詞がつかわれる。「ひとつの心がありました」と。
 こころは、常に動いていく。変化するということは当たり前である。「なる」だけなら、いつだって「なる」を繰り返している。けれども「なる」だけでは言い表せない瞬間がある。こうしたこころの形を、原は、日常の肉体を静かに並列させることで浮かび上がらせている。





ラクダが泣かないので
原 利代子
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(17)

2009-03-07 00:23:20 | 田村隆一
 『緑の思想』という詩集には驚く。それまでの田村の詩とは印象がかなり違う。過激さが消える。ことばが、なにがなんでも、ことばの扉を押し開いて、ことばの向うへゆくという感じがしない。
 「水」という作品。とても短い。この短さにも驚かされる。その全行。

どんな死も中断にすぎない
詩は「完成」の放棄だ

神奈川県大山(おおやま)のふもとで
水を飲んだら

匂いがあって味があって
音まで聞こえる

詩は本質的に定型なのだ
どんな人生にも頭韻と脚韻がある

 「意味」の拒絶ではなく、「意味」との対峙がある。「意味」と対峙しながら、「意味」に異議を申し立てている。そういう印象がある。書き出しの2行には、そういう印象がある。「意味」以外のものを探している、という印象がある。
 「中断」と「「完成」の放棄」は、私には、相通じるものがあると思う。そして、その相通じるものを通るとき、「死」と「詩」が韻を踏む。そのおとは「し」という一音なので、それが頭韻なのか、脚韻なのかわからない。たぶん、その両方なのだろう。そして、韻を踏みながら、それは融合する。
 これまでのことばが、矛盾し、対立し、互いを破壊し、混沌のなかで融合したのに対し、この作品では、ことばは「韻」のなかで融合する。「死」と「詩」は同じものではないが、矛盾はしない。互いを破壊もしない。互いに接近し、その出会うことで、融合する。
 別個の存在(ことば)が出会い、そこから「融合」がはじまり、まったく別なものになる(別な世界へ移行する)ということでは、これまでの作品と同じだが、その融合の仕方がおだやかといえはいいのか、日本語の伝統に通じるといえばいいのか、いままでとは違うのである。
 その違いのために、私は、とてもとまどう。

 とまどいながらも、私は、この作品が好きだ。特に、

水を飲んだら

匂いがあって味があって
音まで聞こえる

 という3行が好きだ。
 「水」に匂いがある、味があるというのは、味覚のことだから、だれでも感じることかもしれない。ところが「音まで聞こえる」というのは、どうだろう。水を飲む--水は口のなかに入り、舌に触れ、喉を通る。そのとき、口とつながっている鼻腔にも刺激があるから、においだってする。だが、どうして、音が聞こえる?
 --私の理性(?)は、そんな疑問にぶつかる。
 しかし、私の感性(?)は、その疑問を拒絶して、その「音」--具体的には書かれていない「音」を聞き取ってしまい、ああ、いいなあ、とため息をもらす。水源の、風。木々を揺らす風。風にそよぐ木の葉。木の葉から落ちる一滴の水の音。落ち葉をくぐり、大地にもぐりこむ水の、しずかな流れ。そういう音を一瞬のうちに聞いてしまう。そして、そういうものを聞くだけではなく、見てしまう。
 耳で?
 そうではなくて、口で、舌で聞いてしまう。見てしまう。
 私たちの感覚(五感)はどこかでつながっている。どこかに「共通」の場をもっている。そこを通って、ほんらい、聴覚や視覚の働きをしないはずの、口や舌や喉が、音を聞き、色を見てしまう。
 そんな融合--感覚の融合する瞬間がある。それが「詩」である。

 そのとき、つまり、音を聞き、色を見ているとき、口や舌や喉の、ほんらいの機能は死んでいる。ほんらいの機能は働くことを中断している。ほんらいの機能は「感性」すること、機能を全うすることを放棄している。
 こういう混乱というか、こんとんというか、不完全な(?)状態、複数の感覚が融合して存在する瞬間を、田村は「定型」と呼んでいるように思える。そういう状態を「定型」と呼ぶことで肯定しているのだ。
 なにもかもがまじりあった瞬間--それが「いのち」の「定型」である。この「いのち」の「定型」を私は「肉体」と呼びたい。
 田村は「肉体」と出会っているのだ。

      


シタフォードの秘密 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)
アガサ・クリスティー
早川書房

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