4部で構成された展覧会である。「初期、スタイルの確立」「幻の大作」「再現アトリエ」「礼拝堂」。
初期の作品群に目を引きつけられる。「二人の友達」「仰臥裸婦」。藤田嗣治の絵は乳白色の色に特徴があることは知っているが、実際に、その絵肌をみると、やはり感動する。色というのは自然に存在するのだと思っていたが、そうではなく、一つ一つの色というのは画家が発明するのだとわかる。それは、どこにも存在しない。存在したことがない色である。それでいて、そこに出現した瞬間から、他の色の諧調を並べ替えてしまう。君臨してしまう。その色を見ることを強制されて(?)しまう。「白」という色のなかに、いったいいくつ「白」があるのか知らないが、藤田の白は、とても深い。どこか、「いま」「ここ」ではないところへつながっている。
藤田はなにを見たのだろうか。
乳白色と、表面張力のようにして薄い影がある。その周辺に細い細い線がある。それは、まるで、裸体の白が、肉体を逸脱して世界へ侵略していくのを防いでいるようでもある。けれど、その白を見た世界は、世界の方でその白に照らされて、白く染まってしまっている。
「家族」というほんとうに初期の、白い服の赤ん坊、赤い服の母、緑の服の父の、それぞれの色は世界へとは越境していかない。「二人の友達」「仰臥裸婦」の白は越境していこうとしているのに……。もしかすると、母に抱かれている赤ん坊の、その白い布--それが成長して(?)、それが世界へひろがったのか。小さな命を守っていた愛という布が世界へひろがり、肉体と、世界とのあいだで、響きあっているのか。
藤田の見ているのは、健やかに育ったいのちと世界の響きあいなのだろう。
「仰臥裸婦」には、特にそれを感じる。シーツの上の眠る女。ベッドの下へ落ちている腕は、そこから裸婦の、肉体の輝きがこぼれ、それを受け止めているうちに世界の色そのものがかわってしまった、という印象を与える。同じようにベッドから床にこぼれ落ちる金髪は、そういう流動が「肉体」のひとつひとつだけではなく、その全体として、つまり「いのち」そのものとして、世界へとひろがっている、という思わせる。
「大作」は「ライオンのいる構図」「犬のいる構図」「争闘Ⅰ」「争闘Ⅱ」の4枚。群像が描かれている。大作であるけれど、私には、ここでは藤田の白は効果的とは感じられない。ひとりひとりと世界は響きあっているが、ひととひとが響きあっているようには感じられない。「争闘」は戦いだから、響きあってはいけないのだから、そこでは響きあわないのは当然である--と言われればそうなのかな、とは思うけれど。
藤田には、こういう大作があったのか、という驚きだけは感じた。
また、こういう群像を描いたとう過程があって、はじめて「礼拝堂」の壁画、キリスト教を題材にした群像ドラマの大作が可能なのかもしれないと思った。そういう意味では、大作と礼拝堂を同時に展示している意図がよくわかった。
藤田は、藤田嗣治とレオナール・フジタという二つの名前をもっている。そのことも、非常によくわかる展示だと思った。キリスト教に改宗してからがレオナール・フジタ。レオナール・フジタに生まれ変わって、彼は礼拝堂をつくった。全体の設計も、その内部の壁画も、ステンドグラスもレオナールがつくったのであり、嗣治がつくったのではない。この展覧会は、ひとりで開いた「二人展」でもあるのだ。
再現アトリエの周辺には彼がつくった、さまざまな小物(陶器の皿や、裁縫箱)などもあり、藤田の全体像がわかりやすくなっているが、ある意味では欲張りすぎて、この企画が藤田のどこが好きで企画されたのかはよくわからない印象も残った。
初期の作品群に目を引きつけられる。「二人の友達」「仰臥裸婦」。藤田嗣治の絵は乳白色の色に特徴があることは知っているが、実際に、その絵肌をみると、やはり感動する。色というのは自然に存在するのだと思っていたが、そうではなく、一つ一つの色というのは画家が発明するのだとわかる。それは、どこにも存在しない。存在したことがない色である。それでいて、そこに出現した瞬間から、他の色の諧調を並べ替えてしまう。君臨してしまう。その色を見ることを強制されて(?)しまう。「白」という色のなかに、いったいいくつ「白」があるのか知らないが、藤田の白は、とても深い。どこか、「いま」「ここ」ではないところへつながっている。
藤田はなにを見たのだろうか。
乳白色と、表面張力のようにして薄い影がある。その周辺に細い細い線がある。それは、まるで、裸体の白が、肉体を逸脱して世界へ侵略していくのを防いでいるようでもある。けれど、その白を見た世界は、世界の方でその白に照らされて、白く染まってしまっている。
「家族」というほんとうに初期の、白い服の赤ん坊、赤い服の母、緑の服の父の、それぞれの色は世界へとは越境していかない。「二人の友達」「仰臥裸婦」の白は越境していこうとしているのに……。もしかすると、母に抱かれている赤ん坊の、その白い布--それが成長して(?)、それが世界へひろがったのか。小さな命を守っていた愛という布が世界へひろがり、肉体と、世界とのあいだで、響きあっているのか。
藤田の見ているのは、健やかに育ったいのちと世界の響きあいなのだろう。
「仰臥裸婦」には、特にそれを感じる。シーツの上の眠る女。ベッドの下へ落ちている腕は、そこから裸婦の、肉体の輝きがこぼれ、それを受け止めているうちに世界の色そのものがかわってしまった、という印象を与える。同じようにベッドから床にこぼれ落ちる金髪は、そういう流動が「肉体」のひとつひとつだけではなく、その全体として、つまり「いのち」そのものとして、世界へとひろがっている、という思わせる。
「大作」は「ライオンのいる構図」「犬のいる構図」「争闘Ⅰ」「争闘Ⅱ」の4枚。群像が描かれている。大作であるけれど、私には、ここでは藤田の白は効果的とは感じられない。ひとりひとりと世界は響きあっているが、ひととひとが響きあっているようには感じられない。「争闘」は戦いだから、響きあってはいけないのだから、そこでは響きあわないのは当然である--と言われればそうなのかな、とは思うけれど。
藤田には、こういう大作があったのか、という驚きだけは感じた。
また、こういう群像を描いたとう過程があって、はじめて「礼拝堂」の壁画、キリスト教を題材にした群像ドラマの大作が可能なのかもしれないと思った。そういう意味では、大作と礼拝堂を同時に展示している意図がよくわかった。
藤田は、藤田嗣治とレオナール・フジタという二つの名前をもっている。そのことも、非常によくわかる展示だと思った。キリスト教に改宗してからがレオナール・フジタ。レオナール・フジタに生まれ変わって、彼は礼拝堂をつくった。全体の設計も、その内部の壁画も、ステンドグラスもレオナールがつくったのであり、嗣治がつくったのではない。この展覧会は、ひとりで開いた「二人展」でもあるのだ。
再現アトリエの周辺には彼がつくった、さまざまな小物(陶器の皿や、裁縫箱)などもあり、藤田の全体像がわかりやすくなっているが、ある意味では欲張りすぎて、この企画が藤田のどこが好きで企画されたのかはよくわからない印象も残った。