詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

レオナール・フジタ展(福岡市美術館)

2009-03-26 16:10:45 | その他(音楽、小説etc)
 4部で構成された展覧会である。「初期、スタイルの確立」「幻の大作」「再現アトリエ」「礼拝堂」。
 初期の作品群に目を引きつけられる。「二人の友達」「仰臥裸婦」。藤田嗣治の絵は乳白色の色に特徴があることは知っているが、実際に、その絵肌をみると、やはり感動する。色というのは自然に存在するのだと思っていたが、そうではなく、一つ一つの色というのは画家が発明するのだとわかる。それは、どこにも存在しない。存在したことがない色である。それでいて、そこに出現した瞬間から、他の色の諧調を並べ替えてしまう。君臨してしまう。その色を見ることを強制されて(?)しまう。「白」という色のなかに、いったいいくつ「白」があるのか知らないが、藤田の白は、とても深い。どこか、「いま」「ここ」ではないところへつながっている。
 藤田はなにを見たのだろうか。
 乳白色と、表面張力のようにして薄い影がある。その周辺に細い細い線がある。それは、まるで、裸体の白が、肉体を逸脱して世界へ侵略していくのを防いでいるようでもある。けれど、その白を見た世界は、世界の方でその白に照らされて、白く染まってしまっている。
 「家族」というほんとうに初期の、白い服の赤ん坊、赤い服の母、緑の服の父の、それぞれの色は世界へとは越境していかない。「二人の友達」「仰臥裸婦」の白は越境していこうとしているのに……。もしかすると、母に抱かれている赤ん坊の、その白い布--それが成長して(?)、それが世界へひろがったのか。小さな命を守っていた愛という布が世界へひろがり、肉体と、世界とのあいだで、響きあっているのか。
 藤田の見ているのは、健やかに育ったいのちと世界の響きあいなのだろう。
 「仰臥裸婦」には、特にそれを感じる。シーツの上の眠る女。ベッドの下へ落ちている腕は、そこから裸婦の、肉体の輝きがこぼれ、それを受け止めているうちに世界の色そのものがかわってしまった、という印象を与える。同じようにベッドから床にこぼれ落ちる金髪は、そういう流動が「肉体」のひとつひとつだけではなく、その全体として、つまり「いのち」そのものとして、世界へとひろがっている、という思わせる。

 「大作」は「ライオンのいる構図」「犬のいる構図」「争闘Ⅰ」「争闘Ⅱ」の4枚。群像が描かれている。大作であるけれど、私には、ここでは藤田の白は効果的とは感じられない。ひとりひとりと世界は響きあっているが、ひととひとが響きあっているようには感じられない。「争闘」は戦いだから、響きあってはいけないのだから、そこでは響きあわないのは当然である--と言われればそうなのかな、とは思うけれど。
 藤田には、こういう大作があったのか、という驚きだけは感じた。
 また、こういう群像を描いたとう過程があって、はじめて「礼拝堂」の壁画、キリスト教を題材にした群像ドラマの大作が可能なのかもしれないと思った。そういう意味では、大作と礼拝堂を同時に展示している意図がよくわかった。

 藤田は、藤田嗣治とレオナール・フジタという二つの名前をもっている。そのことも、非常によくわかる展示だと思った。キリスト教に改宗してからがレオナール・フジタ。レオナール・フジタに生まれ変わって、彼は礼拝堂をつくった。全体の設計も、その内部の壁画も、ステンドグラスもレオナールがつくったのであり、嗣治がつくったのではない。この展覧会は、ひとりで開いた「二人展」でもあるのだ。
 再現アトリエの周辺には彼がつくった、さまざまな小物(陶器の皿や、裁縫箱)などもあり、藤田の全体像がわかりやすくなっているが、ある意味では欲張りすぎて、この企画が藤田のどこが好きで企画されたのかはよくわからない印象も残った。
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『田村隆一全詩集』を読む(36)

2009-03-26 00:33:51 | 田村隆一
 「きみと話がしたいのだ」は、おだやかなラブソングである。

不定形の野原がひろがつている
たつた一本だけ大きな木が立つている
そんな木のことをきみと話したい
孤立してはいるが孤独ではない木
ぼくらの目には見えない深いところに
生の源泉があつて
根は無数にわかれ原色にきらめく暗黒の世界から
乳白色の地下水をたえまなく吸いあげ
その大きな手で透明な樹液を養い
空と地を二等分に分割し
太陽と星と鳥と風を支配する大きな木
その木のことで
ぼくはきみと話がしたいのだ

どんなに孤独に見える孤独な木だつて
人間の孤独とはまつたく異質のものなのさ
たとえきみの目から水のようなものが流れたとしても
一本の木のように空と地を分割するわけにはいかないのだ

それで
ぼくは
きみと話がしたいのだ

 「ぼくらの目には見えない深いところ」--目に見えないものを人間は想像することができる。その想像のしかたにはいろいろある。田村の想像力は特徴がある。
 「根は無数にわかれ」は「木の根」を肉眼で見たことをもとに想像している。それは想像ではあるけれど、事実であることも、多くの人が知っている。他の、「地下水をたえまなく汲みあげ」「樹液を養い」も実際に肉眼で見たことはないけれど、そうであることをわたしたちは「知識」として知っている。それは田村が肉眼で見たものではない、つまり、想像したものであるけれど、「事実」の範囲のなかにふくめて考える。
 では「原色にきらめく暗黒の世界」はどうだろうか。
 「原色にきらめく」と「暗黒」は矛盾する。何もきらめかないのが「暗黒」である。「黒」しかないのが「暗黒」である。これは、肉眼では確認できないし、科学でも分析できない。想像でしかない。そういう想像に、田村の特徴が出る。矛盾。矛盾したものが想像力のなかでぶつかるという特徴が。

 相いれないものが常にある。

 一本の木は孤立しているが、孤独ではない。1本なのに孤独ではない。孤立しているのに、孤独ではないというのは、これもひとつの矛盾である。その矛盾を、田村は、なぜなら、それは大地と空とつながっているから「孤独」ではない、と言い換える。
 ここには、飛躍がある。
 ふつう、複数形というものは、同じ単位(木なら1本という単位)で数える。違った存在を同じ単位では数えない。種類の違ったものを違った単位で数え、混同しないというのが「科学」の基本である。その基本を逸脱していくのが「想像力」である。「単位」を無視して、ねじまげる。そして「単位」のかわりに、別なものをもって来る。
 想像力とは、事実(科学)をねじまげて、逸脱する力。間違いを犯す力なのである。間違いを犯しながら、その間違いを正当化する力なのである。ここでは「見えない」ということを「口実」にして、強引に間違える。

 こういう強引な「口実」を美しいと感じる--すくなくとも私は美しいと感じるのだが、それはなぜだろうか。--たぶん、私たちは、事実を間違えたがっているのかもしれない。

 孤独--孤独のなかで流す涙。それは一人の人間の中の「きらめく暗黒」と「空」を分割し、同時につなぐ、のではなく、もう一人の人間の「きらめく暗黒」と「空」を分割し、同時につなぐのである。涙をみる時、「きみ」と「ぼく」のあいだに、何かが流れる。涙は「きみ」の頬を流れ、目に見える。しかし、「きみ」と「ぼく」をつなぎ、分割するものは、肉眼では見えない。
 それは、ことばでしか見えない。
 だから「話がしたい」。「話す」ことで、そのつながりを「事実」にしたい、というのである。

 こういうおだやかな詩にも、田村の特徴はそのまま同じ形で存在している。目に見えないものを、ことばでつかまえる。その方向へ、こころを動かしていくという特徴が。




ハミングバード―田村隆一詩集
田村 隆一
青土社

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