詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

萌沢呂美『空のなかの野原』ほか

2009-03-11 09:22:16 | 詩集
 萌沢呂美『空のなかの野原』(あざみ書房、2009年02月11日発行)に、「植木鉢」という作品がある。その1連目が印象に残った。

空が
こぼれそうに咲いている
あふれ出て滝になる

 2行目の「こぼれそうに」が新鮮だ。季節が変わる。冬から春へ。空が新しくなる。そのときの、おさえきれないひろがりが「こぼれそうに」。「こぼれる」ということばに、こんな使い方があったのか、と驚く。
 さらに、「咲いている」から、「あふれ出る」「滝になる」という変化も楽しい。
 「空が/あふれ出て滝になる」だけでもおもしろいと思うが、間に「こぼれそうに咲いている」という別の動きがあるために、冬から春への空の変化の、「ひとつ」ではとらえられないよろこびのようなものが乱反射する。
 萌沢のことばの魅力は、この乱反射にある。
 ただし、そのことを萌沢が自覚しているかどうかは、よくわからない。引用した1連には、実は4行目がある。4行目によって、ことばは落ち着くが、その落ち着き方が私にはおもしろくなかった。だから、おもしろいと感じたところまでの引用にとどめた。



 友澤蓉子「冬のメッセージ」(「まどえふ」12、2009年03月01日発行)は、ことばを「遊ぶ」という自覚をもって書かれた作品である。

ふと
ふれる
ふれあう先端

冬の朝
ふたつの死と生が満ち欠ける

 行の冒頭に「ふ」という音を置いてことばを動かしていく。こういうとき、どうしても、そこに「現実」が入り込んで来る。この詩でいえば、4連目。

芙美の家族
2つのサボテンの耳もつ老犬に死訪れる

 「芙美」「老犬」「死」--「芙美」というのは新しく生まれたいのちの名前なのだろう。一方に新しい誕生があり、他方に親しんできたものの死がある。
 それをみつめながら、それでもことばを「遊び」のなかへ解放してゆこうとするこころがある。それが「遊び」であることを自覚しながら、それでもことばを動かしてゆこうとする。

ふくらみすぎたことばの
風船が割れる 老犬の死は

芙美の身代わりだよ などと
降り積もる


ふと信じる
ふと信じない

ふふふ

 この作品も、実は、このあと1行ある。省略して引用する。友澤はその1行を書くことによって作品を完成させた。それは作品を「とじる」ということに似ている。「とじる」と書いたひとは安心する。けれど、読むひとは、がっかりする。ちょうど、友人の家までたどりついたのに、玄関先でぴしゃりとドアをとじられたように。


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『田村隆一全詩集』を読む(21)

2009-03-11 00:39:26 | 田村隆一
 「おそらく偉大な詩は」という一篇はとても美しい。私には、田村は、この詩を書くことによって「ことば」そのものを取り戻そうとしているように見える。ことばによってしか存在を証明できないものを取り戻すというより、ことばそのものを求めて書かれているように感じられる。それが、私には、とても美しく感じられる。

一篇の詩は
かろうじて一行にささえられている
それは恐怖の均衡に似ている
人間は両手をひろげて
その均衡に耐えなければならない
一瞬のめまいが
きみの全生涯の軸になる

 ここでは「一」が求められている。「一篇」の「一」、「一行」の「一」、「一瞬」の「一」。それは存在しながら、存在していない。そのことを、田村は「均衡」と呼んでいる。「一」のなかには、存在と不在(非在)が同居している。あるものが「ひとつ」の形をとる。生成する。そのとき、そこには、その形になれなかったものが同時に存在する。そういう「運動」がどこかに隠れていて、その存在と不在(非在)の均衡を「恐怖」のように感じさせるのである。

 「一」のなかにある「運動」を、田村は2連目で書き換えている。言い換えている。

おそらく偉大な詩は
光りのそくどよりもはやいかもしれない
そのために人間は
未来から現在へ
現在から過去へ侵入するのだ
死者が土のなかから立ちあらわれ
かれを埋葬したひとびとの手のなかにかえってくる
彼はせを向けたまま後退する
かれを産み出した肉色の闇のなかへ
産み出した源泉へ
あいは破滅から完成にむかうのだ
すべてが終りからはじまる
永久革命も
消滅した国家も
そして一篇の詩も

 ここに書かれていることは、「一」から「無」への運動である。弁証法では対立→止揚→統合(発展)という運動をとり、その「統合」が「一」であるけれど、田村のことばの運動は、まったく逆なのである。「一」を解体(分解)して、逆流する。
 未来→現在→過去。死者→埋葬する人→フィルムの逆もどしのような逆歩行→誕生を用意した子宮へと動く人間。「源泉」へと逆に動いて「無」になる。

愛は破滅から完成にむかうのだ

 この1行は、とても複雑な1行だ。「破滅から」の「から」が、とても複雑だ。田村のことばの運動が「弁証法」的運動なら、破壊し、あらたな「統合」(完成)へ向かうと簡単に理解することができるが、それでは「逆流」と相いれない。
 「完成」は、田村にとって「統合」ではない。発展ではない。死者が子宮へもどったように、存在以前にもどることが、田村の究極の運動である。
 破壊「から」、さらなる「破壊」へ。「完成」はその「から」という「運動」そのもののなかにある。「から」という「運動」そのものが、いわば到達点なのである。
 「一」を破壊する。そのとき、なにがあらわれてくる? 「一」以前の、「一」になろうとする「運動」そのものがあらわれてくる。「一」になるための、激しい「運動」が見えてくる。それを「エネルギー」と呼ぶことができると思う。そこには「一」という存在と、「一以前」という存在の「均衡」がある。この均衡をどこまで分解していけるか。田村は、そういうことを考えながら「から」ということばをつかっている。
 
 「から」はベクトルである。矢印「→」である。運動である。それが運動するときの、「→」そのもののなかにある均衡。「完成」にたどりつくことではなく、そのまっすぐな「→」そのもののなかにある均衡。それが「偉大な詩」であり、「一行」なのだ。

おそらく偉大な詩は
十一月の光り
なにもかも透明にする光りのなかにある
それで人間は眼をとじるのだ
両手をひろげて立ちすくむのだ

 透明なものは見えない。けれども、透明なものほど見える。見えないものは透明ではないもの--究極の見えないものは「闇」だ。
 いま、私が書いた文には「矛盾」がある。レトリックがある。ごまかしがある。透明で見えないと、闇のために見えないでは、対象と状況が混同されている。
 田村が書いた5行にも、それに類似のことがある。「透明な光り」と「眼をとじる」。「透明」と「見えない」。「目を閉じる」と「見えない」。「闇」と「見えない」。そして、こそには一種の混同があるのはあるのだが、同時に混同を超える不思議な「均衡」がある。「見える」「見えない」を結ぶ運動のベクトル(矢印、→)がある。
 人間を、そういう矢印「→」にしてしまうものが、偉大な詩である。その矢印「→」は、どこまでゆくかわからない。つまり、どこまでさかのぼれるかわからない。どこが出発点なのか、ほんとうはわからない。それがわかるためには、その矢印「→」そのものをも破壊し、分解しなければならない。



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