田中武『雑草屋』(花神社、2009年03月15日発行)
「優しい宇宙の物語」という作品がある。
書き出しの3行である。「ぼく」はだれなんだろう。次々に行がかわっていって、終盤。
この「物語」が武田のキーワード(思想)である。すべての存在はそこに存在しているだけではなく「物語」を持っている。武田はそう考えている。「物語」とは何か。それぞれの事情、それぞれの時間(過去)のことである。
武田は、そういうものについて思いめぐらす。
「踏切」は無人島の話しである。
「すべて」「それぞれ」が「物語」を持っている--と考えるところに、武田の人間性がでている。「すべて」「それぞれ」を次のようにも言い換えている。
「列車」は「風」の別の名前かもしれない。風には風の「物語」があるのだから、どんなふうに名乗っても、「ぼく」には干渉のしようがないことかもしれない。ただ、それを受け止めるしかない。ぼくにはぼくの、かれらにはかれらの「スタイル」がある。自分以外の「スタイル」を受け入れる力が田中にはあるのだ。
他者を拒絶せず、他者を受け入れ、共存する力が、田中の思想である。
田中のそうしたスタイルが、不思議なユーモアを持っているのは、「形容すればしたように」という「意識」が田中にはあるからだ。田中はただ他者を受け入れるのではない。他者を受け入れながら「形容」している。自分のスタイルで。
他者の「物語」を認める。同時に、その「物語」を自分のことばで語る。形容する。
その瞬間、そこには「ずれ」が生じる。「形容すればしたように」というのであれば、なおさらである。みんなが、それぞれ「他者」を自分の流儀で形容する、語る--あれっ、本当の物語はどこ? この困惑が笑いである。ユーモアである。
別の作品で、言い直してみよう。「雑草屋」。
「ぼくならこう言う」の「ぼくなら」。そう、田中は、あくまで「ぼくなら」にこだわるのである。この、こだわりがおかしい。すべてのものがそれぞれの「物語」をもっていて、そして同時に他者に対しても「物語」をつくりだすことで受け入れているのなら、それは、いったいぜんたい、どういうこと?
引用した部分につないで(1行空きのあとでの、つなぎだけれど)、「島でぼくはときどき雑草やというものになる」と書いている。雑草を売るというのである。
で、最後。
傑作である。たのしい、おかしい、というだけではなく、絶品という意味でも傑作である。
「物語」はことばにしないことには「物語」にはならない。ことばにならない「物語」は「物語」ではない。
すべての存在は「物語」をもっている。「ぼく」自身も「物語」をもっている。けれども、その「物語」には語れないことが含まれている。矛盾である。その矛盾が、武田の思想である。矛盾は、何度でも書いてきたけれど、その人の思想そのものである。思想の根っこである。
一方に語れることがあり、他方に語れないことがある。そのことを自覚して、語れることだけを語る。語れないことは語れないと、正直に語る。「ことばがどうにも見つからない」と書く。
この正直さが「物語」という「嘘」をほんとうに変える。どんな「嘘」でも本当のことをひとつ含むと、「真実」につながる「道」ができる。その「道」は完成しているわけではないが、と書いて、ふいに、あれっ、こういうことを田中はどこかに書いていたなあ、と思い出してしまう。
あ、「優しい宇宙の物語」の最終連だ。
ほんとうにたのしい詩集だ。「思想」がとても、あたたかい。とても正直。いいなあ。多くの人に、ぜひ、読んでもらいたい。
「今月の推薦詩集」と、思わず書いてしまう。(こんなことを書くのは、はじめてなんだけれど。「来月の推薦詩集」があるかどうか、わからないけれど。)
「優しい宇宙の物語」という作品がある。
野球の日本シリーズが終わると ぼくはまた一人のボクサーに戻った
ときどきは優れたゴルファーでもあった
けれど本当は凄いマラソンランナーなんだ
書き出しの3行である。「ぼく」はだれなんだろう。次々に行がかわっていって、終盤。
さて 右左にステップを踏んで突進するラガーが今日のぼくだ
その指先に読み解くすべもなくて膨れあがった
微細な物語が潜んでいる
この「物語」が武田のキーワード(思想)である。すべての存在はそこに存在しているだけではなく「物語」を持っている。武田はそう考えている。「物語」とは何か。それぞれの事情、それぞれの時間(過去)のことである。
武田は、そういうものについて思いめぐらす。
「踏切」は無人島の話しである。
無人島に鉄道も列車もあるはずはないのだが、踏切だけはある。ぼくが踏切番なのだから。もっともイタドリの葉のうえで蝶々を食べているカマキリだってそうだし、この島のすべての生き物がそれぞれ独自に踏切番をしている。
「すべて」「それぞれ」が「物語」を持っている--と考えるところに、武田の人間性がでている。「すべて」「それぞれ」を次のようにも言い換えている。
ある時、ある場所でさっと右腕を水平に伸ばす。それでいい。ぼくはぼくの、かれらはかれらのスタイルで、という訳だ。ごうごうと、さらさらと、ときにはことことと、形容すればしたようにそれは目の前を通る。単純なものだ。
「列車」は「風」の別の名前かもしれない。風には風の「物語」があるのだから、どんなふうに名乗っても、「ぼく」には干渉のしようがないことかもしれない。ただ、それを受け止めるしかない。ぼくにはぼくの、かれらにはかれらの「スタイル」がある。自分以外の「スタイル」を受け入れる力が田中にはあるのだ。
他者を拒絶せず、他者を受け入れ、共存する力が、田中の思想である。
田中のそうしたスタイルが、不思議なユーモアを持っているのは、「形容すればしたように」という「意識」が田中にはあるからだ。田中はただ他者を受け入れるのではない。他者を受け入れながら「形容」している。自分のスタイルで。
他者の「物語」を認める。同時に、その「物語」を自分のことばで語る。形容する。
その瞬間、そこには「ずれ」が生じる。「形容すればしたように」というのであれば、なおさらである。みんなが、それぞれ「他者」を自分の流儀で形容する、語る--あれっ、本当の物語はどこ? この困惑が笑いである。ユーモアである。
別の作品で、言い直してみよう。「雑草屋」。
雑草という草はないというけれど、ぼくならこう言う。雑草のほかに草はない、と。雑は命の基本なのだから。
「ぼくならこう言う」の「ぼくなら」。そう、田中は、あくまで「ぼくなら」にこだわるのである。この、こだわりがおかしい。すべてのものがそれぞれの「物語」をもっていて、そして同時に他者に対しても「物語」をつくりだすことで受け入れているのなら、それは、いったいぜんたい、どういうこと?
引用した部分につないで(1行空きのあとでの、つなぎだけれど)、「島でぼくはときどき雑草やというものになる」と書いている。雑草を売るというのである。
で、最後。
で、誰が買ったんだ、と聞くだろうが、教えない。商売上の秘密、と言うわけじゃない。このことについて語れる言葉がどうにも見つからないからだ。
傑作である。たのしい、おかしい、というだけではなく、絶品という意味でも傑作である。
「物語」はことばにしないことには「物語」にはならない。ことばにならない「物語」は「物語」ではない。
すべての存在は「物語」をもっている。「ぼく」自身も「物語」をもっている。けれども、その「物語」には語れないことが含まれている。矛盾である。その矛盾が、武田の思想である。矛盾は、何度でも書いてきたけれど、その人の思想そのものである。思想の根っこである。
一方に語れることがあり、他方に語れないことがある。そのことを自覚して、語れることだけを語る。語れないことは語れないと、正直に語る。「ことばがどうにも見つからない」と書く。
この正直さが「物語」という「嘘」をほんとうに変える。どんな「嘘」でも本当のことをひとつ含むと、「真実」につながる「道」ができる。その「道」は完成しているわけではないが、と書いて、ふいに、あれっ、こういうことを田中はどこかに書いていたなあ、と思い出してしまう。
あ、「優しい宇宙の物語」の最終連だ。
何も書かなくても 何も歌わなくてもいい
新聞の一ページを数億年かけて読み終えても
宇宙は未完のまま旅している いまもその途次
ほんとうにたのしい詩集だ。「思想」がとても、あたたかい。とても正直。いいなあ。多くの人に、ぜひ、読んでもらいたい。
「今月の推薦詩集」と、思わず書いてしまう。(こんなことを書くのは、はじめてなんだけれど。「来月の推薦詩集」があるかどうか、わからないけれど。)