詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中武『雑草屋』

2009-03-23 11:41:45 | 詩集
田中武『雑草屋』(花神社、2009年03月15日発行)

 「優しい宇宙の物語」という作品がある。

野球の日本シリーズが終わると ぼくはまた一人のボクサーに戻った
ときどきは優れたゴルファーでもあった
けれど本当は凄いマラソンランナーなんだ

 書き出しの3行である。「ぼく」はだれなんだろう。次々に行がかわっていって、終盤。

さて 右左にステップを踏んで突進するラガーが今日のぼくだ
その指先に読み解くすべもなくて膨れあがった
微細な物語が潜んでいる

 この「物語」が武田のキーワード(思想)である。すべての存在はそこに存在しているだけではなく「物語」を持っている。武田はそう考えている。「物語」とは何か。それぞれの事情、それぞれの時間(過去)のことである。
 武田は、そういうものについて思いめぐらす。
 「踏切」は無人島の話しである。

 無人島に鉄道も列車もあるはずはないのだが、踏切だけはある。ぼくが踏切番なのだから。もっともイタドリの葉のうえで蝶々を食べているカマキリだってそうだし、この島のすべての生き物がそれぞれ独自に踏切番をしている。

 「すべて」「それぞれ」が「物語」を持っている--と考えるところに、武田の人間性がでている。「すべて」「それぞれ」を次のようにも言い換えている。

 ある時、ある場所でさっと右腕を水平に伸ばす。それでいい。ぼくはぼくの、かれらはかれらのスタイルで、という訳だ。ごうごうと、さらさらと、ときにはことことと、形容すればしたようにそれは目の前を通る。単純なものだ。

 「列車」は「風」の別の名前かもしれない。風には風の「物語」があるのだから、どんなふうに名乗っても、「ぼく」には干渉のしようがないことかもしれない。ただ、それを受け止めるしかない。ぼくにはぼくの、かれらにはかれらの「スタイル」がある。自分以外の「スタイル」を受け入れる力が田中にはあるのだ。
 他者を拒絶せず、他者を受け入れ、共存する力が、田中の思想である。
 田中のそうしたスタイルが、不思議なユーモアを持っているのは、「形容すればしたように」という「意識」が田中にはあるからだ。田中はただ他者を受け入れるのではない。他者を受け入れながら「形容」している。自分のスタイルで。
 他者の「物語」を認める。同時に、その「物語」を自分のことばで語る。形容する。
 その瞬間、そこには「ずれ」が生じる。「形容すればしたように」というのであれば、なおさらである。みんなが、それぞれ「他者」を自分の流儀で形容する、語る--あれっ、本当の物語はどこ? この困惑が笑いである。ユーモアである。

 別の作品で、言い直してみよう。「雑草屋」。

 雑草という草はないというけれど、ぼくならこう言う。雑草のほかに草はない、と。雑は命の基本なのだから。

 「ぼくならこう言う」の「ぼくなら」。そう、田中は、あくまで「ぼくなら」にこだわるのである。この、こだわりがおかしい。すべてのものがそれぞれの「物語」をもっていて、そして同時に他者に対しても「物語」をつくりだすことで受け入れているのなら、それは、いったいぜんたい、どういうこと?
 引用した部分につないで(1行空きのあとでの、つなぎだけれど)、「島でぼくはときどき雑草やというものになる」と書いている。雑草を売るというのである。
 で、最後。

 で、誰が買ったんだ、と聞くだろうが、教えない。商売上の秘密、と言うわけじゃない。このことについて語れる言葉がどうにも見つからないからだ。

 傑作である。たのしい、おかしい、というだけではなく、絶品という意味でも傑作である。
 「物語」はことばにしないことには「物語」にはならない。ことばにならない「物語」は「物語」ではない。
 すべての存在は「物語」をもっている。「ぼく」自身も「物語」をもっている。けれども、その「物語」には語れないことが含まれている。矛盾である。その矛盾が、武田の思想である。矛盾は、何度でも書いてきたけれど、その人の思想そのものである。思想の根っこである。
 一方に語れることがあり、他方に語れないことがある。そのことを自覚して、語れることだけを語る。語れないことは語れないと、正直に語る。「ことばがどうにも見つからない」と書く。
 この正直さが「物語」という「嘘」をほんとうに変える。どんな「嘘」でも本当のことをひとつ含むと、「真実」につながる「道」ができる。その「道」は完成しているわけではないが、と書いて、ふいに、あれっ、こういうことを田中はどこかに書いていたなあ、と思い出してしまう。
 あ、「優しい宇宙の物語」の最終連だ。

何も書かなくても 何も歌わなくてもいい
新聞の一ページを数億年かけて読み終えても
宇宙は未完のまま旅している いまもその途次

 ほんとうにたのしい詩集だ。「思想」がとても、あたたかい。とても正直。いいなあ。多くの人に、ぜひ、読んでもらいたい。
 「今月の推薦詩集」と、思わず書いてしまう。(こんなことを書くのは、はじめてなんだけれど。「来月の推薦詩集」があるかどうか、わからないけれど。)

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(33)

2009-03-23 00:01:36 | 田村隆一
 『誤解』(1978年)の巻頭は「毎朝 数千の天使を殺してから」という詩である。

「毎朝 数千の天使を殺してから」
という少年の詩を読んだ
詩の言葉は忘れてしまつたが
その題名だけはおぼえている さわやかな
題じやないか

 この書き出しはとても気持ちがいい。田村の感動がそのままリズムになっている。田村は、矛盾が好きである。破壊が好きである。「天使を殺す」ということばのなかにある常識とは逆のベクトルに田村が反応したのはよくわかる。田村でなくても、誰でも、そのことばに反応するだろう。
 異質なものの出会いが詩である--という定義に従えば、この1行は、独立して、完璧に詩である。他に余分なことばはいらない。田村が少年の書いたほかの「詩の言葉は忘れてしまつたが」と書いているが、これは逆説である。ほかのことばは必要ないからおぼえなかっただけなのだろう。
 田村の感動が強烈だったことは、

その題名だけはおぼえている さわやかな
題じやないか

 という2行に強烈にあらわれている。「さわやかな」ということばは「題」を修飾することばだが、その「題」には直接かからず、「おぼえている」という動詞により近づいた形で、「おぼえている」という行に含まれている。
 田村は「題」をおぼえているというよりも、「さわやかさ(な)」をはっきり記憶しているのである。田村は「題」と向き合っているのではない。「さわやかさ」(さわやかな印象)と向き合っている。さらに言えば「意味」と向き合っているのではない。感覚と向き合っているのである。「意味」--ことばで伝えられる情報ではなく、ことばを拒絶して輝く新鮮な力としての感覚と向き合っているのである。

 ことばは、詩は、「意味」を伝える(流通させる)道具ではない。ことばは、ことばになる前の感覚をあらわすための方法なのだ。「未分化」なものを「分化」して、切り取る運動なのである。
 先の引用につづく部分は、次の行である。

おれはコーヒーを飲み
人間の悲惨も
世界の破滅的要素も
月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない
数百万部発行の新聞を読む
おれが信用しているのは
株式欄だけだ
総資本のメカニズムと投機的思惑だけが支配する
空白の一頁

 「新聞」--その「流通言語」は、「人間の悲惨も/世界の破滅的要素も/月並みな見出しとうたい文句でしか伝えられない」。月並み--は、「さわやかな」と対極にある状態のものをさしている。そういう「流通言語」は信用できない。「意味」は信用できない、と田村は、別の表現で表明していることになる。

 このあと、田村は、想像のなかで少年と対話する。少年の詩の「題」の「さわやかさ」(さわやかな印象)と向き合い、ことばをさがす。少年のさわやかさと向き合える田村自身のことばを。
 最終連。少年に田村は、語らせている。田村自身の「意味」ではない、「意味」と対極にあることばを。

ぼくがいちばん性的に興奮する場面を知つていますか?
いつのまにか大きな橋が消えると
黒い馬が一頭あらわれる
だれも乗つていない
馬だけが光りの世界を横切つて
陰の世界の方へゆつくりと歩いて行く
力がつきて
黒い馬は倒れる 獣の
涙をながしながら腐敗もしないで
そのまま骨になつて
純白の骨になつて
土になる
すると
夜が明けるんです
ぼくは遊びに行かなくちや
数千の天使を殺し
数千の天使を殺してから

 「馬」は「意味」ではない。つまり象徴でも比喩でもない。「天使」のように、少年の肉眼に見えるもの、生きているなまなましい馬である。少年には、そこに書いてある通りのことが見える。見てしまう。「意味」ではなく、「意味」を拒絶した情景そのものが見えるのだ。
 その馬が死に、白骨になる、土になる。
 そのあと。

ぼくは遊びに行かなくちや

 仕事をしに行くのではない。なにか、世界のために役立つことをするために行くのではない。「遊びに行く」。
 「意味」が「未来」だとすると、「遊び」は「自由」である。少年が求めているのは、「自由」だけである。
 「毎朝 数千の天使を殺してから」。そのことばが「さわやか」なのは、それが「自由」を切り取っているからである。数千の天使を殺した後、世界がどうなるかという「未来」は考慮されていない。「天使」のように、何か、人間に対して「意味」を持っているものをただ拒絶する。そのとき、「自由」があらわれる。剥き出しになる。だれも「未来」を保証しない。そのことの「自由」。
 「性的興奮」のように、まったく無意味(「未来」にとって、という意味だが……)、ただ、いまが輝くだけ、「いま」という時間からさえも逸脱していく力。「自由」。

 「遊び」のなかに、人間の力がある。

 何度か、田村の矛盾は(対立は)、止揚→発展ではなく、破壊、解放というようなことを書いたが、それは「遊び」のなかにある「自由」に通じるものである。「意味」から遥かに遠く、解放された力--どんな「未来」(発展)をも目指さないエネルギー。それを田村は、ことばでつかみ取ろうとしている。



ぼくの性的経験 (徳間文庫)
田村 隆一
徳間書店

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする