詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

杉山平一「正反対」、伊藤悠子「静夜」

2009-03-06 11:05:40 | 詩(雑誌・同人誌)
杉山平一「正反対」、伊藤悠子「静夜」(「季」90、2009年03月01日発行)

 杉山平一「正反対」は、会えなくなった友人のことを書いている。描かれているのは、戦争中の別れかもしれない。全行。

電車のホームの向い側に
友を見ることがあった

オーイと
声かけてもとどかず
私と同じ改札口を通ったのに
正反対の方向へ
彼は去って行くのだった

夏以来、その彼を見かけなくなった
何故だかさびしい
彼がイバラの道を歩んだ噂を聞いていたので
体制の道を辷っている気恥ずかしさが
胸にチカチカする

次第に 秋深く
               (「とどかず」の「ど」は原文は送り文字)

 とても静かな印象が残る。そして、その印象は3連目の「その彼を見かけなくなった」の「その」が大きく影響している。「その」は省略しても、描かれている「友」以外のだれをも想像しない。「正反対の方向へ/去って行」った「彼」以外のだれをも指さない。「その」がなくても、描かれている対象はかわらない。けれども、杉山はわざわざ「その」と書き加えている。
 この「その」によって、「彼」がぐいと、杉山の胸のなかに(意識のなかに)取り込まれる。その、対象を胸に取り込むときの真摯さが、真摯さの強さが、このことばによってしっかりと定着する。そしてこの、しっかり定着するという感じが静かな印象のもとになっている。
 ちらっと思い出すのではなく、しっかり思い出す。その「しっかり」が「気恥ずかしさ」を呼び起こす。「恥ずかしい」も「気恥ずかしい」も意味的にはかわらないかもしれないが、ここにも「その」があるのとないのとと同じような、気持ちのこだわりがあらわれている。
 杉山は、杉山の「気持ち」を大切にことばを書いている。「気」(胸)ということを大切にしているから、最後の「次第に 秋深く」が余韻として、胸に静かに響く。



 伊藤悠子「静夜」には、わからない行が出て来る。

夕暮れ 犬の影が思わぬ遠さまで届き
戸口に映っている
窓辺にはベゴニアの鉢が置いてある
鉢の縁が一箇所欠けている
そこは肉色をしている
欠けているのではなく
ベゴニアの落ち花だろうか
その鉢との間に
いまこのときを
死にゆく人が横たわっている
荒い呼吸の始まる前に
唇は歯をなぞり音を捜し
声にして名を呼び
己が半生の絶望を告げた
死にゆく人が死にきったら
ベゴニアの鉢の処まで行き
やはり欠けていることを知る
欠けたかけらはどこにあるのか
外は暮れており
戸口に犬の影はなく
肉色のかけらはひとつの形見として
夜が待っている

 8行目、「その鉢との間に」とは、「その鉢」と「何」との間を指しているか。これがよくわからない。そして、「その」とわざわざ書いているのもよくわからない。ほかに鉢はでてきていないから、「鉢との間に」でも書き表している「意味」は同じだろう。なぜ「その鉢」と「その」をわざわざ書いたのか。たぶん、この「その」は杉山の詩でみた「その」と同じである。「その」は「気持ち」をしっかり定着させるためのことばである。そう考えると、「その鉢」と「何」との間に「死にゆく人が横たわっている」のかがわかる。「その鉢」と「私」(伊藤)との間に、「死にゆく人が横たわっている」ことになる。
 したがって、この「死にゆく人」は、現実の、というか、ベゴニアの鉢がある窓辺、その下の庭に横たわっているのではない。伊藤の記憶の、伊藤の気持ちのなかに横たわっているのである。
 夕暮れというのは現実である。ベゴニアの鉢があるというのも現実である。しかし、「死にゆく人が横たわっている」というのは、現実は現実であるけれども、それは「気持ち」(意識)の現実である。
 伊藤は、親しい人の死に立ち会ってきたのかもしれない。死の間際に、その人が語ったことばを思い出しているのだ。記憶の(気持ちの)なかで、その人がもう一度死ぬ。こころが、その死をしっかりと見届ける。「ああ、死んだのだ」と思う。それまでの時間、ベゴニアの鉢を見つめ、こころに「ああ、親しいひとは死んだのだ」と言い聞かせることができたら、ようやく歩きはじめる。こころの中から、現実のベゴニアの鉢のところまで。
 こころに、しっかりと「あの人は死んだ」言い聞かせることができたので、こころは静かである。「静夜」の「静か」は世界の静けさではなく、こころの静けさをあらわしているのだろう。伊藤の世界は、親しいひとを失い、ちょうどベゴニアの鉢が欠けているように、一部が欠けて、その部分が「肉色」をしている。なまなましい。けれど、それを現実として、静かに受け止めている。

 「その」は小さなことばである。そして、「その」は省略しても、「意味」が変わる、「意味」が不明になるということは、ほとんどない。だから「その」は書かれないことが多い。だからこそ、「その」が書かれたときには、そこには作者の強い思いがこめられている。
 「その」は気持ちを正確にする一方、現実(?)をあいまいにする。作者の意識は、自分の「思い」のなかに集中し、現実をゆがめる。伊藤の詩の場合が特徴的だが、現実の世界に、じっさんに「死にゆく人」が横たわって、伊藤の歩みを邪魔しているわけではない。「気持ち」のなかに横たわっている「死にゆく人」が、現実に存在するかのように見えるのだ。現実と気持ちが交錯するのだ。それほど、気持ちが外へとあふれだしているのだ。「死にゆく人が横たわっている」というのは「幻」ではなく、あふれだした気持ちという現実なのである。
 そういう、あふれだした現実としての気持ちをしっかりと見つめるために詩がある。そして、詩を書くことで伊藤は「静かさ」を獲得している。




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『田村隆一全詩集』を読む(16)

2009-03-06 00:42:23 | 田村隆一
 「恐怖の研究」は「10」という章からはじまり「0」へと進む。書かれている順に読んでもいいし、逆に番号順に読んでもいいのかもしれない。読者に、その判断をまかせている。詩とは意味ではないからだ。ことばが喚起するイメージでもない。詩とは、ことばが誘い出すことばの運動である。運動であること、動き回ること、どんな動きでもしていい、ということが詩なのである。
 たとえば……。

だれかが入つてくる
あるいは
だれかが出て行く
乱暴な音をたててドアがあき
窓が開く
死んだふりをしていた心があらわれる
なめらかな皮膚の下に
乳色の河流は血の色にかわり
床からピンがはねあがる
ネガの世界は崩壊する
光りがごくわずか入つたでけで
いかなる近代都市も粉砕されてしまう
意味がほんのすこし入つてきただけで
ああ
きみの好きな絵描きにきいてごらん
どんな葡萄酒がみえてくるか

 これは実は書き出しの「10」の部分を、最後から逆に引用したものである。どうです? 田村の詩そのものでしょ? 詩のことばは便宜上、1行目から最後の行へと動いていくけれど、そのとき私は順番に田村のことばどおりにそのことばを追いかけてはいない。
 読んだことばが順序をかえながら私の肉体のなかで反響する。私はそのことばの過激な運動を、私の理解できる範囲で追いかけているだけである。誤読しているだけである。誤読できる喜びでことばを追いかけているにすぎない。
 なぜ、こんなことが可能なのか。(こんな読み方をして遊んでいるのは私だけかもしれないけれど。)それが可能なのは、詩の1行というのは、1行で独立しているからだ。他の行の影響はあっても、1行として独立している。独立して、誤読されるのを待っている。他の行と関連づけて読むと、「意味」はある程度限定(特定)できるが、詩は「意味」を追いかけて読んでほしいとは願っていない。「意味」ではなく、あることば、ある1行をたよりに、いま、ここではないどこかへ、世界を超越したどこかへ行く踏み台となることを願っている。詩は、つまり、いま、ここではないどこかへと飛翔して行くためのことばなのだ。
 詩にとって、ことばとは「順不同」のものなのである。
 なぜなら、詩とは、矛盾であり、破壊であり、混沌であり、生成だからだ。その複数の運動には順序がない。生成したものが矛盾し、混沌の世界になり、それを破壊するという運動があってもいいし、あるものを破壊したら、隠れていた矛盾があらわれ(矛盾が生成し)、混沌としたものになってしまってもいいのだ。
 ことばの「順不同」のひとかたりが、そのかたまりのまま動いていく--それが詩である、といえるかもしれない。

 この作品には、一種の繰り返しが多く登場する。

かれらを復活させるために
どんな祭式が
どんな群衆が
どんな権力が
どんな裏切りが
どんな教義が
どんな空が
どんな地平があるというのか    (「9」の部分)

塔へ
城塞へ
館へ
かれらは殺到する
かれらは咆哮する
かれらは略奪する
かれらは凌辱する
かれらは放火する
かれらは表現する          (「7」の部分)

 この複数の行は、みな対等である。「祭式」「群衆」「権力」と重要な順序にことばが並んでいるわけでも、また重要ではない順序で並んでいるのでもない。それは、互いのことばを破壊して自己主張しているのだ。秩序はなく、そこには無差別の平等がある。どのことばも、詩のなかでは平等であり、自由である。ことばが、そういう平等・自由になる瞬間として、詩というものが存在するのである。
 試してみるといい。最初に私がこころみたことを、「7」の部分で試してみると、よくわかる。

かれらは表現する
かれらは放火する
かれらは凌辱する
かれらは略奪する
かれらは咆哮する
かれらは殺到する
館へ
城塞へ
塔へ

 「倒置法」で書かれた「7」の後半は、もっと自然に、もっと無差別に、もっと自由に逆流するかもしれない。試してみよう。

偽善を弾圧するもつとも偽善的な芸術運動を
露悪的なマニフェストを
危険な直喩を
独創的な暗喩を
増殖するイメジを
白熱のリズムを
かれらはあらゆる芸術上の領域を表現する

 この7行を、田村の作品を読んだことのない人(ただし、現代詩をよんだことのある人)に読ませたとき、その人は、この引用が、終わりから逆に引用したものだと気づくだろうか。たぶん、気がつかない。
 詩のことばは、特に「現代詩」のことばは、そんなふうに、無秩序・無差別・平等・自由な運動のことばなのである。運動していれば、それで「現代詩」のことばなのだ。
 田村の、この作品は、そのことをとても雄弁に語っている。



 こうした過激なことばの運動に魅了される一方、私は次のような部分にもこころがふるえてしまう。「5」の部分。

ふるえる翼
ふるえる舌
大病院の裏庭で
ぼくは野鳩の桃色の脚を見た
ふるえる舌
裂ける舌
信州上川路の開善寺の境内で
ぼくは一匹の純粋な青い蛇を見た
ふるえる舌
美しい舌
秋風の六里ヶ原で
ぼくは桜岩観音に出会つた

 このことばの美しさ。特に「野鳩の桃色の脚」という肉眼の強さにとてもひかれる。強い視力があって、はじめて現象の奥へとことばを自由に解き放つことができるのだ。
       

ワインレッドの夏至―田村隆一詩集
田村 隆一
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