杉山平一「正反対」、伊藤悠子「静夜」(「季」90、2009年03月01日発行)
杉山平一「正反対」は、会えなくなった友人のことを書いている。描かれているのは、戦争中の別れかもしれない。全行。
とても静かな印象が残る。そして、その印象は3連目の「その彼を見かけなくなった」の「その」が大きく影響している。「その」は省略しても、描かれている「友」以外のだれをも想像しない。「正反対の方向へ/去って行」った「彼」以外のだれをも指さない。「その」がなくても、描かれている対象はかわらない。けれども、杉山はわざわざ「その」と書き加えている。
この「その」によって、「彼」がぐいと、杉山の胸のなかに(意識のなかに)取り込まれる。その、対象を胸に取り込むときの真摯さが、真摯さの強さが、このことばによってしっかりと定着する。そしてこの、しっかり定着するという感じが静かな印象のもとになっている。
ちらっと思い出すのではなく、しっかり思い出す。その「しっかり」が「気恥ずかしさ」を呼び起こす。「恥ずかしい」も「気恥ずかしい」も意味的にはかわらないかもしれないが、ここにも「その」があるのとないのとと同じような、気持ちのこだわりがあらわれている。
杉山は、杉山の「気持ち」を大切にことばを書いている。「気」(胸)ということを大切にしているから、最後の「次第に 秋深く」が余韻として、胸に静かに響く。
*
伊藤悠子「静夜」には、わからない行が出て来る。
8行目、「その鉢との間に」とは、「その鉢」と「何」との間を指しているか。これがよくわからない。そして、「その」とわざわざ書いているのもよくわからない。ほかに鉢はでてきていないから、「鉢との間に」でも書き表している「意味」は同じだろう。なぜ「その鉢」と「その」をわざわざ書いたのか。たぶん、この「その」は杉山の詩でみた「その」と同じである。「その」は「気持ち」をしっかり定着させるためのことばである。そう考えると、「その鉢」と「何」との間に「死にゆく人が横たわっている」のかがわかる。「その鉢」と「私」(伊藤)との間に、「死にゆく人が横たわっている」ことになる。
したがって、この「死にゆく人」は、現実の、というか、ベゴニアの鉢がある窓辺、その下の庭に横たわっているのではない。伊藤の記憶の、伊藤の気持ちのなかに横たわっているのである。
夕暮れというのは現実である。ベゴニアの鉢があるというのも現実である。しかし、「死にゆく人が横たわっている」というのは、現実は現実であるけれども、それは「気持ち」(意識)の現実である。
伊藤は、親しい人の死に立ち会ってきたのかもしれない。死の間際に、その人が語ったことばを思い出しているのだ。記憶の(気持ちの)なかで、その人がもう一度死ぬ。こころが、その死をしっかりと見届ける。「ああ、死んだのだ」と思う。それまでの時間、ベゴニアの鉢を見つめ、こころに「ああ、親しいひとは死んだのだ」と言い聞かせることができたら、ようやく歩きはじめる。こころの中から、現実のベゴニアの鉢のところまで。
こころに、しっかりと「あの人は死んだ」言い聞かせることができたので、こころは静かである。「静夜」の「静か」は世界の静けさではなく、こころの静けさをあらわしているのだろう。伊藤の世界は、親しいひとを失い、ちょうどベゴニアの鉢が欠けているように、一部が欠けて、その部分が「肉色」をしている。なまなましい。けれど、それを現実として、静かに受け止めている。
「その」は小さなことばである。そして、「その」は省略しても、「意味」が変わる、「意味」が不明になるということは、ほとんどない。だから「その」は書かれないことが多い。だからこそ、「その」が書かれたときには、そこには作者の強い思いがこめられている。
「その」は気持ちを正確にする一方、現実(?)をあいまいにする。作者の意識は、自分の「思い」のなかに集中し、現実をゆがめる。伊藤の詩の場合が特徴的だが、現実の世界に、じっさんに「死にゆく人」が横たわって、伊藤の歩みを邪魔しているわけではない。「気持ち」のなかに横たわっている「死にゆく人」が、現実に存在するかのように見えるのだ。現実と気持ちが交錯するのだ。それほど、気持ちが外へとあふれだしているのだ。「死にゆく人が横たわっている」というのは「幻」ではなく、あふれだした気持ちという現実なのである。
そういう、あふれだした現実としての気持ちをしっかりと見つめるために詩がある。そして、詩を書くことで伊藤は「静かさ」を獲得している。
杉山平一「正反対」は、会えなくなった友人のことを書いている。描かれているのは、戦争中の別れかもしれない。全行。
電車のホームの向い側に
友を見ることがあった
オーイと
声かけてもとどかず
私と同じ改札口を通ったのに
正反対の方向へ
彼は去って行くのだった
夏以来、その彼を見かけなくなった
何故だかさびしい
彼がイバラの道を歩んだ噂を聞いていたので
体制の道を辷っている気恥ずかしさが
胸にチカチカする
次第に 秋深く
(「とどかず」の「ど」は原文は送り文字)
とても静かな印象が残る。そして、その印象は3連目の「その彼を見かけなくなった」の「その」が大きく影響している。「その」は省略しても、描かれている「友」以外のだれをも想像しない。「正反対の方向へ/去って行」った「彼」以外のだれをも指さない。「その」がなくても、描かれている対象はかわらない。けれども、杉山はわざわざ「その」と書き加えている。
この「その」によって、「彼」がぐいと、杉山の胸のなかに(意識のなかに)取り込まれる。その、対象を胸に取り込むときの真摯さが、真摯さの強さが、このことばによってしっかりと定着する。そしてこの、しっかり定着するという感じが静かな印象のもとになっている。
ちらっと思い出すのではなく、しっかり思い出す。その「しっかり」が「気恥ずかしさ」を呼び起こす。「恥ずかしい」も「気恥ずかしい」も意味的にはかわらないかもしれないが、ここにも「その」があるのとないのとと同じような、気持ちのこだわりがあらわれている。
杉山は、杉山の「気持ち」を大切にことばを書いている。「気」(胸)ということを大切にしているから、最後の「次第に 秋深く」が余韻として、胸に静かに響く。
*
伊藤悠子「静夜」には、わからない行が出て来る。
夕暮れ 犬の影が思わぬ遠さまで届き
戸口に映っている
窓辺にはベゴニアの鉢が置いてある
鉢の縁が一箇所欠けている
そこは肉色をしている
欠けているのではなく
ベゴニアの落ち花だろうか
その鉢との間に
いまこのときを
死にゆく人が横たわっている
荒い呼吸の始まる前に
唇は歯をなぞり音を捜し
声にして名を呼び
己が半生の絶望を告げた
死にゆく人が死にきったら
ベゴニアの鉢の処まで行き
やはり欠けていることを知る
欠けたかけらはどこにあるのか
外は暮れており
戸口に犬の影はなく
肉色のかけらはひとつの形見として
夜が待っている
8行目、「その鉢との間に」とは、「その鉢」と「何」との間を指しているか。これがよくわからない。そして、「その」とわざわざ書いているのもよくわからない。ほかに鉢はでてきていないから、「鉢との間に」でも書き表している「意味」は同じだろう。なぜ「その鉢」と「その」をわざわざ書いたのか。たぶん、この「その」は杉山の詩でみた「その」と同じである。「その」は「気持ち」をしっかり定着させるためのことばである。そう考えると、「その鉢」と「何」との間に「死にゆく人が横たわっている」のかがわかる。「その鉢」と「私」(伊藤)との間に、「死にゆく人が横たわっている」ことになる。
したがって、この「死にゆく人」は、現実の、というか、ベゴニアの鉢がある窓辺、その下の庭に横たわっているのではない。伊藤の記憶の、伊藤の気持ちのなかに横たわっているのである。
夕暮れというのは現実である。ベゴニアの鉢があるというのも現実である。しかし、「死にゆく人が横たわっている」というのは、現実は現実であるけれども、それは「気持ち」(意識)の現実である。
伊藤は、親しい人の死に立ち会ってきたのかもしれない。死の間際に、その人が語ったことばを思い出しているのだ。記憶の(気持ちの)なかで、その人がもう一度死ぬ。こころが、その死をしっかりと見届ける。「ああ、死んだのだ」と思う。それまでの時間、ベゴニアの鉢を見つめ、こころに「ああ、親しいひとは死んだのだ」と言い聞かせることができたら、ようやく歩きはじめる。こころの中から、現実のベゴニアの鉢のところまで。
こころに、しっかりと「あの人は死んだ」言い聞かせることができたので、こころは静かである。「静夜」の「静か」は世界の静けさではなく、こころの静けさをあらわしているのだろう。伊藤の世界は、親しいひとを失い、ちょうどベゴニアの鉢が欠けているように、一部が欠けて、その部分が「肉色」をしている。なまなましい。けれど、それを現実として、静かに受け止めている。
「その」は小さなことばである。そして、「その」は省略しても、「意味」が変わる、「意味」が不明になるということは、ほとんどない。だから「その」は書かれないことが多い。だからこそ、「その」が書かれたときには、そこには作者の強い思いがこめられている。
「その」は気持ちを正確にする一方、現実(?)をあいまいにする。作者の意識は、自分の「思い」のなかに集中し、現実をゆがめる。伊藤の詩の場合が特徴的だが、現実の世界に、じっさんに「死にゆく人」が横たわって、伊藤の歩みを邪魔しているわけではない。「気持ち」のなかに横たわっている「死にゆく人」が、現実に存在するかのように見えるのだ。現実と気持ちが交錯するのだ。それほど、気持ちが外へとあふれだしているのだ。「死にゆく人が横たわっている」というのは「幻」ではなく、あふれだした気持ちという現実なのである。
そういう、あふれだした現実としての気持ちをしっかりと見つめるために詩がある。そして、詩を書くことで伊藤は「静かさ」を獲得している。
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