詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

松尾真由美「水の火、儚く瞬時に底流するあでやかな光沢域から」

2009-03-12 11:06:16 | 詩(雑誌・同人誌)
 松尾真由美「水の火、儚く瞬時に底流するあでやかな光沢域から」(「ぷあぞん」13、2009年02月28日発行)

 松尾真由美「水の火、儚く瞬時に底流するあでやかな光沢域から」はエッセイと書かれているけれど、エッセイか詩か、よくわからない。いずれにしろ、ことば、である。私は、どんなことばでも、ことばの運動として読むだけなので、作者の「区分」はとりあえず、棚に上げておく。
 松尾のことばを読むには強靱な視力がいる。たとえば、5ページの、

保護もなく、保証もなく、もつれゆくものしかなく、邪恋の方角もしくは痛覚、体内と体外がよわよわしく交差して、山も谷も柔和におとろえ、空隙だけがあかあかと誘い込む。

 強靱な視力は3つの点で要求される。わかりやすい(?)順に書いていくと、
 ①「体内と体外がよわよわしく交差して」に見られるように、反対のものが「交差」している。まじりあっている。それを見分ける力が必要である。なにが「体外」であり、なにが「体内」なのか。同じようなものに、「もつれゆく」が暗示しているものがある。「もつれる」のはひとつの存在なのか、それともふたつの存在なのか、たとえば長い糸なら1本だけでももつれることができる。それを見極めなければならない。同時に、1本でももつれるとき、それはやはり1本と呼ぶのが正しいのか、それとも複数と見た方がいいのか、判断しなければならない。
 ②その交差は「よわよわしい」。タイトルにも「儚く」ということばがあるが、松尾の描いているものは常に「よわよわしい」や「はかない」「おとろえ」というような外観をまとっている。そして、この「よわよわしい」はほんとうに弱いのかどうかが難しい。「よわよわしい」という修飾語をもっていても、いまそこに存在している、残っているということは、そこには存在しないものに比較すると、実は「強い」からである、ともいえる。松尾の詩の、松尾のことばの、「よわよわしい」は、その程度の判断基準をもっていない。それは比較ではなく、存在と「交差」あるいは「もつれ」あっている意識である。その「意識」なしに、修飾されている「存在」そのものもない。「もの」ではなく、「よわよわしく」や「儚く」の方が存在しているとさえいえる。そういうことばをささえるために、「もの」(存在)は利用されている。見るべきものは、「交差」している存在ではなく、その「交差」のありようなのである。こういう「ありよう」を見極めるのには非常に視力がいる。
 ③「邪恋の方角もくしは痛覚」ということばが特徴的だが、ここでは何が「もしくは」で対比されているか一読しただけではわからない。「邪恋の方角」もしくは「痛覚」なのか。「邪恋の方角」もしくは「邪恋の痛覚」なのか。「方角」「痛覚」ということばが韻を踏んでいるので、それは意識の奥で「音楽」として溶け合う(交差する、もつれる)ので、なおのこと、区別がつかない。そのうえ、「方角」と「痛覚」は、はたして「もしくは」で対比されるような概念なのか。「左」もしくは「右」というのは極端にしろ、なにかしら同じ基準というか、ものさしで測れるものではない、「もしくは」ということばにはそぐわない。そのそぐわないものを、松尾は「もしくは」でつないでしまう。「交差」させる。「もつれ」させる。
 この判別のつかない世界を、松尾は、どうやって動かすか。
 ふつうは「交差」「もつれ」をほどいて行く。存在を、ものを、それぞれ単独にする。単独なら、その存在、ものが「わかりやすい」。--単純に考えると、あるいは日常にかてらして考えるとそうなると思う。
 しかし、松尾は、この関係を、さらに「交差」させ、「もつれ」させ、さらに繊細に、さらに複雑にする。交差し、もつれるものが、さらに交差を繰り返し、もつれ、1本の糸、あるいは複数の糸でいうならば、それが固く固くむすびついて1個の球になるようにしむける。固まった糸は(最小限に固まった球は)、外観は小さい、しかし内部は非常に複雑になっている。この矛盾というか、対比のなかに、その運動のなかに、松尾の思想がある。それをときほどく唯一の方法は、ただ、そのことばをていねいにていねいに追うことで、固められている内部へ入っていくことだけである。縒り固まっているから、そこには「光」はない。つまり「流通言語」をそのままあてはめて理解できることばはない。そこにはただ「闇」だけがある。視力的には。
 しかし、それがたとえば糸ならば、それをたどるとき、触覚(手、指)で「闇」を切り開き、構造を見ることができる。こういうとき、「視力」ではなく、別の感覚(たとえば触覚)が必要になる。
 松尾のことばが難しいのは、そこに、単純な感覚(あるいは単純な思考)ではなく、複数の感覚の融合を要求する力があるからだ。「見る」だけでは、見えない。触ること、聞くこと、においをかぐこと。さらには声に出すこと、なども必要かもしれない。肉体を動かして、ことばに反応する。向き合う。そのときにだけ、松尾のことばは開かれる。

 わかっていても、かなり厳しい。つよい視力--視力と、他の感覚が融合した、なづけられていない感覚、ふつうを超越した感覚が必要だ。




睡濫
松尾 真由美
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(22)

2009-03-12 00:09:03 | 田村隆一
 田村隆一の詩は、いつも矛盾に満ちている。私が「矛盾」と呼んでいるものを、田村は「逆説」と呼んでいるように思う。
 「眼の称讃 敬愛をこめて滝口修造氏に」という作品。

生きている線だけを見てきた
息たえんとするもの
死に行くものの線だけを見てきた
あなたの眼が
物に憑かれたとき
物はあなたの眼をのぞきこむ
かぎりなき優しさをこめて

生きている線は
いつかは死ぬだろう 死ななければ
あなたの眼に見られた物の
復活はない
物によってのぞきこまれたあなたの眼の
蘇生はない

ぼくはいま
かぎりなきdelicateな
逆説のなかにある
あなたの眼はあなた個人のものではない
光りが走り
線と色彩がほとばしる
あなたの その動く手が 手そのものが
あなたの眼だ

 1連目。「あなたの眼が/物に憑かれたとき/物はあなたの眼をのぞきこむ」。ここに書かれている相互性。眼がものを見るとき(憑かれるとは、逃れることができないような状態で引きつけられるように「見る」ということ、「見る」の強調形であるだろう)、物の方でも眼を見つめかえしてくる。相対するものが「見る」というベクトルのなかで一致する。それは方向が違うけれど、同じ運動である。方向が違うことを取り上げれば「矛盾」である。しかし、田村はこれを「矛盾」とは考えない。むしろ、強い結びつきと考える。それは「相互性」ということかもしれない。互いが行き来するのだ。往復するのだ。裕往復の一つ一つの運動はその方向性をとらえれば、眼から物へ、物から眼へと対立・矛盾するが、繰り返すとき、それは矛盾を超越する。それが「相互性」ということである。
 2連目は、その「相互性」を、もう一度言い直したものである。生と死と復活(蘇生)は一方的な運動ではない。何度も往復する。そこには「相互性」がある。その相互性には「から」が共通のものとして、存在する。「から」が呼び起こす「運動」のベクトル。
 ある水平の状態に「もの」と「眼」があると仮定する。それぞれの「視線」(ベクトル、矢印「→」)は相互に行き来する。そして、それは相互に行き来しながら衝突するのではなく、行き来することで水平という方向を逸脱し、たとえていえば、垂直に離脱する。それは上昇かもしれないし、下降かもしれない。どちらであってもいいが、いまある方向とは別の次元の方向へベクトル(→)そのものとして動いていく。そうして、その方向は、私は便宜上「垂直」と書いたが、ほんとうは、全方向、つまり「球」(円)の方向として可能なのだ。球(円)の方向にベクトルの可能性があるから、それを「別次元」への逸脱ということができるのである。そこにあるのは、ほんとうは「方向」ではなく、可能性なのだ。

 全方向とは、矛盾である。全方向なら、そこには方向はないことになるからだ。

 書けば書くほど、そこに書かれていることを、「流通言語」で言い直そうとすればするほど、何も言えなくなる。何も言ったことにならなくなる。--それが田村の「矛盾」、止揚ではなく、発展ではなく、融合と私が呼ぶものであり、それを田村は「逆説」と言う。
 それは常に「逆」のものを含まないかぎり、言い直すことができないのである。

 「別次元」のことを、3連目で、とても興味深いことばで田村は書いている。

あなたの その動く手が 手そのものが
あなたの眼だ

 「手」はもちろん「眼」ではない。しかし、田村は「手」が「眼」であると書く。「手」と「眼」が描くという運動のなかで「融合」しているのである。そして、それは止揚→発展ではなく、逆の方向の動きなのだと私は思う。「手」が「眼」の機能(?)を獲得して動くのではなく、「手」と「眼」の区別がない状態、「手」と「眼」が肉体として分離する以前の状態にもどって、「手」以前、「眼」以前のエネルギーとして動くのである。
 「手」と「眼」の融合は、発展ではなく、いわば先祖返り、未分化への後退であり、そういう未分化のものだかが、新しいものを産み出す、そこから生まれてくるものだけが新しい「いのち」なのである。古いもの(?)、未分化のものが新しい--という「逆説」が、ここにある。




詩人のノート (講談社文芸文庫)
田村 隆一
講談社

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