松尾真由美「水の火、儚く瞬時に底流するあでやかな光沢域から」(「ぷあぞん」13、2009年02月28日発行)
松尾真由美「水の火、儚く瞬時に底流するあでやかな光沢域から」はエッセイと書かれているけれど、エッセイか詩か、よくわからない。いずれにしろ、ことば、である。私は、どんなことばでも、ことばの運動として読むだけなので、作者の「区分」はとりあえず、棚に上げておく。
松尾のことばを読むには強靱な視力がいる。たとえば、5ページの、
強靱な視力は3つの点で要求される。わかりやすい(?)順に書いていくと、
①「体内と体外がよわよわしく交差して」に見られるように、反対のものが「交差」している。まじりあっている。それを見分ける力が必要である。なにが「体外」であり、なにが「体内」なのか。同じようなものに、「もつれゆく」が暗示しているものがある。「もつれる」のはひとつの存在なのか、それともふたつの存在なのか、たとえば長い糸なら1本だけでももつれることができる。それを見極めなければならない。同時に、1本でももつれるとき、それはやはり1本と呼ぶのが正しいのか、それとも複数と見た方がいいのか、判断しなければならない。
②その交差は「よわよわしい」。タイトルにも「儚く」ということばがあるが、松尾の描いているものは常に「よわよわしい」や「はかない」「おとろえ」というような外観をまとっている。そして、この「よわよわしい」はほんとうに弱いのかどうかが難しい。「よわよわしい」という修飾語をもっていても、いまそこに存在している、残っているということは、そこには存在しないものに比較すると、実は「強い」からである、ともいえる。松尾の詩の、松尾のことばの、「よわよわしい」は、その程度の判断基準をもっていない。それは比較ではなく、存在と「交差」あるいは「もつれ」あっている意識である。その「意識」なしに、修飾されている「存在」そのものもない。「もの」ではなく、「よわよわしく」や「儚く」の方が存在しているとさえいえる。そういうことばをささえるために、「もの」(存在)は利用されている。見るべきものは、「交差」している存在ではなく、その「交差」のありようなのである。こういう「ありよう」を見極めるのには非常に視力がいる。
③「邪恋の方角もくしは痛覚」ということばが特徴的だが、ここでは何が「もしくは」で対比されているか一読しただけではわからない。「邪恋の方角」もしくは「痛覚」なのか。「邪恋の方角」もしくは「邪恋の痛覚」なのか。「方角」「痛覚」ということばが韻を踏んでいるので、それは意識の奥で「音楽」として溶け合う(交差する、もつれる)ので、なおのこと、区別がつかない。そのうえ、「方角」と「痛覚」は、はたして「もしくは」で対比されるような概念なのか。「左」もしくは「右」というのは極端にしろ、なにかしら同じ基準というか、ものさしで測れるものではない、「もしくは」ということばにはそぐわない。そのそぐわないものを、松尾は「もしくは」でつないでしまう。「交差」させる。「もつれ」させる。
この判別のつかない世界を、松尾は、どうやって動かすか。
ふつうは「交差」「もつれ」をほどいて行く。存在を、ものを、それぞれ単独にする。単独なら、その存在、ものが「わかりやすい」。--単純に考えると、あるいは日常にかてらして考えるとそうなると思う。
しかし、松尾は、この関係を、さらに「交差」させ、「もつれ」させ、さらに繊細に、さらに複雑にする。交差し、もつれるものが、さらに交差を繰り返し、もつれ、1本の糸、あるいは複数の糸でいうならば、それが固く固くむすびついて1個の球になるようにしむける。固まった糸は(最小限に固まった球は)、外観は小さい、しかし内部は非常に複雑になっている。この矛盾というか、対比のなかに、その運動のなかに、松尾の思想がある。それをときほどく唯一の方法は、ただ、そのことばをていねいにていねいに追うことで、固められている内部へ入っていくことだけである。縒り固まっているから、そこには「光」はない。つまり「流通言語」をそのままあてはめて理解できることばはない。そこにはただ「闇」だけがある。視力的には。
しかし、それがたとえば糸ならば、それをたどるとき、触覚(手、指)で「闇」を切り開き、構造を見ることができる。こういうとき、「視力」ではなく、別の感覚(たとえば触覚)が必要になる。
松尾のことばが難しいのは、そこに、単純な感覚(あるいは単純な思考)ではなく、複数の感覚の融合を要求する力があるからだ。「見る」だけでは、見えない。触ること、聞くこと、においをかぐこと。さらには声に出すこと、なども必要かもしれない。肉体を動かして、ことばに反応する。向き合う。そのときにだけ、松尾のことばは開かれる。
わかっていても、かなり厳しい。つよい視力--視力と、他の感覚が融合した、なづけられていない感覚、ふつうを超越した感覚が必要だ。
松尾真由美「水の火、儚く瞬時に底流するあでやかな光沢域から」はエッセイと書かれているけれど、エッセイか詩か、よくわからない。いずれにしろ、ことば、である。私は、どんなことばでも、ことばの運動として読むだけなので、作者の「区分」はとりあえず、棚に上げておく。
松尾のことばを読むには強靱な視力がいる。たとえば、5ページの、
保護もなく、保証もなく、もつれゆくものしかなく、邪恋の方角もしくは痛覚、体内と体外がよわよわしく交差して、山も谷も柔和におとろえ、空隙だけがあかあかと誘い込む。
強靱な視力は3つの点で要求される。わかりやすい(?)順に書いていくと、
①「体内と体外がよわよわしく交差して」に見られるように、反対のものが「交差」している。まじりあっている。それを見分ける力が必要である。なにが「体外」であり、なにが「体内」なのか。同じようなものに、「もつれゆく」が暗示しているものがある。「もつれる」のはひとつの存在なのか、それともふたつの存在なのか、たとえば長い糸なら1本だけでももつれることができる。それを見極めなければならない。同時に、1本でももつれるとき、それはやはり1本と呼ぶのが正しいのか、それとも複数と見た方がいいのか、判断しなければならない。
②その交差は「よわよわしい」。タイトルにも「儚く」ということばがあるが、松尾の描いているものは常に「よわよわしい」や「はかない」「おとろえ」というような外観をまとっている。そして、この「よわよわしい」はほんとうに弱いのかどうかが難しい。「よわよわしい」という修飾語をもっていても、いまそこに存在している、残っているということは、そこには存在しないものに比較すると、実は「強い」からである、ともいえる。松尾の詩の、松尾のことばの、「よわよわしい」は、その程度の判断基準をもっていない。それは比較ではなく、存在と「交差」あるいは「もつれ」あっている意識である。その「意識」なしに、修飾されている「存在」そのものもない。「もの」ではなく、「よわよわしく」や「儚く」の方が存在しているとさえいえる。そういうことばをささえるために、「もの」(存在)は利用されている。見るべきものは、「交差」している存在ではなく、その「交差」のありようなのである。こういう「ありよう」を見極めるのには非常に視力がいる。
③「邪恋の方角もくしは痛覚」ということばが特徴的だが、ここでは何が「もしくは」で対比されているか一読しただけではわからない。「邪恋の方角」もしくは「痛覚」なのか。「邪恋の方角」もしくは「邪恋の痛覚」なのか。「方角」「痛覚」ということばが韻を踏んでいるので、それは意識の奥で「音楽」として溶け合う(交差する、もつれる)ので、なおのこと、区別がつかない。そのうえ、「方角」と「痛覚」は、はたして「もしくは」で対比されるような概念なのか。「左」もしくは「右」というのは極端にしろ、なにかしら同じ基準というか、ものさしで測れるものではない、「もしくは」ということばにはそぐわない。そのそぐわないものを、松尾は「もしくは」でつないでしまう。「交差」させる。「もつれ」させる。
この判別のつかない世界を、松尾は、どうやって動かすか。
ふつうは「交差」「もつれ」をほどいて行く。存在を、ものを、それぞれ単独にする。単独なら、その存在、ものが「わかりやすい」。--単純に考えると、あるいは日常にかてらして考えるとそうなると思う。
しかし、松尾は、この関係を、さらに「交差」させ、「もつれ」させ、さらに繊細に、さらに複雑にする。交差し、もつれるものが、さらに交差を繰り返し、もつれ、1本の糸、あるいは複数の糸でいうならば、それが固く固くむすびついて1個の球になるようにしむける。固まった糸は(最小限に固まった球は)、外観は小さい、しかし内部は非常に複雑になっている。この矛盾というか、対比のなかに、その運動のなかに、松尾の思想がある。それをときほどく唯一の方法は、ただ、そのことばをていねいにていねいに追うことで、固められている内部へ入っていくことだけである。縒り固まっているから、そこには「光」はない。つまり「流通言語」をそのままあてはめて理解できることばはない。そこにはただ「闇」だけがある。視力的には。
しかし、それがたとえば糸ならば、それをたどるとき、触覚(手、指)で「闇」を切り開き、構造を見ることができる。こういうとき、「視力」ではなく、別の感覚(たとえば触覚)が必要になる。
松尾のことばが難しいのは、そこに、単純な感覚(あるいは単純な思考)ではなく、複数の感覚の融合を要求する力があるからだ。「見る」だけでは、見えない。触ること、聞くこと、においをかぐこと。さらには声に出すこと、なども必要かもしれない。肉体を動かして、ことばに反応する。向き合う。そのときにだけ、松尾のことばは開かれる。
わかっていても、かなり厳しい。つよい視力--視力と、他の感覚が融合した、なづけられていない感覚、ふつうを超越した感覚が必要だ。
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