廿楽順治「抜伝」ほか(「ガーネット」57、2009年03月01日発行)
廿楽順治「抜伝」にはなつかしい怖さがある。この「なつかしさ」はいくぶん池井昌樹のなつかしさに似ている。それは、どこからくるのだろうか。
前半部分だが、4行目までは「わたし」(あとで出てくる)の思いである。次の3行は「わたし」が知っている「あいつ」の「伝記」である。その次の5行は「あいつ」のことばであり、「わたし」の知っている「あいつの伝記」の一部である。前の3行と密接につながっている。そしてそれは最初の4行の「怖いからずっとだまっていよう」と思っていることがらでもある。
廿楽は、それを区別せずに、連続したものとして書く。行空きとか、括弧「 」をつかって話し言葉を明確にするという方法をとらず、どこまでが自分の思いであり、どこまでが「事実」であり、どこまでがひとの話したことばなのか、わからないように、「わざと」書いている。
ここに「なつかしさ」がある。「なつかしさ」の理由がある。
私たちは、世界と向き合うとき、それが現実であれ(いまのことであれ)、過去の思い出であれ、「事実」と「思い」を明確にわけては考えられない。どんな「事実」にも、それを「事実」として定義するとき、そこにひとの考え(思い)が入ってくる。ひとの話したことばになると、そこには「誤解」も入ってくる。つまり、本人が話したときの気持ちと、そのことばを受け止めた人間の気持ちにはずれが生まれるときがあって、人はその場合、気持ちを優先して「事実」をねじまげてしまう。
私たちは、どこかで「事実」と「思い」を溶け合わせている。その「溶け合わせる」ときの「現場」というか、何もかもが区別がなくなる特別の「深部」をことばがとおってくるとき、そこに「なつかしさ」が生まれる。その特別な「深部」に誘われ、くぐりぬける生々しい(なまあたたかい)こころの動きが、私たちのことばを「はだか」に、いや「裸」以前の「いのち」そのものにしてしまうのだ。
私たちは、そこで、無防備になり、放心し、「こわい」ときには「こわさ」にただ震え、それが通りすぎるのを待っている。それは「こわい」けれど、とてもとても「なつかしい」ことでもある。
詩の後半。
書かれていない「伝記」を捏造してみれば、たぶん、男は自分のかんなの腕を自慢するために自分の顔にかんなを当てた。鼻をすぱっと削り取って、のっぺらぼう。その異様な顔はこどもの好奇心と恐怖をあおる。「どうだ、背中を削ってやろうか」。背中なら痛くはないかもしれない。(どうってことない)と言い聞かせてみる。そう思っていると、男は次々に仲間の背中を削っていく。「わたし」は運良くそれから免れたけれど、そのかわり「目撃」してしまう。「目撃」と「被害」は違うものだけれど、やっぱり、その場に居合わせたことで、それが自分の「肉体」とつながってしまう。--そして、「この名人のかんなからはだれも逃げられない」ということになる。それは「わたし」のことば(気持ち)か、それとも「おとな」がこどもをこわがらせるためにつくりだした話か、わからないけれど。
わからないけれど「きんとう」に「肉体」にしみるのである。
(どうってことない)も(もうだめだ)も、「きんとう」なのである。つながっているのである。
このつながりの基本は、池井は「血」であるのに対し、廿楽は「ことば」かもしれない。この作品でいえば、(どうってことない)(もうだめだ)ということば。それは、この詩のなかでは鼻をなくしたかんな名人と出会ったときのこころの動きをあらわしているが、そのことば自体は、わたしたちは日常の多くの場でつかう。そして、それをつかったとき、その多くの場が、どこかで鼻のないかんな名人と出会ったときとひそかに重なり合うのである。
そういう重なりあいは、誤解である。--誤解であるけれど、そんなふうにこころがう動くというのが人間の「いのち」である。廿楽のことばは、そういう「いのち」に触れている。
「棍鳴」では、(いかいないでいかないで)(約束だからね)ということばが、そういうつながりをぐいと引き寄せている。「舌禍」では「わりざんできますか/鰐さんだしますか」「どうしますか/恫喝しますか」といっただじゃれが、そういうものを引き寄せている。引き寄せられたものは、ある意味では「余分なもの」である。廿楽のおもしろいのは、そういう「余分」を、「きんとう」にきれいに(?)各行に展開できるところにある。
廿楽順治「抜伝」にはなつかしい怖さがある。この「なつかしさ」はいくぶん池井昌樹のなつかしさに似ている。それは、どこからくるのだろうか。
鼻梁をくだかれて死んだあいつのことは
こわいからずっとだまっていよう
ひとの伝記だもの
すこしくらいまちがいがあってもよい
仕事がなくなって
師走のまちで
毛糸のぱんつを売ったこともある
おまえたち
背中をきんとうに
この名人のかんなでうすく削ってやろうか
いたいぞ
しみるぞ
前半部分だが、4行目までは「わたし」(あとで出てくる)の思いである。次の3行は「わたし」が知っている「あいつ」の「伝記」である。その次の5行は「あいつ」のことばであり、「わたし」の知っている「あいつの伝記」の一部である。前の3行と密接につながっている。そしてそれは最初の4行の「怖いからずっとだまっていよう」と思っていることがらでもある。
廿楽は、それを区別せずに、連続したものとして書く。行空きとか、括弧「 」をつかって話し言葉を明確にするという方法をとらず、どこまでが自分の思いであり、どこまでが「事実」であり、どこまでがひとの話したことばなのか、わからないように、「わざと」書いている。
ここに「なつかしさ」がある。「なつかしさ」の理由がある。
私たちは、世界と向き合うとき、それが現実であれ(いまのことであれ)、過去の思い出であれ、「事実」と「思い」を明確にわけては考えられない。どんな「事実」にも、それを「事実」として定義するとき、そこにひとの考え(思い)が入ってくる。ひとの話したことばになると、そこには「誤解」も入ってくる。つまり、本人が話したときの気持ちと、そのことばを受け止めた人間の気持ちにはずれが生まれるときがあって、人はその場合、気持ちを優先して「事実」をねじまげてしまう。
私たちは、どこかで「事実」と「思い」を溶け合わせている。その「溶け合わせる」ときの「現場」というか、何もかもが区別がなくなる特別の「深部」をことばがとおってくるとき、そこに「なつかしさ」が生まれる。その特別な「深部」に誘われ、くぐりぬける生々しい(なまあたたかい)こころの動きが、私たちのことばを「はだか」に、いや「裸」以前の「いのち」そのものにしてしまうのだ。
私たちは、そこで、無防備になり、放心し、「こわい」ときには「こわさ」にただ震え、それが通りすぎるのを待っている。それは「こわい」けれど、とてもとても「なつかしい」ことでもある。
詩の後半。
削られてから泣いたのではもうおそい
鼻をなくして
その男はつんとぬけてきた
背中の皮いちまいていどなら
(どうってことない)
でもしみるぞ
その男はぴょんぴょんと
わたしたちをひとり置きに飛んでゆく
そこに伝記の夕日がおっこちて
ぬかされたひとは
(もうだめだ)
みんなきんとうに沈むのである
うわさでは
この名人のかんなからはだれも逃げられない
書かれていない「伝記」を捏造してみれば、たぶん、男は自分のかんなの腕を自慢するために自分の顔にかんなを当てた。鼻をすぱっと削り取って、のっぺらぼう。その異様な顔はこどもの好奇心と恐怖をあおる。「どうだ、背中を削ってやろうか」。背中なら痛くはないかもしれない。(どうってことない)と言い聞かせてみる。そう思っていると、男は次々に仲間の背中を削っていく。「わたし」は運良くそれから免れたけれど、そのかわり「目撃」してしまう。「目撃」と「被害」は違うものだけれど、やっぱり、その場に居合わせたことで、それが自分の「肉体」とつながってしまう。--そして、「この名人のかんなからはだれも逃げられない」ということになる。それは「わたし」のことば(気持ち)か、それとも「おとな」がこどもをこわがらせるためにつくりだした話か、わからないけれど。
わからないけれど「きんとう」に「肉体」にしみるのである。
(どうってことない)も(もうだめだ)も、「きんとう」なのである。つながっているのである。
このつながりの基本は、池井は「血」であるのに対し、廿楽は「ことば」かもしれない。この作品でいえば、(どうってことない)(もうだめだ)ということば。それは、この詩のなかでは鼻をなくしたかんな名人と出会ったときのこころの動きをあらわしているが、そのことば自体は、わたしたちは日常の多くの場でつかう。そして、それをつかったとき、その多くの場が、どこかで鼻のないかんな名人と出会ったときとひそかに重なり合うのである。
そういう重なりあいは、誤解である。--誤解であるけれど、そんなふうにこころがう動くというのが人間の「いのち」である。廿楽のことばは、そういう「いのち」に触れている。
「棍鳴」では、(いかいないでいかないで)(約束だからね)ということばが、そういうつながりをぐいと引き寄せている。「舌禍」では「わりざんできますか/鰐さんだしますか」「どうしますか/恫喝しますか」といっただじゃれが、そういうものを引き寄せている。引き寄せられたものは、ある意味では「余分なもの」である。廿楽のおもしろいのは、そういう「余分」を、「きんとう」にきれいに(?)各行に展開できるところにある。
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