詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

廿楽順治「抜伝」ほか

2009-03-29 15:23:22 | 詩(雑誌・同人誌)
廿楽順治「抜伝」ほか(「ガーネット」57、2009年03月01日発行)

 廿楽順治「抜伝」にはなつかしい怖さがある。この「なつかしさ」はいくぶん池井昌樹のなつかしさに似ている。それは、どこからくるのだろうか。

鼻梁をくだかれて死んだあいつのことは
こわいからずっとだまっていよう
ひとの伝記だもの
すこしくらいまちがいがあってもよい
仕事がなくなって
師走のまちで
毛糸のぱんつを売ったこともある
おまえたち
背中をきんとうに
この名人のかんなでうすく削ってやろうか
いたいぞ
しみるぞ

 前半部分だが、4行目までは「わたし」(あとで出てくる)の思いである。次の3行は「わたし」が知っている「あいつ」の「伝記」である。その次の5行は「あいつ」のことばであり、「わたし」の知っている「あいつの伝記」の一部である。前の3行と密接につながっている。そしてそれは最初の4行の「怖いからずっとだまっていよう」と思っていることがらでもある。
 廿楽は、それを区別せずに、連続したものとして書く。行空きとか、括弧「 」をつかって話し言葉を明確にするという方法をとらず、どこまでが自分の思いであり、どこまでが「事実」であり、どこまでがひとの話したことばなのか、わからないように、「わざと」書いている。
 ここに「なつかしさ」がある。「なつかしさ」の理由がある。
 私たちは、世界と向き合うとき、それが現実であれ(いまのことであれ)、過去の思い出であれ、「事実」と「思い」を明確にわけては考えられない。どんな「事実」にも、それを「事実」として定義するとき、そこにひとの考え(思い)が入ってくる。ひとの話したことばになると、そこには「誤解」も入ってくる。つまり、本人が話したときの気持ちと、そのことばを受け止めた人間の気持ちにはずれが生まれるときがあって、人はその場合、気持ちを優先して「事実」をねじまげてしまう。
 私たちは、どこかで「事実」と「思い」を溶け合わせている。その「溶け合わせる」ときの「現場」というか、何もかもが区別がなくなる特別の「深部」をことばがとおってくるとき、そこに「なつかしさ」が生まれる。その特別な「深部」に誘われ、くぐりぬける生々しい(なまあたたかい)こころの動きが、私たちのことばを「はだか」に、いや「裸」以前の「いのち」そのものにしてしまうのだ。
 私たちは、そこで、無防備になり、放心し、「こわい」ときには「こわさ」にただ震え、それが通りすぎるのを待っている。それは「こわい」けれど、とてもとても「なつかしい」ことでもある。
 詩の後半。

削られてから泣いたのではもうおそい
鼻をなくして
その男はつんとぬけてきた
背中の皮いちまいていどなら
(どうってことない)
でもしみるぞ
その男はぴょんぴょんと
わたしたちをひとり置きに飛んでゆく
そこに伝記の夕日がおっこちて
ぬかされたひとは
(もうだめだ)
みんなきんとうに沈むのである
うわさでは
この名人のかんなからはだれも逃げられない

 書かれていない「伝記」を捏造してみれば、たぶん、男は自分のかんなの腕を自慢するために自分の顔にかんなを当てた。鼻をすぱっと削り取って、のっぺらぼう。その異様な顔はこどもの好奇心と恐怖をあおる。「どうだ、背中を削ってやろうか」。背中なら痛くはないかもしれない。(どうってことない)と言い聞かせてみる。そう思っていると、男は次々に仲間の背中を削っていく。「わたし」は運良くそれから免れたけれど、そのかわり「目撃」してしまう。「目撃」と「被害」は違うものだけれど、やっぱり、その場に居合わせたことで、それが自分の「肉体」とつながってしまう。--そして、「この名人のかんなからはだれも逃げられない」ということになる。それは「わたし」のことば(気持ち)か、それとも「おとな」がこどもをこわがらせるためにつくりだした話か、わからないけれど。
 わからないけれど「きんとう」に「肉体」にしみるのである。
 (どうってことない)も(もうだめだ)も、「きんとう」なのである。つながっているのである。
 このつながりの基本は、池井は「血」であるのに対し、廿楽は「ことば」かもしれない。この作品でいえば、(どうってことない)(もうだめだ)ということば。それは、この詩のなかでは鼻をなくしたかんな名人と出会ったときのこころの動きをあらわしているが、そのことば自体は、わたしたちは日常の多くの場でつかう。そして、それをつかったとき、その多くの場が、どこかで鼻のないかんな名人と出会ったときとひそかに重なり合うのである。
 そういう重なりあいは、誤解である。--誤解であるけれど、そんなふうにこころがう動くというのが人間の「いのち」である。廿楽のことばは、そういう「いのち」に触れている。

 「棍鳴」では、(いかいないでいかないで)(約束だからね)ということばが、そういうつながりをぐいと引き寄せている。「舌禍」では「わりざんできますか/鰐さんだしますか」「どうしますか/恫喝しますか」といっただじゃれが、そういうものを引き寄せている。引き寄せられたものは、ある意味では「余分なもの」である。廿楽のおもしろいのは、そういう「余分」を、「きんとう」にきれいに(?)各行に展開できるところにある。



すみだがわ
廿楽 順治
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(39)

2009-03-29 00:04:57 | 田村隆一
 『小鳥が笑った』(1981年)に、おかしな作品がある。「動物園の昼さがり」と「おやすみ ワニ」。この作品は2つで1篇である。いや、「おやすみ ワニ」の方はまだ1篇として独立しているといえるかもしれないが、「動物園の昼さがり」は「おやすみ ワニ」の前書き(?)なのだから、1篇とはいえないかもしれない。けれど、その1篇未満の詩がなぜか私は好きだ。

ロンドンの動物園の昼さがり
やっと春がきて色とりどりの
クロッカスの花が咲いていて

サイもライオンもペンギンも
退屈そうな顔をして昼寝して
いたりしてぼくは動物園の中
居酒屋でウイスキーを飲んで
いたら突然ワニの親子を思い
出した 父の背中に五センチ
ほどの子どもがのっていて父
も子も眠っていたが母親だけ
は大股をひろげて目だけパッ
ちり明けているのさ そこで

 作品は、これで終わり。そして、次のページに「おやすみ ワニ」という作品がある。

おやすみ ワニ
ワニの父と子 その
母親
リージェント公園にはやっと春がきて
クロッカスの花々が咲いていて

 「動物園の昼さがり」の末尾、「そこで」のあとには、「次の詩を書いた」とでもいうべき1行が隠されている。この1行が隠されていることは、2篇をつづけて読んだ読者にははっきりわかる。そして、この1篇は、その隠されている1行にのみ「意味」がある。いわゆる「意味」--人と人との関係において、何かを伝えるというときの「意味」がある。
 ことばが、もし、「意味」を伝えるためのものだとしたら、あるいは文学作品が、なんらかの「意味」を伝えるものだとしたら、(国語の試験の、文意を「要約せよ」というときに「答え」として各戸とのできるものだとしたら)、この作品には「意味」が書かれていない。「意味」を放棄している。
 別なことばでいえば、ここでは、どうでもいいことが書かれているである。「おやすみ ワニ」のタイトルのあとに副題として「ロンドン、リージェント公園で」と副題をつければすむようなことを、1篇にしたてている。
 詩を読んだことのない読者なら、こういう作品を「無意味」というかもしれない。たしかに「無意味」である。
 そして、だからこそ、詩なのである。
 詩になにかしなければならない仕事があるとするならば、「無意味」が存在することを明らかにするのが仕事である。「意味」をあきらかにするのではなく、「意味」を拒絶し、破壊し「意味」以前の状態、「未分化」の世界をことばとして存在させることが仕事である。

 この詩は1行が13字である。そして13行である。(1行の空白をどう数えるかで、14行という人もいるかもしれないが。)途中までは1行でひとつの文節がおわるようにことばを選んでもいる。なかほど「いたりしてぼくは動物園の中」という行は、1行13字という田村自身の設定した「条件」のために、とても不自然な形をしている。もし、「意味」を伝えることがことばの仕事(文学の仕事)であるとしたら、この1行はとても不親切である。その前の行との「昼寝をして/いたりして」という「わたり」はそうだけれど、「動物園の中」という1行の終わり方、そして次の行の「居酒屋で」という飛躍が、とても不親切である。
 田村は、ここでは13字13行という形に「無意味」にこだわっているのである。そういう「こだわり」も詩のひとつである。次の作品の「前書き」にとって、ことばが正方形(?)の文字列になっているかどうかなど、まったく「無意味」なことである。そういう「無意味」によって、この作品は詩になっている。

 そして。

 この13字13行という「形」にこだわってみせている部分にはもう一つ、とてもおもしろいことが隠されている。

いたりしてぼくは動物園の中
居酒屋でウイスキーを飲んで

 これは、13字13行の形に目を奪われて読んでいると、13字13行にするために、「動物園の中」のあとに「の」が省略されているというふうに読んでしまいそうである。

動物園のなか「の」居酒屋で

 と読んでしまいそうである。
 しかし、そうなのだろうか。動物園の中に居酒屋があり、そこでウイスキーを飲んでいたら、ワニを思い出したということなのだろうか。
 違うのではないだろうか。だいたい、動物園に、居酒屋があるだろうか。

退屈そうな顔をして昼寝して
いたりしてぼくは動物園の中

 という2行には、行の「わたり」がある。「昼寝をして/いたりして」は、学校教育の文節では「昼寝を/していたりして」である。それを無視して「わたり」があるために、「動物園の中/居酒屋で」も一種の「わたり」として読んでしまうのだが、これは田村の仕組んだ「わな」、「わざと」書いた部分である。
 「動物園の中」と「居酒屋で」のあいだには、「間(ま)」がある。その「間」を田村は「わざと」消している。
 最後の1行「次の詩を書いた」という省略は、だれにでも想像がつくが、この「間」の消去は見落とされるのではないだろうか。「間」が消されているというよりも、「の」が省略されていると読まれるのではないだろうか。
 しかし、ここには「間」があるのだ。

 田村が動物園へ行ったのはたしかである。居酒屋へ行ったのもたしかである。しかし、それは同じロンドンではあっても、離れた場所である。動物園の中に居酒屋があるのではない。
 居酒屋で、ふいに動物園を思い出したのだ。クロッカスの花もワニの昼寝もふいに思い出したのだ。居酒屋で動物園の花々の話をしていたら、ふいにワニの昼寝を思い出してしまったのである。花々とワニの昼寝のあいだにもいっしゅの飛躍があるが、そういう飛躍を消えて、ことばがショートする一瞬。
 ショート、短絡、という「間」。
 これが、ほんとうは詩である。

 詩とは異質なものの出会い。出会ったとき、そこに「間」がひろがるのではなく、「間」がショートして、火花が飛び散る。その驚き。驚きの輝き。ちょっと怖い。でも、そのちょっと怖いのが好き、という興奮。

 なんでもない「前書き」のようなことば--だけれど、そこには、そういうものが隠されている。ショートした「間」が隠されている。
 このショートした「間」の変奏が「おやすみ ワニ」の最後に出てくる。

生命の水こそ
ウイスキーの語源で
その水を飲みに
ロンドンのパブへ行ってみたら
四百年ぐらいたっている居酒屋で
そのローソクの灯をともして
人間の存在と行為についてぼくらは論じながら
哄笑するのだ シェークスピア役者だってワニを背中にのせて
ドアをあけて入ってくるかもしれない

 突然のシェークスピア役者とワニの出会い、そして闖入。そのショート。ショートという「間」。そこに詩がある。

 田村の作品について、私は何度も、矛盾、衝突、止揚ではなく解体、そして何もなくなったところからの生成というようなことを書いたが、その生成、誕生はゆっくりおこなわれるのではない。ショート、短絡の形で、突然、ぱっと出現するものなのだ。

田村隆一ミステリーの料理事典―探偵小説を楽しむガイドブック (Sun lexica (12))
田村 隆一
三省堂

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする