詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

白鳥央堂「某日の子供が新しくけずられた靴底に、たくわえていた詩」

2009-03-10 15:50:59 | 詩(雑誌・同人誌)
白鳥央堂「某日の子供が新しくけずられた靴底に、たくわえていた詩」(「現代詩手帖」2009年03月号)

 詩は意味ではなく、ことばだ。1行1行のことばが、ただことばであるだけで楽しい。ことばは意味にまみれた時からつまらなくなる。意味を拒絶して、ことばよ、輝け――と、急に書きたくなった。そういう興奮を、白鳥央堂の詩は呼び覚ます。
 3連目。

きみが黒馬を蹴り
教師と、ぼくを誕生日まで連れてゆく
耳にはずっと「美化」という叱責がきこえていて
よぞらは暗い
きみは辿り着いて蝕学を習うのだと腕をかざし、笑い
また叱責の音を執拗に歌い重ねながら おそらく泣いていて
かたわらでかがやく海の、路へ 生後の密会のために
横転し 頬に縫い留めていた真白い紙幣を二枚切り離す

 ことばがとても好きなのだと思う。そして、白鳥がことばが好きだと知っていて、ことばが白鳥を訪ねてくる。その訪問に導かれて白鳥は動いていく。白鳥がことばを動かすというより、ことばが白鳥を動かす。
 これはいことだ。詩にとって、こんなにうれしいことはないだろうと思う。

きみは辿り着いて蝕学を習うのだと腕をかざし、笑い
また叱責の音を執拗に歌い重ねながら おそらく泣いていて

 この2行はとりわけ美しく、楽しい。夢に見そうなくらい、無意味に鮮やかである。意味を追いかける気持など消えてしまう。「音」が文字面、漢字、ひらがなのバランスの美しさ、1行の長さと響きあい、自然に動く。どこまでもどこまでも、このまま動いていく感じがするのだ。



現代詩手帖 2009年 03月号 [雑誌]

思潮社

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ジョン・パトリック・シャンリー監督「ダウト ~あるカトリック学校で~」(★★★★)

2009-03-10 12:24:41 | 映画
監督 ジョン・パトリック・シャンリー 出演 メリル・ストリープ、フィリップ・シーモア・ホフマン

 メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの演技合戦を期待して見に行った。最後の2人の密室での口論、激論は、ずいぶん評判になっている。
 たしかにメリル・ストリープは大変すばらしい。カトリックの尼さん(?)お衣装で、顔だけがくっきり見える。顔の変化だけで演技する。その口の動き、口元の変化が、最後の口論ではとても効果的だ。ことば、ことば、ことば。そのことばに観客の意識をひっぱてゆく。
フィリップ・シーモア・ホフマンは、威嚇する顔と、あの持って生まれた甘えん坊のような顔を交錯させながら、メリル・ストリープの精神と感情の両方に働きかけようとする。濃密な舞台劇そのものである。(原作は舞台劇)
 しかし、この映画で心底驚いたのは、フィリップ・シーモア・ホフマンが誘惑した男子生徒の母親の演技である。メリル・ストリープに呼び出され、息子のことを問いただされる。メリル・ストリープは少年の行動(とフィリップ・シーモア・ホフマンの行動)について疑惑を感じている。同じ疑念を、母親は抱かないのか、と問い詰めてゆく。
 これに対して、母親は、少年に対して一切の疑念を抱かない。フィリップ・シーモア・ホフマンに対しても疑念を抱かない。それは、フィリップ・シーモア・ホフマンと少年のしていることを知らないというのではない。知っている。知っているけれど、それを許す。許して、受け止める。ようするに少年を、少年のありのままで愛するのである。母親にとって大切なことは少年を愛することである。少年を守ることである。
 この、疑念と愛とのぶつかり合う2人のシーンは、映画史上に残る傑作である。メリル・ストリープとフィリップ・シーモア・ホフマンの激論はじめ、セリフは室内で、あるいは学校の敷地で発せられるのに、この2人のシーンだけは町を歩きながら行われえる。他者に開かれた場所で行われる。いいかえると、「世間」のなかで繰り広げられる。そこに「世間」のひとは母親以外に登場はしないけれど。
 結果的に、この母親の愛、息子のしていることは何でも知っている、知っていてカトリック学校に通わせている、息子には「保護者が必要なのだ」ということばが、メリル・ストリープの疑惑が「正しい」という「証拠」になるのだが、メリル・ストリープの正しさが証明されればされるほど、母親の愛の切実さも強烈になる。

 正義か愛か――というのは難しい問題である。正義と愛は両立するというのがメリル・ストリープの主張である。フィリップ・シーモア・ホフマンを追放し、少年から遠ざけることが少年を守ること(大切に育てること、愛すること)と主張する。この考えは、確かに「正しい」。そして「正しい」ゆえに、問題を複雑にする。愛はときとして、「正しい」ことを基準に動かない。「正しい」はいわば「社会全体」の最大公約数の基準であるのに対し、愛は他人を(第三者を)気にしない。あくまで個人のことだからだ。
 話は少し前に戻るが、メリル・ストリープと母親の対話シーンだけが屋外(世間)で撮影されていることの「意義」がこの、正義と愛の対決に関係してくる。
 この映画は1960年代のニューヨークが舞台だが、そのころはちょうどあらゆる「基準」が変化しはじめた。それまでは「教会」「学校」など閉ざされた社会の「基準」がその他の基準をリードした。世間は、立派な人たちが協議して確立した基準に従って生きた。しかし、このころから、そういう基準に対して「異議」を唱え始めた。少年の母親のように。
 フィリップ・シーモア・ホフマンのセリフの中に「教会も学校も変わらなければならない」ということばがあった。「世間」は「閉ざされた社会」がつくった基準以外のものを、多様性を受け入れ、受け入れることを「愛」と感じていたのである。
 メリル・ストリープと母親の対話シーンが、特に母親の演技が、大変素晴らしいのは、そういう時代の空気そのものをもくっきり体現しているからだ。母親は、母だけではなく、「世間」そのものだったのだ。神父が少年を誘惑するのは悪い、しかし、少年の性癖そのものは「悪」ではない。あらゆる人間の性質は、そのまま愛さなければならない。あらゆる人間が共存すべきだ。

 この映画は、最後に大きな質問を観客に投げかけている。愛とは何かと。
メリル・ストリープは最後に、フィリップ・シーモア・ホフマンを学校から追放するため、嘘をついたと告白している。そして、「私には確信があった、疑惑という確信が」と。疑惑、疑念――それは、実は「愛」なのだ。確信があったのは、実は疑惑に対してではなく、自分への愛に対して確信があったというのに過ぎない。自分を愛していただけなのだ。他者へ開かれた愛ではなく、自分自身を防御するための愛、メリル・ストリープの場合、自分の信じている基準を守るという自己愛。メリル・ストリープはこの自己愛に気づき、最後に、後悔し泣く。この涙のシーンは、この映画の救いである。
息子のことを語りながら、母親が流した涙も美しかったが、この最後のメリル・ストリープの涙にもこころを揺さぶられた。メリル・ストリープは名優であるとつくづく思った。それまで、こんなに嫌な人間はいないと思わせておいて、最後の一瞬、そういう人間にも救いがあるということを、さっと具現化するのだから。



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『田村隆一全詩集』を読む(20)

2009-03-10 00:00:00 | 田村隆一
 「分解」と「眼」ということばは「緑の思想」のなかに何度か出て来るが、この詩の書き出しは、とても特徴的だ。

それは
血のリズムでもなければ
心の凍るような詩のリズムでもない

 1行目。「それは」。「それ」とはなにか。タイトルの「緑の思想」か。よくわからない。田村にもよくわからないのだと思う。「それ」としか、まだ言いようがない。そのまだはっきりとはしないものを、「リズム」ということばが象徴的だが、ことばのリズムにのって探しにゆく。頼りになるのは、ことばのリズムだけである。リズムがことばを自律させる。運動をうながす。
 そのリズムにのって、まず「分解」ということばがあらわれる。

だしぬけに窓がひらき
上半身を乗り出して人間がなにか叫ぶ
なにか叫ぶがその声はきこえない

あるいは
その声はきこえたかもしれないが
だれひとりふりむくものはいない

あるいは
だれかふりむいたかもしれないが
耳を常に病んでいる人間は少いものだ

この世界では
病むということは大きな特権だ
腐敗し分解し消滅するものの大きな特権だ

 「あるいは」というひとつの論理のリズム。それにのって、叫び、きこえない、聞く、耳、病気(病む)と移行して、「腐敗し分解し消滅するものの大きな特権だ」と飛躍する。
 聞こえない叫びを聞いてしまう耳--それは、「世界」を分解し、聞こえない叫びを取り出す耳のことである。そういう「特権」的な耳を健康な耳ではなく病気の耳ととらえる。この一種の逆説、レトリックのなかに、田村の「思想」がある。
 病気、腐敗、消滅--いわば、否定的に表現されることのおおい現象のなかに、田村は「分解」する力をみている。なにかを否定する力--それが世界を「分解」し、「世界」から、いままで存在しなかったものを取り出す。とこばとして。たとえば、「聞こえない叫び」として。「きこえない叫び」は、言語矛盾である。聞こえなかったら叫びとは言わない。ふつうの声より大きい声が叫びなのだから。
 だが、聞こえるものだけが実際の叫びではないことを私たちは知っている。聞き取られることを恐れて、殺してしまう叫びというものもある。「きこえない叫び」ということばは、その矛盾のなかに、ほんとうは矛盾しないものを隠している。それを本能的に、直感として聞き取ってしまう耳。--それは病気の耳。不都合な耳。それは、この世界をこのまま維持しようとするもの(人間・体制)にとって不都合という意味になるだろうけれど。
 そして、この、この世界を維持しようとするものにとって不都合なものこそ、田村は「思想」と考えている。あるいは、「詩」と考えている。
 田村はいつでも、世界をいまある形ではなく、それが出来上がる前の状態に戻したい、そのときのエネルギーそのものを目の前に取り出したいと願っているのだ。そのために「分解」するのだ。

 「分解」の次になにがくるか。分解すると、すぐ、世界はエネルギーになるのか。そうではない。エネルギーにいたるまでにはいくつもの過程がある。
 「分解」すると「部分」があらわれて来る。

全世界は炎と灰だ
燃えている部分と燃えつきた部分だ
部分と部分の関係だ

部分のなかに全体がない
いくら部分をあつめても全体にはならない
部分と部分は一つの部分にすぎない

 「分解」する。けれども、それは「部分」をもとめてのことではない。あくまで「全体」を求めて「分解」する。これは、矛盾である。矛盾であるからこそ、そこに田村の思想がある。田村は分解によって対立項を探しだし、それを止揚、発展へと結びつけようとはしていない。止揚、発展という形の「全体」を求めてはいない。むしろ、そういう動きそのものを「解体」しようとしている。
 「部分」と「部分」があつまった「全体」ではなく、むしろ、「部分」のなかに「全体」をさぐっている。「部分」のなかにも「部分」を超えたもの--つまり、「部分」と相いれない異質なものがある。そういうものを、ことばの運動で取り出そうとしている。

「時」が直線上にすすむものとはばかり思っていた
「時」の進行は部分によってちがうのだ
部分と部分によってちがうのだ

 「分解」によって、田村は「部分」の本質を知る。「部分」というものをつかむのではなく、「部分」の本質に迫るために「分解」する。それは「時」を超越するなにかである。その超越するなにかは、まだ、わからない。わからないから、書くのである。

部分的にはそう見えるだけだ
部分的にはそう感じるだけだ
部分的には部分を知るだけだ

眼をつむればそれがよくわかる
眼でものを見るということはものを殺戮することだ
ものを破壊することだ

 「眼」のなかには、「眼」の歴史がある。時間がある。つまり、時間をへることによって形成されたものの見方がある。一種の、無意識のレトリックが、そこには存在する。眼をつむってもなにかが見えるのは、そのレトリックの力である。レトリックが自律し、眼をへずにものを見てしまうのである。
 そういうレトリックを分解しなければならない。解体しなければならない。そうして、その奥にあるものを解放しなければならない。レトリックによって「殺戮」され、「破壊」されたものを再生しなければならない。

一度でいいから
人間以外の眼でものを見てみたい
ものを感じてみたい

「時」という盲目の彫刻家の手をかりずに
ものが見たい
空が見たい

 「人間以外の眼」。それは人間のレトリックに汚染されない眼である。そういうレトリックは「時」、つまり「歴史」のなかにある。そういうものに汚染されない眼を田村は求めている。
 そのために、「時」のレトリックと向き合い、闘い、それを根絶するために、なにが必要か。新しいレトリック、新しいことばの運動、つまり詩が必要なのだ。

 田村の詩は矛盾に満ちている。それは、いいかえれば、いままで存在しなかったレトリックで満ちているということでもある。新しいレトリックだけがことばを解放する。ことばを束縛する「時」を超越する。




魔術の殺人 (ハヤカワ文庫―クリスティー文庫)
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