高橋順子「虎杖」(「葡萄」56、2009年04月発行)
高橋順子「虎杖」は、後半が突然おもしろくなる。四国八十八ヶ所を巡拝中に、イタドリをかかえて歩いてくる女たちに出会う。
途中に、奇妙な論理がでてきて、そのことに高橋は納得している。自分の論理だから納得するしかないのかもしれないけれど。奇妙というのは、
である。たしかにイタドリは札所よりも前に存在する。古くから存在するものは、それだけ知られる確率が高い。札所はあとからできたのだから、まだ、存在が存在として認められていない。存在が存在として認められるには時間がかかるのだ。
--というのは、悠久の時間をみすえた、深い哲学である。
というのは、真実らしく見えるけれど、とんでもない「嘘」である。
ひとりの人間が誕生する。たとえば、この詩ではイタドリをかかえる女。彼女が誕生したとき、札所もイタドリも、すでに存在していた。どちらが「古い」ということはいえない。女の、実際の「いのち」の時間を基準にすれば、札所より前にイタドリが存在したのだから、古くからあるイタドリの生えている場所は知っていても、新しくできた札所の場所を知らないという論理は成り立たない。
それなのに、高橋は、自分で発見した論理を納得してしまっている。
なぜ?
高橋が「現実」から逸脱したからである。
高橋は「時間」を考えるとき、実際に「ひとり女が生きている時間」というものを忘れて、「人間」という「いのち」が生きている時間を「基準」として選びとってしまったからである。「個人」を逸脱して、「いのち」に直接触れたからである。
「個人」の時間から、「いのち」の歴史へ逸脱したときにのみ、高橋の論理は有効である。
なぜ、高橋は、そんなふうに論理を逸脱したのか。
理由は二つ。ひとつめ。イタドリをかかえてあるく女、--それは、料理をする女、たべものをつくる女の時間へとつながっていく。そういう暮らしの時間は個人のものであるけれど、また、同時に歴史のなかで共有されてきた時間でもある。女の歴史は、いつでも「いま」として共有されている。引用しなかったが、詩の前半に登場する「伊予生まれの女友達」もまた、イタドリを調理・保存していた。「くらし」は「個人」の時間を超越するものなのである。そして、「歴史」になるのである。
ふたつめ。高橋は札所を巡拝している。巡拝という行為も、それぞれ「個人」のものであるけれど、同時に、そういうことをしてきた人々(個人を超えるつながりとしての、人間の「いのち」)によって共有されてきたものである。そういう行為のなかで、個人は個人でありながら、個人から解体されて、「いのち」のつながりのなかに溶け込んでしまう。
女のくらし、巡拝といういのりの「いのち」のつながり。それが、高橋から「個人」の時間を忘れさせる。「いのち」によって「共有」される悠久の時間を目の前に出現させる。その時間のひろがりに吸い込まれて、「個人」の時間が消え去れり、「個人」を基本にした時間が狂うのである。
この「乱れ」を、私は、否定しているのではない。肯定したい。
個人が解体され、「いのち」に飲み込まれる。--そこから、この詩は、もう一度大きく変化する。
人間の、つまり高橋と連れのふたりの「いのち」は人間という形を解体され、別のものになる。「虎」に。
なぜ、虎?
イタドリを見たからである。イタドリは「虎杖」と書く。その文字のなかに「虎」がいる。そして、「杖」もある。ふたりは「杖」をついて巡拝している。「杖」には「虎」がふさわしいのである。
何かに出会って、自分が解体し、生まれ変わる。そして、そのとき「未来」ではなく、過去も未来もない「悠久」の時間が、ただ時間として、目の前に出現する。
こういう哲学を、高橋は「頭」ではなく、「肉体」で書いている。だから、とても愉しい。とても説得力がある。笑いながら、ちょっと、ちょっと、高橋さん、あなたの論理間違っていますよ、とちゃちゃを入れたくなる。ちゃちゃをいれると、高橋の論理が、間違うことで、正解ではたどりつけない「真理」にふれていることがわかる。こういう、矛盾した体験が、私は、とても好きだ。そういう体験をさせてくれることばが、とても好きだ。
高橋順子「虎杖」は、後半が突然おもしろくなる。四国八十八ヶ所を巡拝中に、イタドリをかかえて歩いてくる女たちに出会う。
「前神寺(まえがみじ)はどこでしょう」
とたずねると
「聞いたことはあるけど。わたしらは隣りの町から来たので」
と言う
隣りの町の虎杖の在処は知っていても
札所は知らないのだ
それはそうだ
札所が出来るよりも前に 野に
虎杖は生えてきていたのだもの
歩きだすと 虎杖のすぐ隣りに前神寺はあった
疲れた虎二ひき
杖をつき 鈴を鳴らして
山門にはいる
途中に、奇妙な論理がでてきて、そのことに高橋は納得している。自分の論理だから納得するしかないのかもしれないけれど。奇妙というのは、
隣りの町の虎杖の在処は知っていても
札所は知らないのだ
それはそうだ
札所が出来るよりも前に 野に
虎杖は生えてきていたのだもの
である。たしかにイタドリは札所よりも前に存在する。古くから存在するものは、それだけ知られる確率が高い。札所はあとからできたのだから、まだ、存在が存在として認められていない。存在が存在として認められるには時間がかかるのだ。
--というのは、悠久の時間をみすえた、深い哲学である。
というのは、真実らしく見えるけれど、とんでもない「嘘」である。
ひとりの人間が誕生する。たとえば、この詩ではイタドリをかかえる女。彼女が誕生したとき、札所もイタドリも、すでに存在していた。どちらが「古い」ということはいえない。女の、実際の「いのち」の時間を基準にすれば、札所より前にイタドリが存在したのだから、古くからあるイタドリの生えている場所は知っていても、新しくできた札所の場所を知らないという論理は成り立たない。
それなのに、高橋は、自分で発見した論理を納得してしまっている。
なぜ?
高橋が「現実」から逸脱したからである。
高橋は「時間」を考えるとき、実際に「ひとり女が生きている時間」というものを忘れて、「人間」という「いのち」が生きている時間を「基準」として選びとってしまったからである。「個人」を逸脱して、「いのち」に直接触れたからである。
「個人」の時間から、「いのち」の歴史へ逸脱したときにのみ、高橋の論理は有効である。
なぜ、高橋は、そんなふうに論理を逸脱したのか。
理由は二つ。ひとつめ。イタドリをかかえてあるく女、--それは、料理をする女、たべものをつくる女の時間へとつながっていく。そういう暮らしの時間は個人のものであるけれど、また、同時に歴史のなかで共有されてきた時間でもある。女の歴史は、いつでも「いま」として共有されている。引用しなかったが、詩の前半に登場する「伊予生まれの女友達」もまた、イタドリを調理・保存していた。「くらし」は「個人」の時間を超越するものなのである。そして、「歴史」になるのである。
ふたつめ。高橋は札所を巡拝している。巡拝という行為も、それぞれ「個人」のものであるけれど、同時に、そういうことをしてきた人々(個人を超えるつながりとしての、人間の「いのち」)によって共有されてきたものである。そういう行為のなかで、個人は個人でありながら、個人から解体されて、「いのち」のつながりのなかに溶け込んでしまう。
女のくらし、巡拝といういのりの「いのち」のつながり。それが、高橋から「個人」の時間を忘れさせる。「いのち」によって「共有」される悠久の時間を目の前に出現させる。その時間のひろがりに吸い込まれて、「個人」の時間が消え去れり、「個人」を基本にした時間が狂うのである。
この「乱れ」を、私は、否定しているのではない。肯定したい。
個人が解体され、「いのち」に飲み込まれる。--そこから、この詩は、もう一度大きく変化する。
疲れた虎二ひき
杖をつき 鈴を鳴らして
山門にはいる
人間の、つまり高橋と連れのふたりの「いのち」は人間という形を解体され、別のものになる。「虎」に。
なぜ、虎?
イタドリを見たからである。イタドリは「虎杖」と書く。その文字のなかに「虎」がいる。そして、「杖」もある。ふたりは「杖」をついて巡拝している。「杖」には「虎」がふさわしいのである。
何かに出会って、自分が解体し、生まれ変わる。そして、そのとき「未来」ではなく、過去も未来もない「悠久」の時間が、ただ時間として、目の前に出現する。
こういう哲学を、高橋は「頭」ではなく、「肉体」で書いている。だから、とても愉しい。とても説得力がある。笑いながら、ちょっと、ちょっと、高橋さん、あなたの論理間違っていますよ、とちゃちゃを入れたくなる。ちゃちゃをいれると、高橋の論理が、間違うことで、正解ではたどりつけない「真理」にふれていることがわかる。こういう、矛盾した体験が、私は、とても好きだ。そういう体験をさせてくれることばが、とても好きだ。
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