詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

高橋順子「虎杖」

2009-03-27 13:39:45 | 詩(雑誌・同人誌)
高橋順子「虎杖」(「葡萄」56、2009年04月発行)

 高橋順子「虎杖」は、後半が突然おもしろくなる。四国八十八ヶ所を巡拝中に、イタドリをかかえて歩いてくる女たちに出会う。

「前神寺(まえがみじ)はどこでしょう」
とたずねると
「聞いたことはあるけど。わたしらは隣りの町から来たので」
と言う
隣りの町の虎杖の在処は知っていても
札所は知らないのだ
それはそうだ
札所が出来るよりも前に 野に
虎杖は生えてきていたのだもの
歩きだすと 虎杖のすぐ隣りに前神寺はあった
疲れた虎二ひき
杖をつき 鈴を鳴らして
山門にはいる

 途中に、奇妙な論理がでてきて、そのことに高橋は納得している。自分の論理だから納得するしかないのかもしれないけれど。奇妙というのは、

隣りの町の虎杖の在処は知っていても
札所は知らないのだ
それはそうだ
札所が出来るよりも前に 野に
虎杖は生えてきていたのだもの

 である。たしかにイタドリは札所よりも前に存在する。古くから存在するものは、それだけ知られる確率が高い。札所はあとからできたのだから、まだ、存在が存在として認められていない。存在が存在として認められるには時間がかかるのだ。
 --というのは、悠久の時間をみすえた、深い哲学である。
 というのは、真実らしく見えるけれど、とんでもない「嘘」である。
 ひとりの人間が誕生する。たとえば、この詩ではイタドリをかかえる女。彼女が誕生したとき、札所もイタドリも、すでに存在していた。どちらが「古い」ということはいえない。女の、実際の「いのち」の時間を基準にすれば、札所より前にイタドリが存在したのだから、古くからあるイタドリの生えている場所は知っていても、新しくできた札所の場所を知らないという論理は成り立たない。
 それなのに、高橋は、自分で発見した論理を納得してしまっている。
 なぜ?
 高橋が「現実」から逸脱したからである。
 高橋は「時間」を考えるとき、実際に「ひとり女が生きている時間」というものを忘れて、「人間」という「いのち」が生きている時間を「基準」として選びとってしまったからである。「個人」を逸脱して、「いのち」に直接触れたからである。
 「個人」の時間から、「いのち」の歴史へ逸脱したときにのみ、高橋の論理は有効である。
 なぜ、高橋は、そんなふうに論理を逸脱したのか。
 理由は二つ。ひとつめ。イタドリをかかえてあるく女、--それは、料理をする女、たべものをつくる女の時間へとつながっていく。そういう暮らしの時間は個人のものであるけれど、また、同時に歴史のなかで共有されてきた時間でもある。女の歴史は、いつでも「いま」として共有されている。引用しなかったが、詩の前半に登場する「伊予生まれの女友達」もまた、イタドリを調理・保存していた。「くらし」は「個人」の時間を超越するものなのである。そして、「歴史」になるのである。
 ふたつめ。高橋は札所を巡拝している。巡拝という行為も、それぞれ「個人」のものであるけれど、同時に、そういうことをしてきた人々(個人を超えるつながりとしての、人間の「いのち」)によって共有されてきたものである。そういう行為のなかで、個人は個人でありながら、個人から解体されて、「いのち」のつながりのなかに溶け込んでしまう。
 女のくらし、巡拝といういのりの「いのち」のつながり。それが、高橋から「個人」の時間を忘れさせる。「いのち」によって「共有」される悠久の時間を目の前に出現させる。その時間のひろがりに吸い込まれて、「個人」の時間が消え去れり、「個人」を基本にした時間が狂うのである。
 この「乱れ」を、私は、否定しているのではない。肯定したい。

 個人が解体され、「いのち」に飲み込まれる。--そこから、この詩は、もう一度大きく変化する。

疲れた虎二ひき
杖をつき 鈴を鳴らして
山門にはいる

 人間の、つまり高橋と連れのふたりの「いのち」は人間という形を解体され、別のものになる。「虎」に。
 なぜ、虎?
 イタドリを見たからである。イタドリは「虎杖」と書く。その文字のなかに「虎」がいる。そして、「杖」もある。ふたりは「杖」をついて巡拝している。「杖」には「虎」がふさわしいのである。

 何かに出会って、自分が解体し、生まれ変わる。そして、そのとき「未来」ではなく、過去も未来もない「悠久」の時間が、ただ時間として、目の前に出現する。
 こういう哲学を、高橋は「頭」ではなく、「肉体」で書いている。だから、とても愉しい。とても説得力がある。笑いながら、ちょっと、ちょっと、高橋さん、あなたの論理間違っていますよ、とちゃちゃを入れたくなる。ちゃちゃをいれると、高橋の論理が、間違うことで、正解ではたどりつけない「真理」にふれていることがわかる。こういう、矛盾した体験が、私は、とても好きだ。そういう体験をさせてくれることばが、とても好きだ。

花の巡礼
高橋 順子
小学館

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『田村隆一全詩集』を読む(37)

2009-03-27 00:49:25 | 田村隆一
 『水半球』(1980年)の最後の詩「肉眼論」には「目」ということばと「肉眼」ということばが出てくる。

 一八六六-六七年制作の「妹マリー・セザンヌの肖像」から、最晩年の「中折帽子をかぶった自画像(一九〇四-〇六年ごろのものと推定)にいたるまでの光と物質の油の世界は、ぼく自身から固有の目を奪って、肉眼の世界へ、ぼくを突きおとす。つまり、ぼくは、この「場所」に入るまで、肉眼でものを見ていなかったのだ。

 セザンヌの絵を見た時の衝撃。
 「ぼく自身から固有の目を奪って」とは、「ぼく」が知らず知らずのあいだに身につけてしまった「ものの見方」のことであろう。私たちは誰でもそうだろうけれど、自分自身の目でものをみると同時に、人間の歴史が作り上げてきた「ものの見方」にしたがってものを見る。人間が積み上げてきた「ものの見方」にしたがって「もの」を見て、そしてそれが「芸術」かどうかも判断している。つまり、「芸術」と「定義」された美に、いま、目の前にあるものが合致しているかどうかを見ている。ある種の「基準」にしたがってものを見ている。
 セザンヌは、そういう「基準」を叩き壊す。その瞬間、「肉眼」があらわれる。

 この運動のありかたは、これまで見てきた田村のことばの運動にかなり似ている。
 田村は矛盾を書いた。それも止揚→発展(統合)という形の運動を引き起こす矛盾ではなく、ただ互いを破壊する矛盾を。矛盾がぶつかりあい、叩き壊しあい、破壊されて、混沌が残るという矛盾を。
 そのとき、混沌とは、それまでの「基準」をうしなった状態--まだ基準ができていない世界のことなのである。「基準」がないということは、どんな「ものの見方」をしようが「自由」ということである。どんな「ものの見方」にしたがって、何を生成させようと「自由」である、ということだ。
 「肉眼」とは、「基準」から解放された「いのちのまなざし」のことである。「いのちの目」のことである。

 ここでは、肉眼が強制される。なんという歓ばしい強制! その強制によって、ぼくは自由になる。ぼくの全身は肉眼そのものになるのだ。

 「強制」と「自由」が、ここでは同じものになる。「強制」は「ものの見方」を破壊するという「強制」だからである。それまでの「ものの見方」を放棄せよ、という「強制」だからである。「こういうものの見方をしろ」とセザンヌはいうわけではない。ただ、それまでの「ものの見方」の基準を叩き壊すひとつの「例」を提示するだけなのである。
 それに触れて、田村は、「肉眼」そのものになる。

 このあとが、田村の真骨頂である。「肉眼」になるとは、どういうことか。それを、次のように言い直している。

どの空間からも、音がきこえてこない。

 「肉眼」になった瞬間、「耳」も失うのである。そういうことばがあるかどうかわからないが「目」が「肉眼」になったと、「耳」は「肉耳」になる。「舌」は「肉舌」になる。「鼻」は「肉鼻」になる。つまり、それまでの「基準」にしたがって音を聞いたり、味を味わったり、においをかいだりすることはできなくなる。「基準」をうしなった「肉体」(肉の全身)になってしまう。「肉」がからだの「基準」になる。すべての「仕方」を破壊されて、うまれたときのままの、「いのち」そのものになる。
 目の変化は耳の変化でもあるのだ。

 これは、実は、この作品の最初に書かれていることでもある。

 この「場所」に、一歩足をふみ入れたら、その瞬間から、ぼくは耳を失った。舌も、鼻孔も失った。ぼく自身の感度の悪い目さえも失ってしまうのである。

 絵に触れて、まず目からではなく、耳から失う。舌も鼻孔も失う。そういう喪失のあとで、「目さえ失ってしまう」と順序が逆に書かれている。
 これは、とても重要なことだ。
 論理的に考えれば、まず目が目であることを否定され、「肉眼」になる。それにつづいて(影響されて)、この器官が「肉」になる。「いのち」になる。それが自然なことに思えるが、真の衝撃というのは、そういう順序ではやってこない。
 理解を超えて、突然、襲って来る。
 ほんとうは目→耳→舌→鼻という順序かもしれないが、衝撃が強すぎると、その順序が意識されない。それだけではなく、いちばん衝撃を受けた目が、必死になって体制を立て直そうとするため、その抵抗のために、目はまだ生き残っているというような錯覚が生じる。意識のなかで、「抵抗」が時間の順序をかえてしまうのだ。意識を錯覚させてしまうのだ。
 この混乱を、田村は、忠実に、正直にことばで再現しているのだ。

 そして、「肉眼」になってしまったあと、田村は驚くべき体験をしている。

 ぼくは、晩年の「人形をもつ少女」の前で立ちどまる。ブルーの色彩が抑制そのものと化して「形」をつくる。その力が、ぼくの肉眼をつくる。なぜ、少女の左肩はさがっているのか?

 「肉眼」は少女の左肩がさがっているのを発見する。でも、なぜ? それは、わからない。そして、それがわからないというとは、実は田村がセザンヌになってしまったということだ。田村が田村のままであるなら、いくらでも理由は見つけられるだろう。それまでの「基準」をひっぱりだしてきて、それを組み合わせ、何か「意味」を語れるだろう。けれど、それができない。田村自身の「基準」の完全な崩壊--その瞬間、田村はセザンヌの「肉眼」とつながる。
 そして、セザンヌの「肉眼」もまた、なぜ、少女の左肩がさがっているかはわからない。わからないから、絵を描いているのだ。
 詩人が、何かわからないものがあるからこそ(いままでの基準でとらえられないものがあるからこそ)ことばを動かすように、画家は、それまでの基準で描けないものがあるからこそ、絵を描くのである。


青いライオンと金色のウイスキー (1975年)
田村 隆一
筑摩書房

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