詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ベント・ハーメル監督「ホルテンさんのはじめての冒険」

2009-03-21 18:22:45 | 映画
監督 ベント・ハーメル 出演 ボード・オーヴェ、モリー(犬)

 とても不思議な映画である。特急の運転士が定年を迎える。それまで規則正しく暮らしていたのに、その定年の朝、運転すべき列車に乗り遅れる。そして、仕事をなくしたあと、何人もの人に出会い、そのたびに、少しずつ生活がずれていく。
 --と書いたが、正確には、最後の仕事の1日前の晩、定年パーティーからずれはじめる。(パーティーでの、運転士仲間の「しゅっしゅっぽっぽっ、ぼー」が傑作である。そのあとの、身内にしか通じないクイズ合戦とかも--ということを書きたくて、この文を書いている。)
 あすも仕事があるのは承知なのに、パーティーの後の二次会。会場にたどりつけずに、同じアパートの別の部屋に紛れ込み、出会った子どもに眠るまで見ていて、なんて頼まれて、そのまま寝過ごしてしまう。この子どものとのやりとりが象徴的だが、この映画の主人公は自分から何かをするというより、他人に頼まれると(言われると)、それにずるずると引っぱられる感じで、生き方がずれていくのである。
 とても奇妙だけれど、それがとても自然に見える。
 ひとつには北欧(映画は、ノルウェー)の「個人主義」が、アメリカやフランス、イギリスとは違うからだろう。なんといえばいいのか、過度の「しつこさ」がない。「友情」の押し売りがない。レストランといえばいいのか、酒場といえばいいのか、主人公が出入りする飲食の場があるが、そこに来ている客はぽつんぽつんと離れている。座っている場所はいつも同じ。互いを知らないわけではないのだろうけれど、口をきいたりはしない。(アメリカ映画なら、全体、それぞれがファーストネームで呼び合う。イギリス映画、フランス映画では知らん顔はするかもしれないけれど、この映画のように、互いに距離をとっては座らない。)それぞれが自分のペースで暮らしている。まるで、列車のように、規則正しく……。高福祉、高負担という暮らしのなかで、すべてがつましくなっているという感じがとても強い。あらゆる暮らしに「むだ」がない。だからといって「貧乏」というのでもない。余分なことをしない--という姿勢が、人間関係にまでおよんでいるという印象である。
 主人公の冒険(?)は、夜のプールで泳いでいたら男女が二人ヌードで泳ぎはじめたとか、サウナで靴を間違えられ(?)ハイヒールをはいたりとか、目隠しドライブにつきあわされたりとか、主人をうしなった犬をひきとったりとか、まあ、どうでもいいようなことばかりである。
 そのどうでもいいことばかりを、つまり余分なことを、余分なことをしないスタイルの映像でみせていくところに、この映画の味がある。(映像の情報量は、非常に少ない。アメリカ映画なら、こういう映画でも非常に情報量が多い。たくさんのもの、ファッション、車、食べ物、町の風景……が大量にあふれる。)シンプルな映像なので、そのひとつひとつがいつまでも記憶に残る。主人公の住んでいるアパートの壁の青の冷たい感じとか、目隠し運転の男の家の冷蔵庫の中のずらりと並んだビンとか。ほとんど無表情、演技しない犬とか。(この犬は、カンヌで「パルム・ドック特別賞受賞)
 演技しないのは、犬だけではなく、誰もが過剰な演技をせず、むしろ演技をしないことで、人間そのものを、その人の感性・思想をにじませる。はじめて見る役者(見たことのある役者もいるかもしれないけれど、有名ではない)ばかりなのに、ひとりひとりがとてもなつかしい、不思議な親しみにあふれているのは、余分を排除しているからだろう。
 余分なものを排除すると、人間は美しくなるのだ。
 最後の最後に、主人公は、目隠し運転の男の持っていた「隕石」をポケットに、はじめてのスキージャンプに挑み、そのあと、「きてね」といった女の元へ行くのだが、定年後の恋であるから、燃えるような恋でもないのだが、そのたんたんとした感じがほんとうにおもしろい。そして、とても美しい。ほっとする美しさにあふれている。
 質素に、自分の好きなことだけをやって生きていく、やりたいことをやるのに遅すぎることはない--そんなことを感じる映画である。そして、人間はだれでも美しくなれるということを信じさせてくれる映画である。

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瀬尾育生「はじめて選考に参加して」、高貝弘也『子葉声韻』

2009-03-21 12:03:17 | 詩集
瀬尾育生「はじめて選考に参加して」、高貝弘也『子葉声韻』(「樹木」27、2009年03月13日発行)

 瀬尾育生「はじめて選考に参加して」は第39回高見順賞の選考経過について語ったものである。高貝弘也『子葉声韻』についてかたった部分。

 高貝詩集の受賞について、私は異議はない。文字・音・像の秘儀に参入する、資質に根ざしたまっすっぐで清潔な探求の達成点として、これはだれにも文句の付けようのない詩集である。だがあえていえばと、クリティカルな位置に立つものに対しては毀誉褒貶があるのがふつうなのに、人々がこれほどに、文句の付けようがない、という感じを持つのは、この詩集がどこかで、いわば工芸品のような受け止め方をされているからではないか、という印象が残った。

 この批評に、私は、ほっとした。不思議な安心感を覚えた。
 私は高貝の詩が好きである。何度も感想を書いた。今回の詩集も感想を書いた。けれど、私は今回の詩集には違和感を覚えた。それは、もう、高貝の詩集はおもしろい、と言わなくてよくなってしまった、という違和感である。それまでは、高貝の詩集はこんなにおもしろい、ことばの動きがこんなにおもしろい、と宣伝(?)したくてしようがなかったが、今回はそういう高ぶりを感じなかった。そして、それは高貝の作品のせいではなく、実は、私自身の変化だったと気がついた。
 瀬尾のことばによって、自分自身が変わってしまっていることに気がついた。

 私は、高貝のことばを、ことばの運動というよりも、完成された工芸品--完璧な伝統工芸品と見るようになってしまっている。
 それも、琳派の工芸品をみるというよりも、そういう場から距離をおいて、ひっそりと息づいている、いわば「わび・さび」のような、静かな工芸品である。豪華なもの、目を驚かすようなものから距離を置いているけれど、その距離の置きかたで、逆に目を洗い流すようなもの。どこかに置いてきてしまったことばの、静かな静かな息づかい。その静かさで、静かさにどれくらいの静かさの音があるかを聞かせる--というより、耳の感覚を洗い流し、目覚めさせるような息。息そのものの、ゆらぎ。
 このとき、息は、「生きる」の「生き」であり、生きる「領域」の「域」であり、その「域」をさししめすことのできる「粋」なるものの本質である。
 --そんなふうに見る視点が、私のなかに出来上がってしまっている。
 私のなかにできあがっている視点を叩き壊して、もう一度高貝を読んでみようという気持ちに、私はなれなかった。そして、そこにある高貝の詩集に、とても満足してしまった。ああ、いいものを読んだ。いいことばを見た。という印象が残ったのである。
 もちろん、そういう印象を残す詩集は非常にすばらしいのであるが、そのすばらしさに対して、私は、どこかで、ことばを放棄してしまっていた、ということに気がついた。

 高貝のことばに対して、私はどんなことばで向き合えるか--そのことを、瀬尾のことばは、唐突につきつけてきた。つきつけられていることに気がついた。



 どんなことばで向き合えるか。「子葉声韻」の一部が「樹木」に抜粋されている。

遠浅の子が まだここに、
         ぬれ濡(そぼ)っている
  未生以前の、父母のむくろをさがして

 たとえば、この1連。「遠浅」と「ぬれ濡っている」の響きあいに、私は、悲しみと安心を覚える。「遠浅」だから子どもは安心してそこにいることができる。そして、その子どもを安心して見ることができる私がいる。これが荒磯でぬれ濡っているのだったら、荒い波のしぶきを被っているのだったら、安心はできない。危ない、と叫んでしまう。悲しみへとこころは動いては行かない。ま
 た、「ぬれ濡っている」という音のなかにある貧しさ(?)、暗さのようなものが「まだここに」の「まだ」とも響きあうのを感じる。そしてそれが、死んでしまった父母のむくろをではなく、「未生以前の、父母のむくろ」という虚を悲しみを事実としてささえているのを感じる。
 「そぼる」という音のなかにある「ぼ」が「ふぼ」の「ぼ」と重なり、また私には「むくろ」の「む」とも「ろ」とも、いや「む」と「ろ」の響きにも重なる。さらに私の耳に聞こえた感じを言い直すと、「む・く・ろ」というときの音の「く」は私のなかでは「K+U」ではなく、「K」のみである。「むくろ」を私は「MU・K・RO」と発音する。あるときは、「K」は沈黙のなかへ消えてしまう。「む(沈黙)ろ」なのである。その音は「ぼ」ととてもよく響きあう。「ぼ」だけではなく「そ・ぼ・る」という音と通い合う。
 こうした音の操作を、高貝はとても意識していると感じる。音の響き、「むくろ」の「く」のように沈黙のなかに消えていく音を正確に聞き取り、再現する繊細な感覚--そういうものを日本語の動きそのもののなかからていねいにすくいだしているのを感じる。

 --だが、こんなふうにあらためて感想を書いてみて、やはり、高貝のことばを「工芸品」のように見ていることに気づいてしまう。どんなふうに読めば、高貝を「工芸品」から切り離し、「いま」「ここ」と結びつけることができるのか。
 そんなことを、瀬尾から大きな問題として提起されたようにも感じた。


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『田村隆一全詩集』を読む(31)

2009-03-21 00:15:55 | 田村隆一
 「ジム・ビームの思い出--恐怖にかん照る詩的エスキス」のなかに、ことばと「他者」に関する表現が出て来る。田村の詩「恐怖の研究」を英語に翻訳する。サム君と「恐怖」の訳語をどうするかで話し合った。サム君はhorrorと訳し、田村はfearにこだわった。

辞典をめくってみたら
類語がたくさんでてくるではないか
dread fright alarm dismay terror panic……
力は他者に向かって水平に働く
その力が科学とその組織をつくり出し
平和も戦争も死語にしてしまった
水平に働く力は
人間の言語を死語にするのだ
美しい死語に
言語はたちまち抽象化されて
記号になる
この過程にもしfearがあるとすれなら
人間の五感ではとらえられないところに
言語は結晶化されて
透明になって行く そして記号が記号を産み
その増殖作用によって
ぼくは「ぼく」でなくなるのだ
その結果として
 horrorがあらわれる
 horrorの効果があらわれる
 horrorの効果を精密に計算する集団があらわれる

 「他者」と「水平」。
 私はこれまで、田村は「他人」に触れることで田村自身を洗い直す、と書いてきた。
 ここに書いてある「水平」は、「洗い直す」力とは逆である。洗い直す代わりに、田村を(人間を)傷つけない「回路」をつくる。「他人」を、そして「自分」を傷つけないで関係をつくるためにさまざまなことばが選ばれる。それは入り組んだ「回路」を水平にひろげていく。その水平に広がることばの回路のなかで、ことばはことばの力を失い--つまり、自分自身さえもかえる、そうすることで世界をかえるという力を失う。そういうことを「抽象化」と呼んでいる。

 では、「他人」が田村を洗い直す--と私が書いてきたことは、間違っていたのか。「他人」とは田村を洗い直さないのか。

 たぶん、こういう「定義」は、もっと精密にしなければいけないのかもしれない。「他人」「他者」ということばを田村がどんな文脈でつかってきたかを丁寧に分析しなければならないのかもしれない。私が、「他人が田村を洗い直す」と書いた時、私は「他人」という表現を私自身の「辞書」のなからひっぱりだしてきた。私が「他人」というときと、田村が「他者」という時は、その指し示すものが違うのである。

 先の引用につづく部分。

力が自己にむかって垂直に働くとき
ぼくは夢からさめる
あるいは
あたらしい夢
創造的なfearの世界に入って行くことになる

 「水平」と「垂直」。「他者」ということばと結びつけてみるとき、「水平」が「他者」であり、「垂直」は「他者ではない」--というわけではない。「他者」のなかには「垂直」の力として働きかけて来るものと、「水平」の力として働きかけて来るものがあるということである。「垂直」の力として働きかけて来るものが「他人」である。それは田村を洗い直すのだ。「洗い直す」とはそれまでの「水平」の回路が取り払われ、もし田村が「他人」と関係を構築するなら、あたらしい回路を自分の奥深くから(垂直に掘り下げた「いのち」の原点から)もういちど再出発しなければならない、ということを意味する。
 この瞬間のことを、田村は、とても興味深いことばであらわしている。

ぼくは夢からさめる
あるいは
あたらしい夢

 「あるいは」。「夢からさめる」と「あたらしい夢」へ入っていくこと--それは矛盾である。ところが、田村は、それを矛盾と考えていない。なぜか。どちらも、自分を洗い直し、自分ではなくなるという運動、ベクトル(→)だからである。
 いま、水平にひろがっている回路を叩き壊し、あたらしい回路を、人間の「未分化」のいのちからの回路をつくる(創造する)ことだけが「真実」なのである。それが、どっちの方向を向いていても、水平ではない、水平を叩き壊すという運動として同じなのである。そして、それは確立されものではないから、だから「あるいは」としか言いようがないのだ。

 ことばを「流通するための回路」、「水平の道」として「他者」と共有するのではなく、そういう言語を破壊し、まだどんな回路も持っていない「他人」と直接出会う。そういう出会いのために、いま流通している言語を破壊する(徹底的に批判する、批評する)行為としての詩。現代詩。
 この詩は、ある意味で、田村の「現代詩宣言」でもある。

 恐怖はfearかhorrorか。--その「決着」はここにはない。田村は、ここでは、ことばが「他者」とのあいだにどんなふうにして存在するか、田村自身が求めていることばがどんなものであるかをあらためて書いているだけである。そして、その考えのきっかけとなったのは、「サム君」という田村以外の人間であった。そういうきっかけとなに人間は「他人」である。しかしまた、その「他人」は田村の言語の冒険を否定する「他者」ともつながっている。
 「他者」はあるとき「水平」の力として働き、あるときは「垂直」の力をひきおこすきっかけともなる。ことばというものが、自分以外の人間の存在を前提としているからである。自分以外の人間を変えるためには(社会を変えるためには、社会に流通する言語を帰るためには)、自分が変わる以外にない、自分自身の言語を変える以外にない--この遠回りの、逆説の運動。逆説の運動としての現代詩。「他人なんかどうでもいい、自分の、いまつかっていることばをかえたいだけ」というしかない逆説としての運動。逆説としての現代詩。

 いつでも、矛盾でしか言い表すことのできないものがある。



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