監督 ベント・ハーメル 出演 ボード・オーヴェ、モリー(犬)
とても不思議な映画である。特急の運転士が定年を迎える。それまで規則正しく暮らしていたのに、その定年の朝、運転すべき列車に乗り遅れる。そして、仕事をなくしたあと、何人もの人に出会い、そのたびに、少しずつ生活がずれていく。
--と書いたが、正確には、最後の仕事の1日前の晩、定年パーティーからずれはじめる。(パーティーでの、運転士仲間の「しゅっしゅっぽっぽっ、ぼー」が傑作である。そのあとの、身内にしか通じないクイズ合戦とかも--ということを書きたくて、この文を書いている。)
あすも仕事があるのは承知なのに、パーティーの後の二次会。会場にたどりつけずに、同じアパートの別の部屋に紛れ込み、出会った子どもに眠るまで見ていて、なんて頼まれて、そのまま寝過ごしてしまう。この子どものとのやりとりが象徴的だが、この映画の主人公は自分から何かをするというより、他人に頼まれると(言われると)、それにずるずると引っぱられる感じで、生き方がずれていくのである。
とても奇妙だけれど、それがとても自然に見える。
ひとつには北欧(映画は、ノルウェー)の「個人主義」が、アメリカやフランス、イギリスとは違うからだろう。なんといえばいいのか、過度の「しつこさ」がない。「友情」の押し売りがない。レストランといえばいいのか、酒場といえばいいのか、主人公が出入りする飲食の場があるが、そこに来ている客はぽつんぽつんと離れている。座っている場所はいつも同じ。互いを知らないわけではないのだろうけれど、口をきいたりはしない。(アメリカ映画なら、全体、それぞれがファーストネームで呼び合う。イギリス映画、フランス映画では知らん顔はするかもしれないけれど、この映画のように、互いに距離をとっては座らない。)それぞれが自分のペースで暮らしている。まるで、列車のように、規則正しく……。高福祉、高負担という暮らしのなかで、すべてがつましくなっているという感じがとても強い。あらゆる暮らしに「むだ」がない。だからといって「貧乏」というのでもない。余分なことをしない--という姿勢が、人間関係にまでおよんでいるという印象である。
主人公の冒険(?)は、夜のプールで泳いでいたら男女が二人ヌードで泳ぎはじめたとか、サウナで靴を間違えられ(?)ハイヒールをはいたりとか、目隠しドライブにつきあわされたりとか、主人をうしなった犬をひきとったりとか、まあ、どうでもいいようなことばかりである。
そのどうでもいいことばかりを、つまり余分なことを、余分なことをしないスタイルの映像でみせていくところに、この映画の味がある。(映像の情報量は、非常に少ない。アメリカ映画なら、こういう映画でも非常に情報量が多い。たくさんのもの、ファッション、車、食べ物、町の風景……が大量にあふれる。)シンプルな映像なので、そのひとつひとつがいつまでも記憶に残る。主人公の住んでいるアパートの壁の青の冷たい感じとか、目隠し運転の男の家の冷蔵庫の中のずらりと並んだビンとか。ほとんど無表情、演技しない犬とか。(この犬は、カンヌで「パルム・ドック特別賞受賞)
演技しないのは、犬だけではなく、誰もが過剰な演技をせず、むしろ演技をしないことで、人間そのものを、その人の感性・思想をにじませる。はじめて見る役者(見たことのある役者もいるかもしれないけれど、有名ではない)ばかりなのに、ひとりひとりがとてもなつかしい、不思議な親しみにあふれているのは、余分を排除しているからだろう。
余分なものを排除すると、人間は美しくなるのだ。
最後の最後に、主人公は、目隠し運転の男の持っていた「隕石」をポケットに、はじめてのスキージャンプに挑み、そのあと、「きてね」といった女の元へ行くのだが、定年後の恋であるから、燃えるような恋でもないのだが、そのたんたんとした感じがほんとうにおもしろい。そして、とても美しい。ほっとする美しさにあふれている。
質素に、自分の好きなことだけをやって生きていく、やりたいことをやるのに遅すぎることはない--そんなことを感じる映画である。そして、人間はだれでも美しくなれるということを信じさせてくれる映画である。
とても不思議な映画である。特急の運転士が定年を迎える。それまで規則正しく暮らしていたのに、その定年の朝、運転すべき列車に乗り遅れる。そして、仕事をなくしたあと、何人もの人に出会い、そのたびに、少しずつ生活がずれていく。
--と書いたが、正確には、最後の仕事の1日前の晩、定年パーティーからずれはじめる。(パーティーでの、運転士仲間の「しゅっしゅっぽっぽっ、ぼー」が傑作である。そのあとの、身内にしか通じないクイズ合戦とかも--ということを書きたくて、この文を書いている。)
あすも仕事があるのは承知なのに、パーティーの後の二次会。会場にたどりつけずに、同じアパートの別の部屋に紛れ込み、出会った子どもに眠るまで見ていて、なんて頼まれて、そのまま寝過ごしてしまう。この子どものとのやりとりが象徴的だが、この映画の主人公は自分から何かをするというより、他人に頼まれると(言われると)、それにずるずると引っぱられる感じで、生き方がずれていくのである。
とても奇妙だけれど、それがとても自然に見える。
ひとつには北欧(映画は、ノルウェー)の「個人主義」が、アメリカやフランス、イギリスとは違うからだろう。なんといえばいいのか、過度の「しつこさ」がない。「友情」の押し売りがない。レストランといえばいいのか、酒場といえばいいのか、主人公が出入りする飲食の場があるが、そこに来ている客はぽつんぽつんと離れている。座っている場所はいつも同じ。互いを知らないわけではないのだろうけれど、口をきいたりはしない。(アメリカ映画なら、全体、それぞれがファーストネームで呼び合う。イギリス映画、フランス映画では知らん顔はするかもしれないけれど、この映画のように、互いに距離をとっては座らない。)それぞれが自分のペースで暮らしている。まるで、列車のように、規則正しく……。高福祉、高負担という暮らしのなかで、すべてがつましくなっているという感じがとても強い。あらゆる暮らしに「むだ」がない。だからといって「貧乏」というのでもない。余分なことをしない--という姿勢が、人間関係にまでおよんでいるという印象である。
主人公の冒険(?)は、夜のプールで泳いでいたら男女が二人ヌードで泳ぎはじめたとか、サウナで靴を間違えられ(?)ハイヒールをはいたりとか、目隠しドライブにつきあわされたりとか、主人をうしなった犬をひきとったりとか、まあ、どうでもいいようなことばかりである。
そのどうでもいいことばかりを、つまり余分なことを、余分なことをしないスタイルの映像でみせていくところに、この映画の味がある。(映像の情報量は、非常に少ない。アメリカ映画なら、こういう映画でも非常に情報量が多い。たくさんのもの、ファッション、車、食べ物、町の風景……が大量にあふれる。)シンプルな映像なので、そのひとつひとつがいつまでも記憶に残る。主人公の住んでいるアパートの壁の青の冷たい感じとか、目隠し運転の男の家の冷蔵庫の中のずらりと並んだビンとか。ほとんど無表情、演技しない犬とか。(この犬は、カンヌで「パルム・ドック特別賞受賞)
演技しないのは、犬だけではなく、誰もが過剰な演技をせず、むしろ演技をしないことで、人間そのものを、その人の感性・思想をにじませる。はじめて見る役者(見たことのある役者もいるかもしれないけれど、有名ではない)ばかりなのに、ひとりひとりがとてもなつかしい、不思議な親しみにあふれているのは、余分を排除しているからだろう。
余分なものを排除すると、人間は美しくなるのだ。
最後の最後に、主人公は、目隠し運転の男の持っていた「隕石」をポケットに、はじめてのスキージャンプに挑み、そのあと、「きてね」といった女の元へ行くのだが、定年後の恋であるから、燃えるような恋でもないのだが、そのたんたんとした感じがほんとうにおもしろい。そして、とても美しい。ほっとする美しさにあふれている。
質素に、自分の好きなことだけをやって生きていく、やりたいことをやるのに遅すぎることはない--そんなことを感じる映画である。そして、人間はだれでも美しくなれるということを信じさせてくれる映画である。
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