詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

時里二郎「夏庭」

2009-06-11 09:32:57 | 詩(雑誌・同人誌)
時里二郎「夏庭」(「ロッジア」5、2009年05月31日発行)

 時里二郎「夏庭」の最後の文章がとてもおもしろい。時里の「思想」が凝縮している。

 わたしの話したように、庭師は写しとっていないかもしれない。しかし、仮に、庭師がわたしの語った内容とはまるきり違ったことを口述筆記として記したとしても、わたしは庭師の書き得たことばの方に、より近いわたしがいると思っている。

 「わたしの口述」の正確な転写ではなく、それが「まるきり違った」内容だとしても、「庭師」の「ことば(筆記)」をとおして再現されたものの方が、「わたし」に近い。他人のことばをくぐり抜けたものの方が、「わたし」の本質をつかんでいる。
 このことは、ことばは他者をくぐることで正しいもの(正確なもの)になる、ということを物語っている。時里はそう信じているからこそ、ことばをさまざまなものをくぐらせて展開する。たとえば、この「夏庭」という作品は「植物図鑑」をくぐりぬける。「庭師」をくぐりぬける。「夏庭」というプログラムをくぐり抜ける。「ヒト標本」という意識をくぐりぬける。そうすることで、複雑に構造化されながら、純粋化をめざしている。「純粋」というのは「本質」のことでもある。いくつもの「構造」をくぐり抜け、いっそう「構造化」される。そのとき「構造」は複雑になるのだが、その反動(?)のようにして、「複雑な構造」をくぐりぬける「純粋」さをもった「ことば」残る。いくつもの「構造」をくぐりながら、新しい「構造」を作り上げるのは、実は、「ことば」をより「純粋」にするための運動なのである。「純粋」すぎて、透明になり、何も見えなくなる。「ことば」がその領域に達するまで、時里は「ことば」を動かしつづける。
 「純粋さ」が「わたし」なのである。
 だから、「ことば」が何を語っているかは問題ではない。「内容」が「まるきり違った」としてもまったく問題はない。

 というような、「内容」は、実は、どうでもいい。「思想」とは「内容」ではなからだ。

 時里の「思想」は、繰り返される「わたし」と「庭師」の、その「繰り返し」のなかにある。
 「夏庭」の最後のたったと3行のなかに、「わたし」と「庭師」は何回でてくるだろうか。なぜ、時里は何回も「わたし」と「庭師」を繰り返すのか。繰り返されるとき、最初の「わたし」と次の「わたし」は同一だろうか。最初の「庭師」と次の「庭師」は同一だろうか。少しずつ違っている。
 「わたし」だけについて書いてみる。
 「わたし」を語る「わたし」。語られた「わたし」。その「語られたわたし」を筆記したことばのなかの「わたし」。語る「わたし」から、筆記されたことばのなのか「わたし」までの間に、「わたし」は少しずつ変化する。「ことば」は「わたし」の全体ではなく一分だから、どうしても「ずれ」が含まれる。あるいは何かが省略されて欠落する。「わたし」は「わたし」ではなくなる。
 けれど「わたしではなくなる」ということを含めて、つまり「なくなったわたし」を含めて、そこには「わたし」の痕跡が「ある」。
 この「ある」を時里は「いる」と言う。「より近いわたしがいると思っている。」という文章のなかの「わたしがいる」の「いる」。
 「ある」から「いる」への変化。それが時里の「思想」なのだ。

 別な角度から言い直してみよう。
 最後の3行は、実は、微妙な文法の逸脱を含んでいる。「ことばの方に、より近いわたしがいる」という表現は、論理的には奇妙である。「わたし」は「いま・ここ」に「いる」。ふつう、「いる」はそういうふうにしてつかう。「ことば」のなかに「わたし」が「いる」というのはレトリックである。「わたし」は「ことば」のなかになど「いない」。そういうことろに人間は存在し得ない。「ことば」のなかに存在するのは「肉体」ではなく、「わたし」の「意識」の「動き」である。時里の最後の文章をあえて論理的に書き直せば、

庭師がわたしのの語った内容とはまるきり違ったことを口述筆記したとしても、そのことばのなかのわたしの方が、わたしにより近い存在で「ある」と、わたしは思っている。「いま・ここ」に「いる」わたしよりも、ことばのなかの「わたし」の方が、より正確で「ある」と思っている。

 時里にとって、正確で「ある」ことが、「いる」ことなのである。

 最後の3行の、ふたつの文をつなぐ、「しかし、仮に」。
 この接続しと仮説を導くことばこそ、時里の「思想」の核かもしれない。先行することばをそのまま肯定するのではなく、「しかし」とつなぐ。常に「逆」の方向へ動く。「逆」ではないにしろ、いままでとは違った方向へ動く。そして、その動きを「仮に」とありありえないことばで励ましながら動かす。そうすると、そこに、いままでとは違ったものが出現する。違ったものがあらわれる。「ある」が生じる。その「ある」をことばをつみかさねることで「正確」にする。そして、その運動には限界がない。どんなことにでも、「しかし、仮に」ということばをつづけることができるからである。「しかし、仮に」は、増殖していくだけの運動なのである。
 そして、その運動の中で、--ことばを吐き出しつづけることで、ことばがどんどん「純粋」になる。どんな複雑な動きであっても、なんのとどこおりもなく動いていける「純粋」なもの、「透明」なものになる。そんなふうに、ことばは鍛えられていく。そして、ことばが完璧に「純粋」「透明」なものになったとき、そこに「ある」ものは同時に「純粋」「透明」になり、消えてしまう。あらゆるものが、ことばの「純粋」さ、「透明」さのなかに消えてしまう。そして、「わたしがいる」ということだけが残される。
 「わたし」の「考え」はこれこれで「ある」、ということが意味をなくしてしまう。ことばで語られた「考え」は「考え」としてどれも「同質」である。優劣もなく、同じ「純粋」を競っているだけである。
 「わたし」は「いる」という現象しか残らなくなる。
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『田村隆一全詩集』を読む(112 )

2009-06-11 00:27:11 | 田村隆一
 「目撃者」は複雑な詩である。

かたかたと鳴つていたつけ 石が
固い表情を崩さずに待つていたつけ 僕が
石の中で不意に動くおまえの眼
かつて僕のものであつた正確な眼が いまでは逆に僕を狙う

 ここに登場する「おまえ」と「僕」の関係が複雑なのである。「おまえの眼」は「かつて僕のものであつた正確な眼」である。「おまえ」と「僕」はどこかでつながっている。重なっている。そのことが、この詩を複雑にしている。
 「僕」と「おまえ」がつながっていること、重なっていることは、次の行でもはっきりする。

僕が倒れる そこでおまえが僕の背中を抜けていくという仕組なのだ

 「おまえ」は「僕」のなかにあって、「僕」が倒れたとき「僕」から「抜けていく」、つまり出て行く。「おまえ」は「僕」にとっての「真実」なのである。だからこそ、

どうかおまえが考えるように僕にすべてが感じられるように

 という行も生まれる。
 この詩を複雑にするのは、さらに、別の「男」が登場してくるからである。それは「僕は何かを書いているのかも知れない 不眠の白紙をひろげて」というときに、あらわれる。書いているとき、あらわれる。もうひとりの「僕」ということになるかもしれない。
 そして、その「もうひとり」の「僕」である「男」は、さらに別の人間を引き寄せる。

どれもこれも見飽きた眺めだね その男は窓を閉めながらぼそぼそ呟きはじめる
あいつにしたつてそうだ 男は同じ調子でつづける
あいつとは一体誰のことだ 僕は思わず反問する
狙われているのです あいつは しかし或いは…… 男は僕に背中をむけたまま口ごもる
何のことだ 君は何を言おうとしているんだ 訳もなく僕は苛立ちはじめる
私には言えない 何も語れない 瞶めることです あなたの眼で!

 「あいつ」「君」「私」(引用のあと「わたし」も登場する)の関係は? そして、それと「僕」と「おまえ」の関係は?
 複雑にしたまま、もう一度、それが複雑になる。

窓の外で僕は立ち止まる
窓の内側のあの二人の男たちは何を話しあっているのだ
ここでは彼らの言葉が聞こえない

 「僕」は部屋の中で「何かを書いていた」のではないのか。いつの間にか、「僕」が入れ代わっている。そんなふうに、簡単に入れ代わるのなら、それまでの「ぼく」「おまえ」「あいつ」「男」「君」「私」「わたし」も入れかわっているかもしれない。
 でも、入れ代わるとは、どういうことだろう。

おまえの手は震えている だがおまえの眼だけは正確だ
僕は信じる 狙いは決して誤またず一分の狂いも生じまい そういう確信がかえつておまえの手を震わせる
何事が起こらねばならぬ いまは引金をひく時だ
見たまえ!
男は窓際まで歩いてくる 男がもう一人の男に重なる瞬間を待つがいい
最上の瞬間! 美しい幻影が僕の背中を過ぎ去らぬうちに捕えること
僕は信じるだけだ かつて僕のものであり いまではおまえのものである正確な眼を

 「男がもう一人の男に重なる」の「重なる」。「入れ代わる」のではなく、「重なる」のだ。そして、その重なったものを一気に破壊する。
 向き合うもの、たとえば「僕」と「おまえ」。その向き合いかたを「矛盾」と読み替えると、田村の考えていることがわかる。向き合っている「僕」と「おまえ」は、向き合うことで、いっそう「向き合う」かたちを増やしていく。「僕」も「おまえ」も増殖する。その分裂(?)を増殖させるのではなく、「重ねる」。そして、それを一気に狙撃する。破壊する。そのとき、何かがはじめて生まれるのだ。
 そして、その「狙撃」につかわれるのが、「石」、つまり「肉眼」である。すべての「僕」、「僕」から増殖するすべての人間を「重ね」、否定する。そのあと「肉眼」だけが残る。
 田村は、その「肉眼」を熱望している。





5分前 (1982年)
田村 隆一
中央公論社

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