「失楽園」は複数の詩で構成されている。その最初の「世界開闢説」の1連目。
化学教室の背後に
一個のタリポットの樹が音響を発することなく成長してゐる
白墨及び玉蜀黍の髭が振動する
夜中の様に もろもろの泉が沸騰してゐる
人は皆我が魂もあんなでないことを願ふ
人は材木の橋を通過する
ゴールデンバットをすひつつ
漢語(熟語)がたくさん登場する。なぜ、漢語(熟語)なのだろう。リズムが関係しているのだと私は思う。漢語(熟語)の方が、音そのものとして輪郭が強いのだと思う。その輪郭の強さが、音を印象づけるのだと思う。
「化学教室の背後に」と「化学教室の後ろに」を比較すると、前者の方が音が響きあう。「化学」と「背後」の濁音の呼びかけあいが楽しい。「後ろに」は、私には読みにくい。(実際に声に出して感じるのではなく、頭のなかでの感想だが--私は、音読をしないので。)
一方、「化学教室の後ろに」というのは、もともと変な(?)表現であるようにも思う。「化学教室の背後に」という表現にひきずられて、思わず「後ろに」と書いてしまったが、普通はどう書くのだろう。どう言うのだろう。私なら「化学教室の裏に」と書く。言う。
「背後に」は「後ろに」の言い換えではないのだ。
あることばを、単に漢語(熟語)に置き換えて書いているのではなく、西脇は、音そのものに耳をすまして、そのうえでことばを選んでいるのだ。
だから、「音響」は「音」「響き」の言い換えではないかもしれない。「成長」という単純なことばも何か違ったことばの言い換えかもしれない。そもそも、成長を、和語・やまとことば(?)に言い換えると、どうなる?
「振動」「沸騰」は?
意味ではなく、音が優先されてことばが動いている。
漢語(熟語)が多用されるのに、なぜか、「人は皆我が魂もあんなでないことを願ふ」には、漢語がない。だから、とても印象に残る。ふいにことばがかわった、転調したという感じがする。
次の行の、「材木」「通過」も傑作である。どれも日常的なことばではあるけれど、普通はそんなふうにはいわないだろう。わざと漢語にしている。「魂」などということばにふれてしまったことばを、わざと「おおげさなことば(あるいは、異質なことば)」をくぐらせることで軽くしているのだ。
そして、軽くなったところで、さらにそれを加速させる。
ゴールデンバットをすひつつ
私はたばこを吸わないけれど(吸ったことがないけれど)、このゴールデンバットという音の響きはとてもいい。気持ちよく感じる。「セブンスター」などでは絶対でない味がある。濁音がのばす音、つまる音を口語にひきつれてはじける。それはなぜか漢語(漢字熟語)の音に似ている。カタカナなのに、私はどこかで「漢字」を探してしまう。
西脇の「音」はほんとうに不思議だ。
西脇順三郎絵画的旅新倉 俊一慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |