詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(14)

2009-06-29 12:34:35 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「失楽園」は複数の詩で構成されている。その最初の「世界開闢説」の1連目。

化学教室の背後に
一個のタリポットの樹が音響を発することなく成長してゐる
白墨及び玉蜀黍の髭が振動する
夜中の様に もろもろの泉が沸騰してゐる
人は皆我が魂もあんなでないことを願ふ
人は材木の橋を通過する
ゴールデンバットをすひつつ

 漢語(熟語)がたくさん登場する。なぜ、漢語(熟語)なのだろう。リズムが関係しているのだと私は思う。漢語(熟語)の方が、音そのものとして輪郭が強いのだと思う。その輪郭の強さが、音を印象づけるのだと思う。
 「化学教室の背後に」と「化学教室の後ろに」を比較すると、前者の方が音が響きあう。「化学」と「背後」の濁音の呼びかけあいが楽しい。「後ろに」は、私には読みにくい。(実際に声に出して感じるのではなく、頭のなかでの感想だが--私は、音読をしないので。)
 一方、「化学教室の後ろに」というのは、もともと変な(?)表現であるようにも思う。「化学教室の背後に」という表現にひきずられて、思わず「後ろに」と書いてしまったが、普通はどう書くのだろう。どう言うのだろう。私なら「化学教室の裏に」と書く。言う。
 「背後に」は「後ろに」の言い換えではないのだ。
 あることばを、単に漢語(熟語)に置き換えて書いているのではなく、西脇は、音そのものに耳をすまして、そのうえでことばを選んでいるのだ。
 だから、「音響」は「音」「響き」の言い換えではないかもしれない。「成長」という単純なことばも何か違ったことばの言い換えかもしれない。そもそも、成長を、和語・やまとことば(?)に言い換えると、どうなる?
 「振動」「沸騰」は?
 意味ではなく、音が優先されてことばが動いている。

 漢語(熟語)が多用されるのに、なぜか、「人は皆我が魂もあんなでないことを願ふ」には、漢語がない。だから、とても印象に残る。ふいにことばがかわった、転調したという感じがする。
 次の行の、「材木」「通過」も傑作である。どれも日常的なことばではあるけれど、普通はそんなふうにはいわないだろう。わざと漢語にしている。「魂」などということばにふれてしまったことばを、わざと「おおげさなことば(あるいは、異質なことば)」をくぐらせることで軽くしているのだ。
 そして、軽くなったところで、さらにそれを加速させる。

ゴールデンバットをすひつつ

 私はたばこを吸わないけれど(吸ったことがないけれど)、このゴールデンバットという音の響きはとてもいい。気持ちよく感じる。「セブンスター」などでは絶対でない味がある。濁音がのばす音、つまる音を口語にひきつれてはじける。それはなぜか漢語(漢字熟語)の音に似ている。カタカナなのに、私はどこかで「漢字」を探してしまう。

 西脇の「音」はほんとうに不思議だ。


西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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水口京子「妊(はら)んだ蛇」ほか

2009-06-29 00:01:17 | 詩(雑誌・同人誌)

水口京子「妊(はら)んだ蛇」ほか(「どぅるかまら」6、2009年06月10日発行)

 水口京子「妊(はら)んだ蛇」は、一種の民話のような幻想。ことばの動きがやわらかい。前半部分。

にぶいうねり
うろこが艶めく
妊んでおるのかい
その胎に
児をば宿しておるのかい
そうやって
沼水の辺りを這いつづけて
ああ、おまえは
吾の児を妊んでおるのだな
いつかあのユメのうちに
おまえはわたしの白い胸の谷間に絡まりついて
乳をのむ仕草をしたよなぁ
幾度も。幾度も。

 夢の中の出来事が関係している。蛇は「わたし」の分身なのだ。身内なのだ。そのせいなのだろう、「おるのかい」「おるのだな」「したよなぁ」という気楽な口調でことばが動く。その響きの影響で、書かれている内容が異様であるにもかかわらず、ゆったりとした気持ちで読んでしまう。
 ほんとうは、「わたし」が「蛇」になりたいのだ。欲望が書かれているのだ。欲望だから、やわらかく伝えたいのである。

おまえたちは不可思議な生きモノだな
強い魂に感応して妊む
女に感応して雌が妊む
妊んだ蛇よや
乳のやり方を知っておるかい
うまれたら
連れてくるといい
この白い乳房を
おまえの児に授けてやろう
      ―――――――他言無用ぞ

 女の強い魂を妊娠し、出産したい。そのためになら「蛇」になる。そして、その生まれた強い魂を育てたい。女の強い欲望。「他言無用ぞ」がいい。自分に言い聞かせているのである。民話のような「語り」の世界に昇華させて、ゆっくりと「本音」をしのばせる。



 斎藤恵子の「音連れ川」にも「民話」のようなにおいがある。「るるっるるっ石が交叉するたび川が深くなっていく」の「るるっるるっ」がとても楽しい。水の力で石がまるくなっていく。そして、その丸くなるまでの長い時間のなかに、「女」の時間が堆積してゆく。長い時間のなかで、女も、水も、石も「るるっるるっ」という音の世界で溶け合うのだ。

わたしは手を合わせることも忘れ淵を覗く
ささの葉が舞いさがる
 ササブネ
 ササブミ
 サザナミ
女の子たちは振り向いて

わたしを見た
耳たぶをタニシに換え
しろい石あかい石ふるえている

 「音」を中心に、ササブネが違うものになる。「語り」の力である。「語り」は「騙り」かもしれないが、楽しい話ならだまされるのもいい。詩は現実ではなく、ことばの可能性なのだから。




無月となのはな
斎藤 恵子
思潮社

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