詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

池井昌樹+石井敬「ひらがなの調べ奏でる/心の最深部をつなぎたい」

2009-06-12 07:40:31 | 詩(雑誌・同人誌)
池井昌樹+石井敬「ひらがなの調べ奏でる/心の最深部をつなぎたい」(「東京新聞」2009年06月06日夕刊)

 東京新聞の石井敬が池井昌樹にインタビューした記事。そこに一か所、不思議なことばを読んだ。

 池井さんは「この年になって『死への自覚』が私の中で芽生えたことが、これまでの詩集と違う」と語る。

 『眠れる旅人』について語ったことばである。不思議なことば--というのは「死への自覚」ということばである。
 私は、10年ほど前(『晴夜』のころ)から、池井はもう死んでしまうのではないかと、ずーっと恐れている。ことばがどんどん透明になり、現実とつながるのではなく、この世ではない血とつながる。この世ではない血とつながることで永遠になるという感じがしたからである。
 私にとって、池井は特別な存在である。私が詩を書きはじめたときから、池井は詩人として存在していた。池井がいなかったら、私は詩を書いていないと思う。
 私がはじめて池井の詩を読んだのは中学生のときである。「雨の日の黄色い畳」だったか、なんだったか、よくは覚えていないが、雨の日の古い畳の部屋を描いていた。それは、とても古くさい感じがした。その古くささは、畳の古くささではなく、古い畳の向こう側の世界と通じていた。遠い遠い「過去」とつながっていた。当時は「昭和」であるけれど、「昭和」ではなく、「明治」とつながっている。そういう印象があった。
 この「いま」ではない時代とつながっているというのは、とても気持ちが悪い。そして、怖い。私は「怖い」というかわりに、いつもいつも、「池井の詩は気持ち悪い」と言い続けていた。
 それが『晴夜』で、印象がかわった。
 「古い時代」とつながっているのではなく、この世ではない「遠い血」とつながっている感じがしたのである。「遠いいのち」とつながっている気がしたのである。(そういうことを、私は『晴夜』の感想で書いたように思う。)そして、それは、私には、池井がこの世を去っていくときの「あいさつ」のように感じられた。
 私には、そのことがとても怖かった。
 だから、池井と話す機会があると必ず「まだ死んでいないのか」「まだ死なないのか」と、わざと口にした。「死」を現実よりも先にことばにすれば、「死」の方が「現実」に「死」があると勘違いして、私と池井の間に入ってこないような気がしたのである。

 池井は、いま、死への自覚が芽生えたと書いている。もしそうだとすると、詩人というのは、自覚よりもはるか昔から、知らないことを書いてしまう人間のことなのだろうと思う。


 

眠れる旅人
池井 昌樹
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(113 )

2009-06-12 00:50:54 | 田村隆一
 詩は論理ではない。だから、厳密に「意味」を追いかけても仕方のないところがある。詩人自身、ことばが引き寄せるものを「意味」を特定せずに「肉体」で引き受けている。そこには「意味」のようなものはあっても、厳密な「意味」はない。「意味」を超えるイメージの特権がある。
 「黒」。その後半。

速めろ! テンポを
屋上で風に吹かれながら男が叫んでゐる 全世界にむかつて
男の指令が階上を駈けまはる 部屋から部屋へ ドアからドアへ そして
あわただしく街から街へと……
おまへの指が僕の背中のドアをひらく!
どうか本当のことを言つてくれ 僕の階段は何処へ果てようとしてゐるのだ
重なつてくる おまへの唇が僕の唇に ああ この不眠都市!

 「重なる」。「唇」が「重なる」。それは、「ことば」が重なるということだ。「ことば」が重なれば、そのときから「僕」と「おまへ」(男)は区別がなくなるが、「重なった」から区別がなくなったというよりも、最初から区別などない。屋上で叫んでいる男は最初から「僕」だったのだ。「僕」からでていった「男」が、「唇」が「重なる」ことで「僕」に帰ってきたのだ。
 「僕」を出入りする「男」(おまへ)というイメージが鮮烈にある。そして、それは「意味」ではない。「意味」にならない何かであり、そこでは、ことばがただ動き回っているだけなのである。何か、「意味」を超えるもの、つまり「意味以前」、これから新しい「意味」になろうとするものをつかみ取ろうとしている。その運動である。そのエネルギーこそが、ここに「ある」と言えるものなのだ。
 詩のつづき。

……だが眼はひらかれて だが耳をそばだてて 男の息は絶えてしまつてゐた
手も足もこの男の言ふことをきくときは もうあるまい
ひらかれた男の眼底に いまとなつてどのやうな面影がたづねてくるか
そばだてた男の耳に誰が囁くか 高価な言葉を
ふたたび夜がきた
僕らは一層不機嫌になつてしまふ
無言でドアから出て行かうよ 僕たちは……
しかし どうにも言葉が僕らからはみだして困るのだ
もとのところへ還らうとしない出発してしまつた言葉!

 「男」が死んでしまっても「僕」は「僕ら」(僕たち)のままである。
 そして、前の連で重なった唇--ことばは、最後に「主語」になっていく。ことばは自律運動をする。
 「どうにも言葉が僕らからはみだして困るのだ/もとのところへ還らうとしない出発してしまつた言葉!」は田村自身なのだ。もう、田村は田村へもどれない。「男」は死んだ。その死んだ男がかつての田村である。いま、田村は、その死を見届けて、田村からはみだしてゆく。自分自身を「殺し」ながら、はみだしていく。出発点の「僕」は死んでしまっているのだから、もちろん「もと」へは「還る」ことはできない。
 そんな運動をするのが「詩人」だ。




若い荒地 (1968年)
田村 隆一
思潮社

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