詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ジャ・ジャンクー監督「四川のうた」(★★★★)

2009-06-04 12:40:29 | 映画
監督・脚本 ジャ・ジャンクー

「長江哀歌」の監督ジャ・ジャンクーの撮ったドキュメンタリー。国営工場が壊され、商業施設に変わる。その工場で働いていた人たちが、思い出を語る。
 映像がともかく美しい。冒頭、壊される工場の、壊れかけた様子が映し出される。割れたガラス。雨が降っている。雨が壁を伝い、割れたガラスの上に落ちる。ばしゃばしゃと叩くように。ガラスは汚れている。その汚れが美しい。ガラスの汚れのなかに「時間」がある。人間の「暮らし」がある。破壊の瞬間、「暮らし」が噴出してくる。それが感じられて、あ、美しいと思うのだ。
 人間を排除した絶対美、非情の美というものがあるけれど、私は、そういう美とは別に、ジャ・ジャンクーがとらえる人間の「暮らし」の美が好きだ。それは「生きている時間」を大切にする、おしむときに、人間といっしょに存在するものを大切にする、おしむということと重なる。
 最初に思い出を語る男。彼は、工場で働き始めたとき知った先輩のことを語る。先輩は道具(工具)のヘラを短くなるまでつかった。男が、ヘラが短くなったので捨てようとした。すると先輩は、「ものにはたくさんの人がかかわっている。ものを捨てることは、そのひとたちをないがしろにすることだ」というようなことをいう。(正確ではない。私には、そんな風に感じられた。)もののなかには「ひと」が暮らしている。ものを大切にすることは「暮らし」を大切にすることだ。
 「もったいない」ということばも思い出した。中国流の「もったいない」というこころが生きているのかもしれない。
 最後の女の話もおもしろい。甘やかされて育った。あるとき金がなくなり、無心のために、工場で働いている母を訪ねた。母はすぐにはみつからない。みんな作業服を着ていて見分けがつかない。やっとみつけだす。油と汗と埃で汚れている。その姿を見て涙が出た。絶対金持ちになると誓う。女は、自分の暮らしの背後に母の暮らしがあることをその時初めて知った。「もの」の背後に何人もの「暮らし」があるのと同じように、「ひと」の背後にも何人もの「暮らし」がある。そのことを知って、「暮らし」に目覚める。
 女の決意は、「金持ちになって、高級マンションを買う」というものだが、それがこんなふうに「暮らし」そのものの「動き」としてとらえられると、それは俗物的なニュアンスが消え、とてもいとおしいものに感じられる。
 ジャ・ジャンクーは、生きているもの、人間と一緒にいきてきたもの、その「時間」をとても大切にしている。すべての時間を、失ってはならないものとして、大切にしている。その、大切にするこころが、映像を輝かせている。



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豊原清明「父のメガネをかけた豚か 羊か」

2009-06-04 09:06:33 | 詩(雑誌・同人誌)
豊原清明「父のメガネをかけた豚か 羊か」(「白黒目」17、2009年05月発行)

 個人誌「白黒目」にも豊原は脚本を書いている。「父のメガネをかけた豚か 羊か」。これも非常におもしろい。
 豊原の脚本はストーリーをつくらず、そこに存在する「もの」をストーリーにしてしまう。ストーリーを破壊して、そこにある「もの」が、その「過去」とともに噴出してくる。「もの」の「存在感」。「存在感」そのものが、語られることのない「ストーリー」なのだ。この語られることのない「存在感というストーリー」が詩なのである。

○ お茶をわかしているヤカン
   火をアップで撮る。
   カメラ、引く。
   トーストの上に置いた、僕のメガネを撮る。
僕の声「しんどいなあ(嘆息)。」

○タイトル『父の眼鏡をかけた豚か 羊』

 冒頭である。「しんどいなあ(嘆息)。」は、ストーリーをくすぐる。ストーリーが始まる予感を引き出す。けれど、それはすぐに「タイトル」によって破壊される。中断される。
 清原は、「タイトル」さえも、ストーリーを破壊するものとして活用する。
 そして、つづける。

○ 四畳半の部屋の遠景
僕の声「カメラ買っても、撮らしてくれへん。家族を盗み撮りするしかない。」

○ カーテンをバックに僕がぼやいている。
  肥満体。ポケットに手を入れて、ブツブツ言う。

 映画を撮りたい。けれど、だれも「出演者」にはなってくれない。撮影させてくれない。そういう「僕」のストーリーが見えてくる。「僕」の苦しみがストーリーになりそうになる。その「苦悩」を、すぐに「肥満体」が破壊する。肥満体の人が苦悩してはならないというのではない。苦悩という印象を叩き壊すようにして、「肥満体」という「肉体」そのものが前面に出てくる。「ポケットに手を入れ」た姿、「ブツブツ言う」姿が、苦悩を乗り越えて前面に出てくる。「苦悩」を見る前に、観客の視線は「肥満体」を見てしまう。「肥満体」がもっている「過去」を感じてしまう。「映画を撮れない」という苦悩よりも、「肥満体」そのもののなかにある苦悩を感じてしまう。もちろん、「肥満体」そのものは何も語らない。語らないけれど、その姿、「ポケットに手を入れて、ブツブツ言う」が、映画を撮れない、カメラで映すものがないという以上のものを語るのだ。
 途中、省略して。

○ 氷のコップを映す

○ 腕立て伏せ、しようとする僕。
   腕立て伏せはせずに、河馬みたいに仰向けに成る。

 ここには「もの」しかない。「映画を撮れない」という苦悩はストーリーにならずに、「僕」の「肉体」だけが、存在を自己主張する。
 そして、そのとき、存在のことばにならない自己主張とともに、実は、ストーリーも感じるのだ。映画を撮れないという苦悩のストーリーを。それは、肥満体によって叩き壊されることで、声にならない悲鳴を上げている。それがどこからともなく聞こえる。いや、どこからともなくではなく、「肥満体」のなかから聞こえる。
 矛盾した言い方になるが、映画を撮りたいのに撮れないという苦悩は、「肥満体」の存在感によって叩き壊されることで、否定され、死んでいくこと、ことばにならないことによって、実は、生き返っている。「肉体」のなかに、ストーリーの死と、ストーリーの再生がある。その、死と生の、出会いの「場」としての「肉体」というものがある。「肉体」にかぎらず、あらゆる「もの」がある。
 豊原は、そういうものを本能的に(としか、私には思えない)、ぐいとつかみとってくる。その生々しい力に圧倒される。

○ 新聞を畳んでいる父を撮る
   父、顔をあげて
父「撮らんとって!」
   それでも近づくカメラ。        父の眼鏡をアップで撮る。

 ここには、撮影を拒む「父」の「いま」があるのだけれど、その拒絶の姿をとおして、観客が見るのは「いま」だけではない。「いま」より前に何度も繰り返されたであろう「同じ過去」を見る。繰り返される「同じ過去」が積み重なって「いま」を突き破るのだ。それが、「撮らんとって!」という短いことばと「それでも近づくカメラ。」という短い動きによって明確になる。カメラ自身にも「積み重なった同じ過去」があるのだ。そして、それが「いま」、「ここ」に噴出してきている。カメラ自身さえも「演技」する。つまり、「自己の存在感」を主張する。
 あ、そうなのだ。
 映画とは、役者の「存在感」がストーリーを破壊することでストーリーを豊かにするのと同様、カメラ自体の「存在感」、「過去」によってストーリーを破壊し、ストーリーを豊かにするのだ。
 豊原の脚本は、映画の本質をもえぐりだしている。

 ラストシーン。

○ 再び、ヤカンの火を撮る。

○ 部屋の冷えきったクーラーを、ブレさせて、撮る
僕の一句・声「少女美し日本は嫌よ夏来る」

 「ブレさせて、撮る」。「ブレ」はミスではなく、「存在感」なのだ。
 ふと、ジャ・ジャンクー「四川のうた」の最初の方のシーン、男のインタビューの前のシーンを思い出す。工場の内部。外から光が入ってきている。それが焦点をぼかした甘い映像ではじまり、少しずつ焦点があってくる。そのシーンを思い出させる。
 カメラも生きている。対象に向かって焦点をあわせていくとき、そこに「過去」が噴出する。生きてきた時間のすべてが噴出する。そして、「いま」を突き破った瞬間に、永遠が(普遍が、といえばいいのかもしれない)、ぱっと輝いて炸裂する。
 この炸裂に、豊原は俳句を重ね合わせている。俳句とは、豊原にとって、きっと、存在感の炸裂する「一期一会」の瞬間なのだ。
 完璧だ。
 脚本でしか知らないのだが、思わず、目の前にスクリーンがあって、映像があって、という印象が迫ってくる。おわった瞬間、思わず拍手をしてしまう。いまはもうだれも映画を見終わったあと拍手などしないけれど、豊原の脚本を読むと、映画をはじめてみたころの感動、おわった瞬間に拍手してしまう感動を思い出してしまう。

 完璧。完璧、ということば以外に、何を書いていいか、わからない。


夜の人工の木
豊原 清明
青土社

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『田村隆一全詩集』を読む(105 )

2009-06-04 00:39:50 | 田村隆一

 田村は「性」をしきりに書く。そして、その性は「簡潔」ということばに収斂するように思える。「声から肉体が生まれる」に「簡潔」ということばが出てくる。

宮廷の道化師たちは
モンマルトルのキャバレーで変身する
貴族の手から大商人 小商人のシルクハットのなかに
モンマルトルのみだらな夜を歌うイヴット・ギルベールの
邪悪な表情と声に
肉だけのブルジョアたちは歓喜する
男性そのものの黒いビロードのブリュアンの
不気味な悪の詩の朗読に
影の存在となった観衆は 性の簡潔さに
はじめて気づく

 この「簡潔」さは「肉・性」というものかもしれない。「性」もいろいろなものをまとっている。いろいろな技巧というか、形式がある。「枠」がある。それを叩き壊して、「無防備」な性になる。「簡潔」はたぶん「無防備」と同じである。無防備とは、何が起きてもかまわない、という覚悟のことでもある。
 その引き金として、田村は「声」を取り上げている。その「声」は「肉・声」である。
 田村は、ここでは「肉声」ということばはつかっていないのだが、自然に、「肉声」ということばを私は思い出してしまう。同時に、とても不思議な気持ちになる。
 肉眼と同じように、なぜか「肉声」ということばがある。「肉・耳」「肉・鼻」「肉・舌」ということばはないのに……。そして、その「肉・声」が「肉体」をひきだしている。
 「肉・体」の奥から出てくる「肉・声」。それが、たぶんさまざまな「枠」を否定するのだ。みだらに、邪悪に、人間がもっている「枠」に触れながら、それを引き剥がす。
 このとき「肉・声」は実は「声」であると同時に「ことば」である。「肉・声」は「ことば」になって、みだらで、邪悪なことばになって、人間の「枠」にぶつかる。はげしい衝撃のなかで、「枠」が叩き壊され、「肉・体」だけになってしまう。そこに、必然的に「性」が立ち上がる。
 その性は、人間関係をすべて消し去る。「肉・体」だけのぶつかりあいにかえてしまう。とても「簡潔」だ。
 「簡潔」は、田村が追い求めている純粋な何かである。





ファッションの鏡 (1979年)
田村 隆一,CECILWALTERHARDY BEATON
文化出版局

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