詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(9)

2009-06-24 07:23:15 | 誰も書かなかった西脇順三郎

カリマコスの頭とVoyage Pittoresque



海へ海へ、タナダラの土地
しかしつかれて
宝石の盗賊のやうにひそかに
不知の地へ上陸して休んだ。

僕の煙りは立ちのぼり
アマリリスの花が咲く庭にたなびいた。
土人の犬が強烈に耳をふつた。

千鳥が鳴き犬が鳴きさびしいところだ。
宝石へ水がかかり
追憶と砂が波うつ。
テラコタの夢と知れ。

 この詩のなかには、「ギリシア的抒情詩」に書かれたことばがたくさん出てくる。「宝石」は「天気」の書き出しの「宝石」である。「僕の煙り」は「カプリの牧人」の「我がシシリヤのパイプ」である。「水」は「雨」である。存在のすべてをぬらし、「わたしの舌」をぬらした「雨」である。この詩はの「あとがき」のようなものであるかもしれない。
 興味深いのは「千鳥が鳴き犬が鳴きさびしいとこだ。」という行である。「さびしい」が登場する。西脇の詩の重要なことばだ。
 「さびしい」とは何か。
 「さびしい」の前の連の「土人の犬が強烈に耳をふつた。」が「さびしい」をひきだしたことばだと思う。
 「僕」がパイプを吹かす。煙がアマリリスの庭に流れる。犬が耳を振る。「パイプ」「アマリリス」「犬」には何の関連性もない。そこに、別個のものとして存在し、出会うだけである。この「無関係」の関係が「さびしさ」である。
 犬が耳を振るとき、犬が耳を振らなければならない理由は、「僕」とはまったく関係がない。他の何かと関係している。「土人の犬が強烈に耳をふつた。」の「強烈に」は文法的には「ふつた」にかかるが、意識的には「強烈に無関係に」という意味になる。無関係さを西脇が「強烈に」感じたのだ。
 「犬」が「さびしさ」の起点であるからこそ、「千鳥が鳴き犬が鳴きさびしいところだ。」と、3連目ですぐに「犬」が繰り返される。そして「千鳥が鳴き犬が鳴き」という描写は、感情とは関係がない。人間の感情とは関係がない。むしろ、人間の感情をふりすてる。

 感情を捨てる--すると、そこに「さびしさ」があらわれる。
 それは「Ⅱ」の部分に、より鮮明に描かれる。

宝石の角度を走る永遠の光りを追つたり
神と英雄とを求めてアイキユロスを
読み、年月の「めぐり」も忘れて
笛もパイプも吹かず長い間
なまぐさい教室で知識の樹にのぼつた。
町へ出て、町を通りぬけて
むかし鶯の鳴いた森の中へ行く。

 感情を捨てたあとは、「知識」も捨てる。その「無」のなかへ「さびしさ」はやってくる。感情も知識も拒絶するもの。そこに存在することで感情と知識を拒絶する力。それが「さびしさ」である。


西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集
西脇 順三郎
慶應義塾大学出版会

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牟礼慶子『夢の庭へ』

2009-06-24 00:03:06 | 詩集
牟礼慶子『夢の庭へ』(思潮社、2009年05月31日発行)
 
 牟礼慶子『夢の庭へ』を読むと詩人とは「ことば」を生きる人間なのだとあらためて思う。「わたしを呼んでください」の1、2連目。

あれはあなたですか
今日も
空の高みから聞こえてくる風の声
ひゅうひゅうと
わたしを呼んでいるあの声

あなたとわたしは
今はもう 手をつなぐこともなく
どこまでも漂う
闇のひだに隠れながら
言葉で結ばれようと願っています
聞こえても聞こえても
更なる声を待ち侘びているのです

 亡くなった「あなた」と「わたし」。「手をつなぐ」ことはもうない。今は「声」で繋がっている。声が聞こえる。その声を牟礼は「言葉」にしたいと願っている。「わたし」が「あなた」の「声」を聞き取り、それを「言葉」にするとき、ふたりは「言葉で結ばれる」。

 「声」があることろに、必ず「ことば」があるわけではない。牟礼はそのことを強く意識している。

永訣の深更
走り続けた病棟の廊下
たどりついたわたしを
凛とした高い声で呼び
再び大きく息をととのえ
何か伝えたげだったもうひとことは
もはや声にはできませんでした
あなたの声で渡してくださった別辞
わたしの耳でしか
受け取れなかった最後の挨拶

 「わたしの耳でしか/受け取れなかった最後の挨拶」。このときの「わたしの耳でしか」というのは、単に牟礼にしか聞けなかったということではない。重要なのは「わたしの」はもちろんだが、「耳」なのだ。
 「耳」は「声」を聞いた。それは「声」にもならない「息」だった。そして、その「息」のなかには、「声になる前の声」があり、その「声になる前の声」の奥には「ことばになる前のことば」がある。それは「肉体」と未分化の声であり、「肉体」と未分化のことばである。それはたしかに、同じ時間、同じ空間を、いや、同じ愛を生きた「肉体」にしか受け止めることのできない「声」であり、「ことば」である。
 それはもちろん、その状態のまま、つまり「肉体と未分化の声」「肉体と未分化のことば」であっても、充分に、深い愛のあかしとして、そこにある。特に、「肉体」が「いま」「ここ」にあるときは、それは「未分化」のままでも充分である。「未分化」であるからこそ、「肉体」が触れ合いながら、その「未分化」のものを交流させることができる。
 けれども、「いま」「ここ」にあるのは、ふたりの「肉体」ではない。「あなた」の「肉体」は「いま」「ここ」にはない。

あなたの声でしか語れないこと
わたしの耳でしか聞えないこと

 この「肉体」のかわす相聞。それは充分に美しい。切実だ。けれども、牟礼はそれを「言葉」にしたいと思っている。「声」と「耳」で結ばれるのではなく、「言葉で結ばれる」ことを願っている。
 なぜか。
 「言葉」にすれば、「あなた」が生き返るからである。「わたし」の「言葉」のなかに、「あなた」が「言葉」として生き返ってくるからである。「言葉」はふたりで生み出す愛そのものなのだ。そして、「肉体」が消えたあとも生き続けるものだからである。それは「肉体」を超える「いのち」なのである。
 「あなたの声でしか語れないこと/わたしの耳でしか聞えないこと」も愛なのだが、それが愛でありうるのは、牟礼が、いま、ここに、こうして2行のことばにしているからなのだ。

 ことばを書く度に「あなた」は生き生きと生まれてくる。その「あなた」に「わたし」は「ことば」をとどける。それは「あなた」からもらった「ことば」である。「あなた」からもらった「ことば」が「わたし」の肉体を通って、いま、こんな形で生まれてきている。それを正確に書き留めること--それが牟礼の愛である。それを永遠に向けて育て上げる。それが牟礼の愛である。

 ひとりで書き上げる美しい相聞歌である。



夢の庭へ
牟礼 慶子
思潮社

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