カリマコスの頭とVoyage Pittoresque
Ⅰ
海へ海へ、タナダラの土地
しかしつかれて
宝石の盗賊のやうにひそかに
不知の地へ上陸して休んだ。
僕の煙りは立ちのぼり
アマリリスの花が咲く庭にたなびいた。
土人の犬が強烈に耳をふつた。
千鳥が鳴き犬が鳴きさびしいところだ。
宝石へ水がかかり
追憶と砂が波うつ。
テラコタの夢と知れ。
この詩のなかには、「ギリシア的抒情詩」に書かれたことばがたくさん出てくる。「宝石」は「天気」の書き出しの「宝石」である。「僕の煙り」は「カプリの牧人」の「我がシシリヤのパイプ」である。「水」は「雨」である。存在のすべてをぬらし、「わたしの舌」をぬらした「雨」である。この詩はの「あとがき」のようなものであるかもしれない。
興味深いのは「千鳥が鳴き犬が鳴きさびしいとこだ。」という行である。「さびしい」が登場する。西脇の詩の重要なことばだ。
「さびしい」とは何か。
「さびしい」の前の連の「土人の犬が強烈に耳をふつた。」が「さびしい」をひきだしたことばだと思う。
「僕」がパイプを吹かす。煙がアマリリスの庭に流れる。犬が耳を振る。「パイプ」「アマリリス」「犬」には何の関連性もない。そこに、別個のものとして存在し、出会うだけである。この「無関係」の関係が「さびしさ」である。
犬が耳を振るとき、犬が耳を振らなければならない理由は、「僕」とはまったく関係がない。他の何かと関係している。「土人の犬が強烈に耳をふつた。」の「強烈に」は文法的には「ふつた」にかかるが、意識的には「強烈に無関係に」という意味になる。無関係さを西脇が「強烈に」感じたのだ。
「犬」が「さびしさ」の起点であるからこそ、「千鳥が鳴き犬が鳴きさびしいところだ。」と、3連目ですぐに「犬」が繰り返される。そして「千鳥が鳴き犬が鳴き」という描写は、感情とは関係がない。人間の感情とは関係がない。むしろ、人間の感情をふりすてる。
感情を捨てる--すると、そこに「さびしさ」があらわれる。
それは「Ⅱ」の部分に、より鮮明に描かれる。
宝石の角度を走る永遠の光りを追つたり
神と英雄とを求めてアイキユロスを
読み、年月の「めぐり」も忘れて
笛もパイプも吹かず長い間
なまぐさい教室で知識の樹にのぼつた。
町へ出て、町を通りぬけて
むかし鶯の鳴いた森の中へ行く。
感情を捨てたあとは、「知識」も捨てる。その「無」のなかへ「さびしさ」はやってくる。感情も知識も拒絶するもの。そこに存在することで感情と知識を拒絶する力。それが「さびしさ」である。
西脇順三郎コレクション〈第6巻〉随筆集西脇 順三郎慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |