詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

スティーヴン・ダルドリー監督「愛を読むひと」(★★★)

2009-06-26 11:19:11 | 映画
監督 スティーヴン・ダルドリー 出演 ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ、デヴィッド・クロス、レナ・オリン、ブルーノ・ガンツ

 映画の、というかストーリーの重要なテーマは文字が読めないこと。文字が読めないという問題が重いために、他のテーマが見えにくくなる。文字が読めないだけではなく、他にも「できない」ことがある。「できない」ことが積み重なって、不幸が重くなるのだ。知る、知らない、できる、できないが重なり合って、不幸が重くなる。
 女はが文字が読めない。そして、それを打ち明けることが「できない」。青年は女が文字が読めないことを知った。けれど、それを裁判で訴えることが「できない」。女が重罪になるのを防ぐことが「できない」。重罪から救う方法を知っているのに、それを実行「できない」。
 女は文字が読めないと告白することができない。恥ずかしい。読めないと知られると人に侮蔑される。利用されることを知っている。実際に、利用されて彼女だけ重罪になる。それが知られれば、もっと彼女は侮蔑されるだろう--そう知っているので、彼女は何もできない。ただ、それを秘密にするだけである。女は、自分の文字を読めないという秘密を、罪を受け入れるという行為にすりかえて生きていこうとする。
 青年は? 彼は、何が恥ずかしいのだろう。25歳も年上の女性とのセックスにおぼれたこと? その女がいまナチの看守として裁かれている。そういう「罪」をおかすような女とのセックスにおぼれたという過去を知られること? そして、男は、自分の悩みを、「女は文字を読めないことを知られたくないと思っている。その思いを、尊厳を尊重すべきかどうか」という問題に置き換えてしまう。
 過去(秘密)を知られることを、2 人は恐れている。自分の秘密というか、過去を、別なものにすりかえてしまう。ここに、 2人の不幸がある。知っていること、知らないこと、できること、できないこと--その区別をあいまいにし、違うものにすりかえてしまう。問題を遠ざけ、問題が露呈しないことが「幸福」と勘違いする。
 ――この、前半部分は、私にはあまりおもしろくなかった。仕方がないのかもしれないが、ストーリーの展開が説明的すぎる。そして、ケイト・ウィンスレットの肉体の描かれかたが単調である。魅惑的な肉体、肉感的な肉体であるということに重点が置かれすぎていて、青年(少年)とのセックスが本の朗読を聴きたいという目的のためであることが、ていねいに描かれていない。肉体の奥にある渇望が絵か枯れていないからである。

 おもしろくなるのは後半である。

 女に朗読テープが送られてくる。そのとき、女は、青年が文字を読めないことを「知っている」(知った、気がついた)ことを知る。隠し続けた秘密を知っていることを知る。それは女にとっては恥ずかしいことなのだが、いままでの恥ずかしさとは何かが違う。青年は、女の弱点を利用しようとはしていない。同僚の看守たちが、女の秘密を利用したのとは違った形で彼女に接近してきていることを知る。
 ここからのケイト・ウィンスレットがすばらしい。
 秘密を知られることを彼女はひたすら恐れてきたのだが、その秘密を知っても、そのことにより女を侮蔑したり、またその弱点を利用して女を支配しようとしない人がいる。そういう「発見」をする。――そのとき、安心感というか、安らぎが彼女を包む。朗読テープを聞くことで、文学にふれることで、人間のこころのさまざまな動きを知る。知らなかった世界、心の豊かさを知る。そして、生きてゆく意欲が生まれる。
 女は、朗読テープを教材に文字を独学で「読む」ことを学び始める。「ザ」が「the 」であることを知り、本で「the 」を次々に見つけ出す。そのときの喜び。何かが分かることの喜び。彼女は、小説の主人公の性格分析までできるくらい(自分なりの感想をきちんとことばにできるくらい)にまで、本を読めるようになる。「知る」ということは、自分が自分ではなくなる、新しい自分に生まれ変わるということでもある。このときの、ケイト・ウィンスレットの表情がまぶしい。
 けれども、この喜びは絶望にもかわる。何かがわかるということは、自分にとってはかならずしもいいとはかぎらないことまでわかることでもあるからだ。文学をとおして、さまざまなこころを知った女。それは、いままで気がつかなかった男のこころを知ることへと繋がっていく。
 女は文字が読めるようになる。文字が書けるようになる。そして男に手紙を書く。だが、返事がこない。文字が書けるはずの男から手紙がこない。文字が読めるようになった、書けるようになったと知っているのに、手紙がこない。頼んでも、手紙がこない。
 そのことから、女は、男の「秘密」を知る。男は、女を、女が男を愛するようには愛してはいないということを知る。気がつく。女には、朗読テープを送ってくれることは愛の証に見えたけれど、そうではなかったということを知る。
 男にとって、朗読テープを送り続けることは、贖罪だったのだ。そして、彼が彼女を助けなかったことを知っている、と男は思っている。文字が読めないことを知らずにテープを送ってくるのではなく、知っていて送ってくる。それは、男が裁判の過程で、女がが文字が読めないことを知りながら、男が女を助けなかった、ということを知っているということでもある。それは、男にとっては、誰にも知られたくない「秘密」なのだ。
 女は、しかし、男を責めるだろうか。なぜ自分を助けてくれなかった、と責めるだろうか。文字を知った喜びの中で、男を純粋に愛している。男を信じ込んでいる。--男には、それがわかる。わかるがゆえに、男には、女の愛がつらい。
 その苦悩さえ、いまの女にはわかる。手にとるようにわかる。何冊もの文学を読んできて、ひとのこころの苦悩の揺れ動きが、彼女にはわかるのだ。男が女を純粋な形で愛せない--その事実を知って、女は生きることに耐えられなくなる。
 大切な大切な何冊もの本を踏み台にして、女は首吊り自殺をする。そのときの、本と、本の上の、裸足。荒れた肌。不格好な爪。ケイト・ウィンスレットのほんものの足であるかどうかはわからないけれど、きっとほんものである--と信じたい。
 それくらい、後半の、喜びと絶望に揺れるケイト・ウィンスレットの演技はすばらしかった。

 知らなくてできないこと。知っていてできないこと。できないということを知ること。それを知り、受け入れることの苦しさ。
 幾重にも折り重なる、知る・知らない、できる・できないのあいだで揺れる女を、ケイト・ウィンスレットはしっかり体現した。激しい動揺を内にとじこめ、肉体で表現するには、ケイト・ウィンスレットのような「しっかり」した肉体が必要だ。彼女のヨーロッパ風の肉体(ハリウッド風の肉体ではない)を活かした映画だった。




 DVDがすでに発売されているようだ。



愛を読むひと (ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ 出演) [DVD]



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誰も書かなかった西脇順三郎(11)

2009-06-26 07:16:16 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「哀歌」の書き出しは不思議だ。

薔薇よ、汝の色は悲しみである。
髪はふるへる。
この晴朗の正午に微風が波たつ。
星の輪が風にふるへる。
我が心も見えざる星と共にふるへる。

 「晴朗の正午」に星が見えることはない。「星の輪が風にふるへる。」のも見ることはできないだろう。そうした見えないものを「見える」かのように書いたあと、すぐ「我が心も見えざる星と共にふるへる。」と西脇は書く。「見えない」のに「見える」かのように書いて、それを否定している。
 これは何のためだろう。
 「ふるへる」という音を書きたかったのだと、私は思う。「ふるへる」という音の繰り返しの中に、すべてが吸収される。矛盾はかき消える。そのとき、「薔薇よ、汝の色は悲しみである。」の「悲しみ」が「ふるへる」ように私には感じられる。「悲しみ」がふるえている。
 でも、この「悲しみ」とは何?

この晴天の首、この夏の眠り、
このトレミイは夏の草花の中に呼吸する。
彼の夢はトリトンの貝殻より反響する音に
触れて曲れる音を吹く。

 「触れて曲れる音」、その「曲れる」が「悲しみ」である。そして、「淋しさ」(淋しい)である。
 このことを、私は論理的に説明できないのだが、そう思う。
 「曲がる」はしばしば西脇の詩にでてくる「美」の基準である。まっすぐではなく、「曲がっている」(ゆがんでいる)。それは、何かからはじき出されてそこに存在する。はじき出されたものが、全体をながめる。その瞬間に、「淋しさ」が「美」としてあらわれる。
 「曲がる」は形である。視覚でとらえた世界である。けれど、私は、その「曲がる」を支えているものが、深いところで「音」のような気がしてならない。視力だけで「曲がる」(曲がったもの、ゆがんだもの)をとらえているとき、そこに「淋しさ」「悲しさ」があるかどうか、すこし疑問に思っている。視力ではないものが、その奥にあるとき、視力はその視力以外のものにふれて、「淋しい」「悲しい」「美」になるのだと感じてしまう。
 この詩でいえば、

触れて曲れる音を吹く。

 という1行の中にある「ふ」の音。それは「ふるへる」の「ふ」とも呼び合っている。「ふるえる」という音と、「曲れる」という音が呼び合い、それこそ私には「反響」している音のように感じられる。「ふるへる」ものは、その瞬間「曲がっている」という感じがする。まっすぐにふるえるのではなく、曲がってふるえる。
 それから、その行に先立つ「この晴天、この夏の首、この夏の眠り、/このトレミイは夏の草花の中に呼吸する。」の「この」のくりかえし、さらにいえば「の」のくりかえしも好きだ。「の」を中心にして(?)、存在が「曲がる」。まっすぐにことばが、音が動くのではなく、曲がりながら動く。「の」は曲がったところから、またもとへ戻るための「の」でもある。「の」がまっすぐにつながっていて、その「の」のあいだのものが曲がる。ふるえる。そして、それは「見える」だけではなく、「視力」に「音」として聞こえる。

 いま、私が書いていることは、論理でも説明でもなく、私の意識・感覚の錯乱なのかもしれない。けれど、その錯乱の瞬間、私は、とても気持ちがいい。
 この気持ちのよさは、私の場合、西脇を読んでいると起きる。

彼の思考は静かな宝石である。
彼のパイプの音は静かな宝石である。
彼の眠りは静かな宝石である。

 この「静かな宝石である。」のくりかえしも、私には、不思議な印象呼び起こす。「天気」の「覆された宝石」から遠く離れて、孤立している宝石を感じさせる。
 「覆された宝石」は「やかましい」。その「やかましさ」から離れて「静か」なのだ。それは「やかましさ」のなかにあって、「ささやいて」いるのだ。まったく別の音楽を。



 「天気」に戻っての、補足。

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは神の生誕の日。

 「覆された宝石」のすぐとなりに「ささやく」という「音」がある。「やかましさ」のとなりの「ささやく」。その異質な音の出会い。ここで出会っているのは、目で見えるものではなく、「音」なのだと思う。
 西脇は最初から「音」の詩人、音楽の詩人だと、私は思う。


西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

慶應義塾大学出版会

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牟礼慶子『夢の庭へ』(3)

2009-06-26 00:04:27 | 詩集
牟礼慶子『夢の庭へ』(3)(思潮社、2009年05月31日発行)

 「夢の庭へ」という作品が、私はとても好きだ。私は牟礼のことを個人的には何も知らない。『夢の庭へ』を亡くなった「あなた」への相聞歌として読んでいるけれど、「あなた」がいつ亡くなったのか、そのことも知らないで私は書いている。
 「夢の庭へ」の1連目。

ふり向くな
制止の声に同意せず
わたしはあの日から
一本のネムの木だっだ
古い風と新しい風が
わたしの背中で入れ替り
今年のネムの花が
淡い紅の蕾を
梢に掲げるのを仰ぎ見ている

 この詩は私には「ほのかな紅を」と重なって見える。重ねて読んでしまう。
 ネムの木を見上げると、きっと「わたし」はひとりきりになる。世界から切り離されてしまう。世間の人は、そんなふうに「ひとりきり」になってはいけないと制止する(注意する)けれど、「わたし」はネムの木を見つめていたい。それは、きっと牟礼にとってとても大切な木である。「あなた」の思い出がいっぱいつまっている木である。「あなた」は「わたし」を「ネムの木」と呼んでくれたのかもしれない。きっと、そうだろうと思う。
 ネムの木を見上げ、「わたし」はひとりきりになる。「ネムの木」と呼ばれた懐かしい、いとしい時間。その瞬間にかえる。
 そして、「ひとりきり」の「あなた」に出会うのだ。「わたし」を「ネムの木」と呼んだとき、「あなた」は「ひとりきり」だった。つまり、「わたし」を「ネムの木」と呼ぶ人は、「あなた」以外にいなかった。
 そして、その「あなた」はこの世界から旅立って、別の意味で「ひとりきり」である。
 だから、「わたし」が「あなた」に寄り添う。そして、寄り添うとき、「わたし」は「あなた」になり(「ムネの木」と呼んでくれた「あなた」が「わたし」の中でいきいきとよみがえり)、「あなた」が「わたし」に寄り添うとき(「あなた」が「わたし」を「ネムの木」と呼ぶとき)、「あなた」のその声の中で、「わたし」がよみがえる。
 「入れ替」るとは、そういうことをいう。切り離せないいのちになる。入れ替わるとは、「一体」になることである。
 2連目。

遠くで鳴る
振鈴の合図に促されて
あの 夢の庭のほうへ
わたしは今日を歩き始める
わたしを誘うのは
わたしの腕でなく
誰の腕でもなく
若いネムの木だったわたしの声

 「若いネムの木だったわたし」。「わたし」と「ネムの木」が「一体」である。その瞬間と「いま」が「一体」になる。すべてが「ネムの木」とともに存在する。「ネムの木」をとおり、遠いむかしも、いまも、いまここにいない「あなた」も「一体」になる。
 この「一体感」を牟礼は、語りつづける。

この世に定められている時の掟
その境界の越え方を
わたしはいつ覚えたのだろう
向う側と
こちら側の風景を隔てて
整列している木々の淡い緑
非在の者と
存在する者とが
同じ場所に留まる術を
わたしはどこで学んだのだろう

 「あなた」との愛の暮らしで学んだのだと、私は教えてもらった。この詩集で、牟礼から。すばらしい愛の詩集だ。ありがとう。

日日変幻 (1972年) (現代女性詩人叢書〈6〉)
牟礼 慶子
山梨シルクセンター出版部

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