監督 スティーヴン・ダルドリー 出演 ケイト・ウィンスレット、レイフ・ファインズ、デヴィッド・クロス、レナ・オリン、ブルーノ・ガンツ
映画の、というかストーリーの重要なテーマは文字が読めないこと。文字が読めないという問題が重いために、他のテーマが見えにくくなる。文字が読めないだけではなく、他にも「できない」ことがある。「できない」ことが積み重なって、不幸が重くなるのだ。知る、知らない、できる、できないが重なり合って、不幸が重くなる。
女はが文字が読めない。そして、それを打ち明けることが「できない」。青年は女が文字が読めないことを知った。けれど、それを裁判で訴えることが「できない」。女が重罪になるのを防ぐことが「できない」。重罪から救う方法を知っているのに、それを実行「できない」。
女は文字が読めないと告白することができない。恥ずかしい。読めないと知られると人に侮蔑される。利用されることを知っている。実際に、利用されて彼女だけ重罪になる。それが知られれば、もっと彼女は侮蔑されるだろう--そう知っているので、彼女は何もできない。ただ、それを秘密にするだけである。女は、自分の文字を読めないという秘密を、罪を受け入れるという行為にすりかえて生きていこうとする。
青年は? 彼は、何が恥ずかしいのだろう。25歳も年上の女性とのセックスにおぼれたこと? その女がいまナチの看守として裁かれている。そういう「罪」をおかすような女とのセックスにおぼれたという過去を知られること? そして、男は、自分の悩みを、「女は文字を読めないことを知られたくないと思っている。その思いを、尊厳を尊重すべきかどうか」という問題に置き換えてしまう。
過去(秘密)を知られることを、2 人は恐れている。自分の秘密というか、過去を、別なものにすりかえてしまう。ここに、 2人の不幸がある。知っていること、知らないこと、できること、できないこと--その区別をあいまいにし、違うものにすりかえてしまう。問題を遠ざけ、問題が露呈しないことが「幸福」と勘違いする。
――この、前半部分は、私にはあまりおもしろくなかった。仕方がないのかもしれないが、ストーリーの展開が説明的すぎる。そして、ケイト・ウィンスレットの肉体の描かれかたが単調である。魅惑的な肉体、肉感的な肉体であるということに重点が置かれすぎていて、青年(少年)とのセックスが本の朗読を聴きたいという目的のためであることが、ていねいに描かれていない。肉体の奥にある渇望が絵か枯れていないからである。
おもしろくなるのは後半である。
女に朗読テープが送られてくる。そのとき、女は、青年が文字を読めないことを「知っている」(知った、気がついた)ことを知る。隠し続けた秘密を知っていることを知る。それは女にとっては恥ずかしいことなのだが、いままでの恥ずかしさとは何かが違う。青年は、女の弱点を利用しようとはしていない。同僚の看守たちが、女の秘密を利用したのとは違った形で彼女に接近してきていることを知る。
ここからのケイト・ウィンスレットがすばらしい。
秘密を知られることを彼女はひたすら恐れてきたのだが、その秘密を知っても、そのことにより女を侮蔑したり、またその弱点を利用して女を支配しようとしない人がいる。そういう「発見」をする。――そのとき、安心感というか、安らぎが彼女を包む。朗読テープを聞くことで、文学にふれることで、人間のこころのさまざまな動きを知る。知らなかった世界、心の豊かさを知る。そして、生きてゆく意欲が生まれる。
女は、朗読テープを教材に文字を独学で「読む」ことを学び始める。「ザ」が「the 」であることを知り、本で「the 」を次々に見つけ出す。そのときの喜び。何かが分かることの喜び。彼女は、小説の主人公の性格分析までできるくらい(自分なりの感想をきちんとことばにできるくらい)にまで、本を読めるようになる。「知る」ということは、自分が自分ではなくなる、新しい自分に生まれ変わるということでもある。このときの、ケイト・ウィンスレットの表情がまぶしい。
けれども、この喜びは絶望にもかわる。何かがわかるということは、自分にとってはかならずしもいいとはかぎらないことまでわかることでもあるからだ。文学をとおして、さまざまなこころを知った女。それは、いままで気がつかなかった男のこころを知ることへと繋がっていく。
女は文字が読めるようになる。文字が書けるようになる。そして男に手紙を書く。だが、返事がこない。文字が書けるはずの男から手紙がこない。文字が読めるようになった、書けるようになったと知っているのに、手紙がこない。頼んでも、手紙がこない。
そのことから、女は、男の「秘密」を知る。男は、女を、女が男を愛するようには愛してはいないということを知る。気がつく。女には、朗読テープを送ってくれることは愛の証に見えたけれど、そうではなかったということを知る。
男にとって、朗読テープを送り続けることは、贖罪だったのだ。そして、彼が彼女を助けなかったことを知っている、と男は思っている。文字が読めないことを知らずにテープを送ってくるのではなく、知っていて送ってくる。それは、男が裁判の過程で、女がが文字が読めないことを知りながら、男が女を助けなかった、ということを知っているということでもある。それは、男にとっては、誰にも知られたくない「秘密」なのだ。
女は、しかし、男を責めるだろうか。なぜ自分を助けてくれなかった、と責めるだろうか。文字を知った喜びの中で、男を純粋に愛している。男を信じ込んでいる。--男には、それがわかる。わかるがゆえに、男には、女の愛がつらい。
その苦悩さえ、いまの女にはわかる。手にとるようにわかる。何冊もの文学を読んできて、ひとのこころの苦悩の揺れ動きが、彼女にはわかるのだ。男が女を純粋な形で愛せない--その事実を知って、女は生きることに耐えられなくなる。
大切な大切な何冊もの本を踏み台にして、女は首吊り自殺をする。そのときの、本と、本の上の、裸足。荒れた肌。不格好な爪。ケイト・ウィンスレットのほんものの足であるかどうかはわからないけれど、きっとほんものである--と信じたい。
それくらい、後半の、喜びと絶望に揺れるケイト・ウィンスレットの演技はすばらしかった。
知らなくてできないこと。知っていてできないこと。できないということを知ること。それを知り、受け入れることの苦しさ。
幾重にも折り重なる、知る・知らない、できる・できないのあいだで揺れる女を、ケイト・ウィンスレットはしっかり体現した。激しい動揺を内にとじこめ、肉体で表現するには、ケイト・ウィンスレットのような「しっかり」した肉体が必要だ。彼女のヨーロッパ風の肉体(ハリウッド風の肉体ではない)を活かした映画だった。
*
DVDがすでに発売されているようだ。
映画の、というかストーリーの重要なテーマは文字が読めないこと。文字が読めないという問題が重いために、他のテーマが見えにくくなる。文字が読めないだけではなく、他にも「できない」ことがある。「できない」ことが積み重なって、不幸が重くなるのだ。知る、知らない、できる、できないが重なり合って、不幸が重くなる。
女はが文字が読めない。そして、それを打ち明けることが「できない」。青年は女が文字が読めないことを知った。けれど、それを裁判で訴えることが「できない」。女が重罪になるのを防ぐことが「できない」。重罪から救う方法を知っているのに、それを実行「できない」。
女は文字が読めないと告白することができない。恥ずかしい。読めないと知られると人に侮蔑される。利用されることを知っている。実際に、利用されて彼女だけ重罪になる。それが知られれば、もっと彼女は侮蔑されるだろう--そう知っているので、彼女は何もできない。ただ、それを秘密にするだけである。女は、自分の文字を読めないという秘密を、罪を受け入れるという行為にすりかえて生きていこうとする。
青年は? 彼は、何が恥ずかしいのだろう。25歳も年上の女性とのセックスにおぼれたこと? その女がいまナチの看守として裁かれている。そういう「罪」をおかすような女とのセックスにおぼれたという過去を知られること? そして、男は、自分の悩みを、「女は文字を読めないことを知られたくないと思っている。その思いを、尊厳を尊重すべきかどうか」という問題に置き換えてしまう。
過去(秘密)を知られることを、2 人は恐れている。自分の秘密というか、過去を、別なものにすりかえてしまう。ここに、 2人の不幸がある。知っていること、知らないこと、できること、できないこと--その区別をあいまいにし、違うものにすりかえてしまう。問題を遠ざけ、問題が露呈しないことが「幸福」と勘違いする。
――この、前半部分は、私にはあまりおもしろくなかった。仕方がないのかもしれないが、ストーリーの展開が説明的すぎる。そして、ケイト・ウィンスレットの肉体の描かれかたが単調である。魅惑的な肉体、肉感的な肉体であるということに重点が置かれすぎていて、青年(少年)とのセックスが本の朗読を聴きたいという目的のためであることが、ていねいに描かれていない。肉体の奥にある渇望が絵か枯れていないからである。
おもしろくなるのは後半である。
女に朗読テープが送られてくる。そのとき、女は、青年が文字を読めないことを「知っている」(知った、気がついた)ことを知る。隠し続けた秘密を知っていることを知る。それは女にとっては恥ずかしいことなのだが、いままでの恥ずかしさとは何かが違う。青年は、女の弱点を利用しようとはしていない。同僚の看守たちが、女の秘密を利用したのとは違った形で彼女に接近してきていることを知る。
ここからのケイト・ウィンスレットがすばらしい。
秘密を知られることを彼女はひたすら恐れてきたのだが、その秘密を知っても、そのことにより女を侮蔑したり、またその弱点を利用して女を支配しようとしない人がいる。そういう「発見」をする。――そのとき、安心感というか、安らぎが彼女を包む。朗読テープを聞くことで、文学にふれることで、人間のこころのさまざまな動きを知る。知らなかった世界、心の豊かさを知る。そして、生きてゆく意欲が生まれる。
女は、朗読テープを教材に文字を独学で「読む」ことを学び始める。「ザ」が「the 」であることを知り、本で「the 」を次々に見つけ出す。そのときの喜び。何かが分かることの喜び。彼女は、小説の主人公の性格分析までできるくらい(自分なりの感想をきちんとことばにできるくらい)にまで、本を読めるようになる。「知る」ということは、自分が自分ではなくなる、新しい自分に生まれ変わるということでもある。このときの、ケイト・ウィンスレットの表情がまぶしい。
けれども、この喜びは絶望にもかわる。何かがわかるということは、自分にとってはかならずしもいいとはかぎらないことまでわかることでもあるからだ。文学をとおして、さまざまなこころを知った女。それは、いままで気がつかなかった男のこころを知ることへと繋がっていく。
女は文字が読めるようになる。文字が書けるようになる。そして男に手紙を書く。だが、返事がこない。文字が書けるはずの男から手紙がこない。文字が読めるようになった、書けるようになったと知っているのに、手紙がこない。頼んでも、手紙がこない。
そのことから、女は、男の「秘密」を知る。男は、女を、女が男を愛するようには愛してはいないということを知る。気がつく。女には、朗読テープを送ってくれることは愛の証に見えたけれど、そうではなかったということを知る。
男にとって、朗読テープを送り続けることは、贖罪だったのだ。そして、彼が彼女を助けなかったことを知っている、と男は思っている。文字が読めないことを知らずにテープを送ってくるのではなく、知っていて送ってくる。それは、男が裁判の過程で、女がが文字が読めないことを知りながら、男が女を助けなかった、ということを知っているということでもある。それは、男にとっては、誰にも知られたくない「秘密」なのだ。
女は、しかし、男を責めるだろうか。なぜ自分を助けてくれなかった、と責めるだろうか。文字を知った喜びの中で、男を純粋に愛している。男を信じ込んでいる。--男には、それがわかる。わかるがゆえに、男には、女の愛がつらい。
その苦悩さえ、いまの女にはわかる。手にとるようにわかる。何冊もの文学を読んできて、ひとのこころの苦悩の揺れ動きが、彼女にはわかるのだ。男が女を純粋な形で愛せない--その事実を知って、女は生きることに耐えられなくなる。
大切な大切な何冊もの本を踏み台にして、女は首吊り自殺をする。そのときの、本と、本の上の、裸足。荒れた肌。不格好な爪。ケイト・ウィンスレットのほんものの足であるかどうかはわからないけれど、きっとほんものである--と信じたい。
それくらい、後半の、喜びと絶望に揺れるケイト・ウィンスレットの演技はすばらしかった。
知らなくてできないこと。知っていてできないこと。できないということを知ること。それを知り、受け入れることの苦しさ。
幾重にも折り重なる、知る・知らない、できる・できないのあいだで揺れる女を、ケイト・ウィンスレットはしっかり体現した。激しい動揺を内にとじこめ、肉体で表現するには、ケイト・ウィンスレットのような「しっかり」した肉体が必要だ。彼女のヨーロッパ風の肉体(ハリウッド風の肉体ではない)を活かした映画だった。
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DVDがすでに発売されているようだ。
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