詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

トラン・アン・ユン監督「アイ・カム・ウィズ・ザ・レイン」(★★)

2009-06-10 08:31:40 | 映画
監督 トラン・アン・ユン 出演 ジョシュ・ハートネット、木村拓哉、イ・ビョンホン

 これは、とても気持ちの悪い映画である。といっても、木村拓哉の顔の上を蛆虫が這い回るから、とか、血がむやみやたらと出で来るからという理由で気持ちが悪いというのではない。私には、そういう物理的(視覚的?)なものは、むしろ快感である。実際に見ることができないものをスクリーンで見ることができるからである。新鮮な体験だからである。
 何が気持ち悪いか。
 ことばが重すぎる。映像ではなく、ことばで「思想」を説明している。そして、それが「ことば」であることを隠すために、アップの映像を乱用し、観客をごまかそうとしている。
 そこが気持ち悪い。
 フランス資本が絡んでいる映画のようだが、フランス映画の一番悪い部分を見せられたような感じだ。

 人間はそれぞれ別個の生き物である。他人のことは、基本的にわからない。他人のことがわかるためには、相手と「同化」しなくてはならない。「同化」が、この映画のテーマである。
 ジョシュ・ハートネットは警官時代に殺人犯(現代彫刻家)を追いかけているうちに、犯人と「同化」してしまう。人間の美は苦悩にある、という彫刻家の「思想」を完璧に理解してしまう。犯人である彫刻家は、ジョシュ・ハートネットに自分の知っている「美」を、わざわざことばにして「苦悩こそが現代人の美である」と伝えると、当然のことのように(?)、ジョシュ・ハートネットに狙撃されて死んでゆく。彫刻家は、ジョシュ・ハートネットという「後継者」を必要としていたのだ。「後継者」ができたから、もう生きている意味がない。
 このあと、「苦悩の美」を知ってしまったジョシュ・ハートネットは精神を病み、職を失って、いまは私立探偵をしているという設定である。その彼のもとに、仕事が舞い込む。それは、他人の痛みを自分の肉体で引き受けることができるという超能力(?)をもった木村拓哉を探し出すという仕事である。
 木村拓哉はいわば現代のキリストなのだが、その他人の痛みを自分の肉体に引き受け、その結果として他者が元気になるという「同化」のありかたがとても気持ち悪い。
 人間というのは不思議な生き物で、他人の肉体の痛みをわかる生き物である。たとえば道で腹を抱えてうずくまっている人。そういう人を見れば、あ、このひとはおなかが痛いんだとだれでもわかる。だが、それは「わかる」ということであって、「同化」ではない。「同化」ではない一般人の「感覚」(能力?)を発展させる形で、木村拓哉は他人の痛みを自分の肉体で引き受けている。そして、それは「美」として「苦悩」をかかえる人々から称讃されている。というよりも、単に、奇蹟として求められているだけかもしれないけれど。
 この木村拓也の「同化」は、ジョシュ・ハートネットの犯人と「同化」してしまうのととても似ている。「自分」ではなく、「他人」になってしまうからである。犯人逮捕も、病気(けが)で苦悩している人を救うのも、同じ「他人になるという同化」作用なのである。他者とジョシュ・ハートネット(あるいは木村拓也)が互いに近づいてきて「同化」するのではなく、一方が他方に「同化」するだけである。
 こういう「同化」であるからこそ、そこにもうひとつの「同化」が加わることができる。加えることができる。
 イ・ビョンホンはやくざ。彼は一見、何の苦悩もかかえていないように見えるが、自分の具体化できない苦悩(得体のしれない不安という苦悩、死への不安というものかもしれない)を誰かに押しつけようとしている。ジョシュ・ハートネットも木村拓哉も、他人の苦悩を自分の方に引き寄せ、「同化」するのに対し、イ・ビョンホンは自分の苦悩を相手に押しつける。だれかれ構わず押しつける。他人が苦悩するのを見て、自分の苦悩が軽減するのと感じる。他人が死ぬのを見て、自分は生きていると感じる。
 最後にイ・ビョンホンが苦悩を押しつける相手は木村拓哉である。木村拓哉は、そのときキリストさながらに、イ・ビョンホンに対して「許す」という。
 クライマックスといえばクライマックスだが、なんとも気持ちが悪い。ことばで「許す」なんて言ってしまって、「肉体」はどうなるのだ。木村拓哉の肉体は、イ・ビョンホンの肉体を許しているのか? そこで許されているのは「暴力」ではないのか? そこをあいまいにしたまま、「神」(父)にストーリーを転嫁してしまう。ぞっとする。せっかく木村拓也の顔に蛆虫まで這わせたのだから、「父」とか「許す」ということばは最低限避けるべきだろう。ことばでストーリーを終わらせては映画にならないだろう。




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『田村隆一全詩集』を読む(111 )

2009-06-10 00:20:51 | 田村隆一

 「紙上不眠」を書いていた時代(1946年ごろ)の作品には、田村の思想がうごめいている。キーワードとなることばがぶつかりあいながら、互いの動きを手さぐりをしているようなところがある。
 「不在証明」。その1連目。

風よ おまへは寒いか
閉ざされた時間の外で
生きものよ おまへは寒いか
わたしの存在のはづれで

 「閉ざされた時間」と「わたしの存在のはづれ」が、ここでは「同じもの」である。「風」と「生きもの」も「同じもの」であり、それに対して、田村は「寒いか」と問いかけている。
 「わたしの存在のはづれ」という表現は非常に抽象的だ。「はづれ」は「外れ」とも書く。そうすると「時間の外」の「外」と「はづれ」は「同じもの」になり「閉ざされた時間」と「わたしの存在」も「同じもの」になる。
 「わたし」を田村は「時間」と考えていることになる。
 そして、「時間」に「閉ざされた時間」があるということは、「開かれた時間」というものもどこかに想定されていることになる。同じように「開かれたわたしの存在(わたしという存在)」もどこかに想定されていることになるだろう。
 ここで田村がおこなっていることは、田村自身の「ことば」の定義である。あることばを別のことばで定義する。「重ね合わせる」ことで、「ことば」に田村独自の「意味」を持たせようとしている。「流通している」ことばではなく、田村独自のことばを手さぐりしているのである。

 いま、私は、「定義」をことばを「重ね合わせる」と書いたが、この「重ねる」は2連目以降に出てくる。

谷間で鴉が死んだ
それだから それだから あんなに雪がふる
彼の死に重なる生のフィクション!
それだから それだから あんなに雪がふる
不眠の谷間に
不在の生の上に……

そのやうに風よ
そのやうに生きものよ
わたしの谷間では 誰がわたしに重なるか!
不眠の白紙に
不在の生の上に

 「閉ざされた時間の外れ」と「わたしの存在のはづれ」。そのどちらが「死」であり、どちらが「生」なのか、よくわからない。それはたぶん、どちらでもいいのだと思う。「矛盾」ではないけれど、まったく別の「もの」(こと)がふたつあり、それが融合せずに向き合っている。それを「重ねる」とは、ある意味で「融合」させることでもある。このとき問題なのは、どちらが「死」、どちらが「生」であるかという判断ではなく、(どちらが「矛」で、どちらが「盾」という判断ではなく)、そういうものを「重ねる」という意識である。
 「重ねる」ために何をすべきなのか。田村は、この時点では、まだ「答え」を探り当ててはいない。ただ、そこに「答え」があるらしいと「予感」して書いている。

 この詩の1連目では「閉ざされた時間」と「わたしの存在」は「同じもの」だった。そして、2、3連目を読むと、「わたしの存在のはづれ」と「不在の生」もまた「同じもの」である。ということは「閉ざされた時間」というのは「不在の生」ということになる。
 このころ、田村は「わたしの存在」(わたしという存在)は、何もせずにそこに存在するだけでは「不在の生」なのだと感じていたことになる。
 「実在の生」(と、かりに呼んでおく)は、どこにあるのか。どうすれば、それを手にいれることができるか。
 田村のことばは、その「実在の生」をもとめて動いてく--そのことを暗示する初期の作品である。



ぼくの中の都市 (1980年)
田村 隆一
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