西岡寿美子「花山で」(「二人」279 、2009年06月05日発行)
西岡寿美子「花山で」は花見の記憶と今の花見を重ね合わせている。文体が少し変わっている。読みながら、「現実」を書いているという印象がしない。そこから「現実」というものを私は感じることができない。
花見がいつもうまくいかなかったということなのだが、その文体が不思議に「物語」じみている。いまとは別世界という感じがする。書かれている「時間」に飲み込まれずに、「いま」「ここ」に踏みとどまって、遠い「時間」を描写している感じがする。「現実」を感じられないというのは、そういう意味である。
「生業」「区々」「習いとした」ということばのせいだろうか。「髪飾りや衣服の彩りになる落花だったり」というような、それだけで一篇の詩のような行のためだろうか。
詩のつづき。
この3連目の、「三組の夫婦がいて/二組半までが失せてしまった」の「二組半」に私は驚いてしまった。夫婦を一組二組と数えるのはわかるが「半」という見方は私にはない。西岡は、どこか、非常に「冷徹」な感じで世の中をみている。単位、尺度が、独特なのだ。
私は最初、この詩の文体を「物語」と感じたが、「物語」というより、たとえば夫婦のうちのひとりが死んでしまった場合を「半組」と数えるような、独特の尺度で世界をみているので、それが「いま」「ここ」から、分離したもの「現実」ではないもの、「物語」に見えてしまうのだ。
西岡は、自己と世界の「分離」を不思議な冷静さで受け止めることができる詩人なのかもしれない。
「二組半」の夫婦。つまり、5人。「五つの視線」。その冷静な数えかた。そして、酒や馳走を勧めながら「さすがに無理なお勧めですよね」という冷徹な現実感覚。ふつうは、無理とわかっていても、その無理の中へ「ことば」の力を借りて入っていく。ところが、西岡は「ことば」の力を借りてそういう世界へ入っていくのではなく、そういう世界から自分を切り離すのである。
西岡にとって「ことば」は、いまここにないものを見るための手段というよりも、いまここにないものを「見てしまったということ」から引き返すための方法なのである。「物語」をつくり、そのなかに入っていく、そのなかで感情が満足するまで動き回るのをあじわう--というのではなく、「物語」をつくることで、自分の感情が何かに「汚染(?)」されるのを回避するかのようである。
「あなたも あなたも あなたも あなたも/そして新入りのあなたも」という書き方には、4人は先に亡くなり、1人がその後に(たぶん昨年?)亡くなったという「時間」の経過が含まれている。亡くなった仲間さえ「時間」の区別ではっきり識別している。「亡くなった仲間」と「ひとつづき」の中には含めることをしない何か非常に冷静な認識方法というものが、西岡にはある。
そして、西岡は、そういう自己の認識方法を意識した上で、自己を演じる。ふるまう--ということばが、いいのかもしれないが……。「物語」へ向けて、自己を「物語化」してみせる。「物語化」したまま、それをことばにする。
現実を「物語」にして、そのあと、その「物語」から「わたし」を「物語」にする。ふたつの物語が触れ合って、その触れ合いのなかに、詩を動かす。ことばはふたつの物語を行き交うために、なんだか不思議なものになる。
西岡寿美子「花山で」は花見の記憶と今の花見を重ね合わせている。文体が少し変わっている。読みながら、「現実」を書いているという印象がしない。そこから「現実」というものを私は感じることができない。
花は水源山の南平(みなみひら)だが
生業も区々だし
その年最良の見頃に
全員の都合を合わせるのは難しかった
多くが旧街(ふるまち)でるあ南から五百
新開地である来たからわたしが一キロ
双方から花山へ落ち合うのを習いとした
どんなに周到に設定しても
花は一、二分咲きだったり
髪飾りや衣服の彩りになる落花だったり
陣取った途端に雨に降り出され
敷いたゴザを引き被って走り戻るなど
つまり見頃の花時に行き合わせたことは一度もない
花見がいつもうまくいかなかったということなのだが、その文体が不思議に「物語」じみている。いまとは別世界という感じがする。書かれている「時間」に飲み込まれずに、「いま」「ここ」に踏みとどまって、遠い「時間」を描写している感じがする。「現実」を感じられないというのは、そういう意味である。
「生業」「区々」「習いとした」ということばのせいだろうか。「髪飾りや衣服の彩りになる落花だったり」というような、それだけで一篇の詩のような行のためだろうか。
詩のつづき。
三組の夫婦がいて
二組半までが失せてしまった
みながみな何かしらの創り手で
その妻で
仲間で
上下十歳ほどを同世代と見なせば
どの人も十全の生だったか
と考えればいずれも非業の感に囚われてならぬ
やがてのわが姿もそれであろう
この3連目の、「三組の夫婦がいて/二組半までが失せてしまった」の「二組半」に私は驚いてしまった。夫婦を一組二組と数えるのはわかるが「半」という見方は私にはない。西岡は、どこか、非常に「冷徹」な感じで世の中をみている。単位、尺度が、独特なのだ。
私は最初、この詩の文体を「物語」と感じたが、「物語」というより、たとえば夫婦のうちのひとりが死んでしまった場合を「半組」と数えるような、独特の尺度で世界をみているので、それが「いま」「ここ」から、分離したもの「現実」ではないもの、「物語」に見えてしまうのだ。
西岡は、自己と世界の「分離」を不思議な冷静さで受け止めることができる詩人なのかもしれない。
揃ってお出ましなのですね?
酒肴を広げようとするわたしを見てられるのですね?
道理で頬が五つの視線に刺されて痛い
杯を乾して頂戴
手作りの馳走もつまんで頂戴
とまでは さすがに無理なお勧めですよね
あなたも あなたも あなたも あなたも
そして新入りのあなたも
「二組半」の夫婦。つまり、5人。「五つの視線」。その冷静な数えかた。そして、酒や馳走を勧めながら「さすがに無理なお勧めですよね」という冷徹な現実感覚。ふつうは、無理とわかっていても、その無理の中へ「ことば」の力を借りて入っていく。ところが、西岡は「ことば」の力を借りてそういう世界へ入っていくのではなく、そういう世界から自分を切り離すのである。
西岡にとって「ことば」は、いまここにないものを見るための手段というよりも、いまここにないものを「見てしまったということ」から引き返すための方法なのである。「物語」をつくり、そのなかに入っていく、そのなかで感情が満足するまで動き回るのをあじわう--というのではなく、「物語」をつくることで、自分の感情が何かに「汚染(?)」されるのを回避するかのようである。
「あなたも あなたも あなたも あなたも/そして新入りのあなたも」という書き方には、4人は先に亡くなり、1人がその後に(たぶん昨年?)亡くなったという「時間」の経過が含まれている。亡くなった仲間さえ「時間」の区別ではっきり識別している。「亡くなった仲間」と「ひとつづき」の中には含めることをしない何か非常に冷静な認識方法というものが、西岡にはある。
そして、西岡は、そういう自己の認識方法を意識した上で、自己を演じる。ふるまう--ということばが、いいのかもしれないが……。「物語」へ向けて、自己を「物語化」してみせる。「物語化」したまま、それをことばにする。
触れます
感じています
そこで
声なし手振りなし
人には酔余の宙に物言うひいやりとした
奇異なわたしの花狂いの所作と見えましょうが
ただこの日この時の一期
生者死者交じり没(い)入り没入って
花山の陽炎と溶け歓を尽くすといたしましょう
現実を「物語」にして、そのあと、その「物語」から「わたし」を「物語」にする。ふたつの物語が触れ合って、その触れ合いのなかに、詩を動かす。ことばはふたつの物語を行き交うために、なんだか不思議なものになる。
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