詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(15)

2009-06-30 09:45:11 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 西脇の頭のなかをかけまわる音楽。それは、無というか、一種の空白(空、白)のようなものかもしれない。無、空、白--それが、いま、ここにないものを誘い出す。そして、そのときの「白」の印象が絵画的(色彩的)な何かをも同時に誘い込むのかもしれない。
 「失楽園」のなかの「風のバラ」。その3連目。

ラムネのビンは青い おれの面前で
クレベルの本屋の主人がステキに悲しんでゐる

 この連の2行目。「スキテ」が、私が「無・空白」と呼ぼうとしているものである。「すてきに悲しむ」という表現は日常のことばの運動から逸脱している。悲しみ(悲しむ)とすてきは、ふつうの感覚では結びつかない。どちらかといえば、対極にあることばである。その結びつき自体が、私たちに、ことばの運動の見直しを迫る。
 一瞬、何のことかわからなくなる。
 「ステキ」も「悲しんで」もわかるのに、そのふたつが結びつくとき、何が起きたのか瞬間的にわからなくなる。頭のなかで、それまでの「文体」が脱臼を起こしてしまう。脱臼というのは結びついていた関節と関節が外れ、関節と関節のあいだの関係が「無」になる、関節と関節のあいだに「空白」が生じることをいう。そして、その脱臼の瞬間、いままでしっかり連動していた関節と関節が、意識できない領域へ飛躍する。
 その「文体」の錯乱のようなもの--それに対して、私は「音楽」を感じる。
 なぜ、音楽、なのか。
 たぶん、そのときの「ステキ」が意味ではなく、音としてしか信じられないからなのだと思う。そこには音だけが、音として純粋にある。
 西脇は「ステキ」とカタカナで書いている。それは、意味不明な外国語、音だけで意味を持たない外国語のように響いてくる。クレベルの本屋の「クレベル」のように。「クレベル」にも意味はあるかもしれないが、その意味を越えてただ「クレベル」で充分である。「ステキ」も同じだ。「ステキ」と書きながら、西脇は「外国語」の音の響きを聞いているのかもしれない。意味になる前の、つまり、意味の中断した「音」を聞いているのかもしれない。--この意味と音との脱臼。無関係性。それが音楽だ。

 こうした音楽が、西脇の詩には頻繁にあらわれてくる。

 西脇の音へのこだわり(?)というか、不思議な感覚は、その前の行にもある。
 「ラムネのビンは青い」という素朴なことばのあとの「面前」ということばの響きあい。意味はわかる。そして、その意味を超越して「めんぜん」という音が「ラムネのビン」と響きあう。
 「ラムネ」を西脇は、どう発音したのだろう。私は「RA・M・NE」と発音してしまう。「ム」の音から母音が消え、Mの音だけが残る。そうすると、それは表記上は「ム」だけれど音そのものは「ん」に近い。「ラムネのビン」のなかに「ん」が2回。「面前」にも「ん」が2回。それが響きあうのである。
 といっても、これは西脇が考えてそうしているのではなく、無意識にそうなってしまうのだろう。
 意味ではなく、音そのものをことばのなかに聞いてしまう。そして、その耳が「ステキ」ということばに「反乱」を迫っている、あるいは「反乱」を誘導しているようにも思える。音楽がことばを酔わせるのである。酔った勢い(?)で、ことばが、音そのものとして意味から逸脱していく。その瞬間の輝きが楽しい。

 西脇には、また次のような文体の音楽もある。最終連。

昨夜噴水のあまりにやかましきため睡眠不足を
来たせしを悲しみ合つた

 漢文風の文語文体と和語の結びつき。「ステキ」のなかには日本語とヨーロッパ言語の出会いがあるが、ここには日本語と漢語の出会いがある。そして、そういう異文化言語が出会うとき、そこでは「意味」が出会っているのではなく、「音」が出会っているのである。音と音とが出会って対話している。その音の楽しみ--音楽のなかへ、意味がすこしだけ間借りしている。
 このときの陶酔。快感。それを私は「音楽」と感じる。
 つづく4行もステキだ。

ピラミッドによりかかり我等は
世界中で最も美しき黎明の中にねむり込む
その間ラクダ使ひは銀貨の音響に興奮する
なんと柔軟にして滑らかな現実であるよ

 私は西脇のことばづかいの音響に興奮して目が覚める。



西脇順三郎絵画的旅
新倉 俊一
慶應義塾大学出版会

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ウディ・アレン監督・脚本「それでも恋するバルセロナ」(★★★★)

2009-06-30 00:31:46 | 映画

監督 ウディ・アレン 出演 スカーレット・ヨハンソン、ペネロペ・クルス、ハビエル・バルデム、パトリシア・クラークソン、レベッカ・ホール

 ウディ・アレンは女優のあつかいがとてもうまい。ウディ・アレンの映画に出演し、アカデミー賞主演・助演女優賞をとった女優は何人目だろうか。ダイアン・キートンが「アニー・ホール」で主演女優賞をとったのを筆頭に数人はいるのではないだろうか。ペネロペ・クルスは、この映画で助演女優賞を獲得している。

 映画はペネロペ・クルスが登場してからが、俄然輝きだす。
 特におもしろいのが、ハビエル・バルデムとの喧嘩。スペイン語でまくしたてる。そのたびに男は「英語で話せ。スカーレット・ヨハンソンに失礼じゃないか」という。男の方は適当にスペイン語で話している癖にである。ハビエル・バルデムは、簡単にいうと、その場しのぎで適当にことばを発している。自分の都合だけで、女と向き合っている。
 ペネロペ・クルスが登場するまで、2 人の女をその場その場で適当に口説いているだけ、というのが、この瞬間露骨に分かる。根っからのプレイボーイであることがわかる。
 これに対して女の方は3 人とも真剣なんですねえ。まともに男と向き合う。
 特に、ペネロペ・クルスが真剣。「英語で」と言われたら、スペイン語を英語に変える。だいたいスペイン語になってしまうのは、感情が高ぶって、思わず本心が出るとき。そうなるたびに、そのことばの暴走を抑えようとして、ハビエル・バルデムは「英語で」という。頭がいいというか、ずるいというか、ちょっと真似したい技術です。
 これは、ハビエル・バルデムがスペイン語でまくしたてるとき(スカーレット・ヨハンソンに聞かれたくないことをいうとき)、それに対してペネロペ・クルスが「英語で」と注意しないのと対照的。ぺネロぺがそう言わないのは、ハビエルがスペイン語を口にするとき、ぺネロぺにだけ向き合っていることがわかるからなんですねえ。自分に真剣に向き合って男が語りかけてくるから、そのことばが怒りや嘘であっても、女は正直に反応してしまう。
 このあたりの女心の的確なつかみ方、うまいですね。
 そして、ペネロペ・クルスがそれにこたえる真摯な演技。かわいいですね。怒りの表情のなかに、怒りを超えて愛情があふれる。こんなに好きなのに、という純粋さがあふれる。もともとペネロペ・クルスは美人だけれど、その美人さに純粋さが加わり、きらきら輝く。もしかしたら、ほんとうにやきもち、怒り? まあ、それもあるのかも。ペネロペ・クルスとハビエル・バルデムは恋仲らしので。――そういうことも含めて、ウディ・アレンは、役者に演技をさせるというより、役者にあわせて「役」を作っていくのかもしれない。
 ある意味では、これは「アニー・ホール」からつづくウディ・アレンのプライベートフィルムなのだ。ウディ・アレンは出演しないが、役者は「地」で出演する。もちろん、全員が「地」で出ることは難しい。そして「主役」が「地」の場合は、ストーリーそのものが「地」になる(「アニー・ホール」ですね)ので、ストーリーが限定されてしまう。脇役(助演)に「地」をからませると、ストーリーが脇からしっかり支えられ、映像に豊かさが加わる。映画作りそのものが、ウディ・アレンはとてもうまいのだと思う。

 バルセロナの街のとらえ方もとても美しい。バルセロナは一部の旧市街をのぞけば、マドリードと違ったとても人工的な街だ。アメリカでいえばニューヨーク。道路は整然と碁盤の目のようになっていて道に迷うようなことはない。そういう機械的な街で、そこから逸脱するように存在するガウディの建築物――その、いのちのほとばしりゆえの「ゆがみ・ねじくれ」の曲線と、恋愛4 角関係(?)をからませる。1 対1 の恋愛から逸脱してゆく感情と、ガウディの建物・公園がとても似合う。
 機械的なものから逸脱する力、それが美しい。恋も、逸脱するから輝く。

 もっとも、この映画で描かれる恋は完結しない。未完成。ちょうどガウディのサグラダファミリアのように。この終わり方も、いかにも「プライベートフィルム」的でいいな。完結すると、ストーリーになってしまうからね。
 ウディ・アレンは、この映画ではストーリーを描こうとしていない。スペイン、バルセロナをフィルムに定着させたかったのだろう。
 そして、それは成功していると思う。スペイン人気質の描き方が実に楽しい。真夜中まで開いているレストラン、さらに真夜中なのにバルセロナからオビエド(地中海側から北の大西洋に面した街)まで行ってしまうところなど、ひたすら逸脱する。スペイン人ならではの行動だろうと思う。スペイン人には時間も距離も関係ない。大切なのは「親密感」。人と人とが親密なら、それが複雑な関係でも関係ない。親密になれるなら何でもする。スカーレット・ヨハンセン、ペネロペ・クルス、ハビエル・バルデムの関係は、いわゆる三角関係だけれど、3 人の「親密感」があふれているから、それは三角関係にはならない。「理想」の関係になる。「親密感」が最高なら、それでいいじゃないか。きっと、そうなんだろうな。
 スペインはいいな。行きたいなあ。出会った人と親密になり、街をぶらぶらしたい。夜遅くまでワインを飲んで話し続けたい。そんな気持ちにさせられる。映画のストーリーはこの段階で関係なくなる。とはいいながら、きっとスペインには、ペネロペ・クルスみたいな美人がいる、そして親密な関係になれる、なんて勝手に夢見るのだけれど。

 音楽も、気楽で、とてもよかった。





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