詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(13)

2009-06-28 14:22:54 | 誰も書かなかった西脇順三郎

恋歌

君は杏子の唇をもつたおれの牧場である
二つの青い千鳥が
君の目の静かな水面をかき乱す
さうしておれはおれの疲労した魂をその中で洗ふ

 もし西脇が視力の詩人だったら、書き出しはこんなふうにはならないだろうと思う。もっとイメージがわかりやすいように音の流れをととのえるだろう。
 西脇の詩には必要以上に音の乱れがある。不規則な運動がある。

さうしておれはおれの疲労した魂をその中で洗う

 この行の「さうしておれはおれの」は意味だけを考えれば「おれの」で充分である。「おれの疲労した魂をその中で洗う」だけで、「おれ」が「君の目」にうっとりしていることがわかる。
 しかし、そうすると、何かが違ってくる。もし、最初の4行が、

君は杏子の唇をもつたおれの牧場である
二つの青い千鳥が
君の目の静かな水面をかき乱す
おれの疲労した魂をその中で洗ふ

 という形であったら、イメージが速く動きすぎる。強くなりすぎる。ほんとうに書きたい行がどこなのか、錯乱するイメージの中で消えてしまう。
 「さうしておれはおれの」という間延びしたことばは、「わざと」間延びさせているのである。速いリズムのなかにわざと湯くりしたリズムを混ぜる。そうすると、そのゆっくりしたリズムの内に、過ぎ去ったことばが舞い戻ってくる。そのイメージが戻ってくるのを待って、もう一度イメージをすばやく動かす。
 「疲労した魂をその中で洗ふ」
 このことばのなかにも、わざと「ゆったり」したもの、過ぎ去ったことばを呼び戻す工夫がされている。「その」。指示代名詞。「君の目の静かな水面」を指すのだが、この「その」の先行するイメージを呼び戻すという働きのために、ことばがただ疾走するのではなく、ダンスのようなリズムになる。そして「洗ふ」というゆったりしたことばが気持ちよく響く。それは「さうして」というゆっくりしたことばのリズムとも響きあう。

 西脇はまたことばがもっている「平易さ」を有効につかってリズムの変化を創り出すとも言える。「さうして」「その」にそういう働きがあるが、また別の種類のものもある。 4連目。

彼女等は旅役者の偉大なる悲劇であつた
彼女等は黙考沈思する雲であつた
彼女等はメトロのガラス窓で夢みるのであつた
彼女等は可愛い馬鹿者であつた
彼女等は暑い掌中に溶解する雪であつた
彼女等は支那縮緬の薔薇の樹であつた
彼女等は雨の降る夕暮であつた
彼女等は露西亜人かブラジルの人であつた

 「沈思黙考」ではなく「黙考沈思」。不思議な漢語とかけ離れた「もの」の結合によるイメージの錯乱のなかにあって、

彼女等は可愛い馬鹿者であつた

という1行。誰でもがわかることば。その息継ぎ。西脇の音楽には、息継ぎがあるから苦しくないのだ。どんなに飛躍しても、それが苦にならないのだ。




詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド (大人の本棚)
新倉 俊一
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坂多瑩子『お母さん ご飯が』(2)

2009-06-28 00:08:30 | 詩集
坂多瑩子『お母さん ご飯が』(2)(花神社、2009年06月25日発行)

 「茂み」という作品がある。認知症の母がいる施設を訪ねたときの詩である。とても好きだ。その全行。

誰か知らない人の記憶のなかに立っている
夢を見る
そこは
緑がかっていて
停車場があり
ごくまれにだが 汽車がやってくる
今朝
施設にいる母のところに行った
 この人誰ですか
私を指さして看護師さんが聞く
母は
 私よ
とこたえた
天使は記憶を持っていいないと
昨日 本で読んだけれど
頭のなかにはつながっている線みたいなものがあって
どこで切れば
今だけになれるのか
なぜ帽子をかぶるのと聞くと
だって こっちのほうがあれだもの
ぼそぼそという
母のまわりにあるものはぼやけている
はっきりしたカタチのものは
なにもないが
すべてはっきりしたカタチを持っている
小さなものまでが自らのカタチを誇示している
私は
茂みに石を投げた
石は草の上に落ちるはずだったが
何かにあたった
澄んだ音をたてた

 「頭のなかにはつながっている線みたいなものがあって」の「つながっている」。これが、いまの坂多の「思想」である。
 すべては「つながっている」。
 それは1行目から6行目までが「夢」を描き、それにすぐ「つながって」、今朝、ときょうのできごとが語られるのに似ている。きっと汽車(電車)に乗って、「私」は母に会いに行った。そして、「夢」のなかの「誰か知らない人」として、「母」に会う。もちろん「母」は知らない人ではないが、認知症の母は知らない人のようだ。つながっているのに、つながってくれない。つながっていないように、そこに存在している。それは、母にとっても同じである。何とつながっていて、何とつながっていないのか、区別がつかない。いや、区別はついているのだが、その区別を、現実とつながっていることばでは言い表すことができない。現実とつながっていることばでは言い表せないけれど、自分の気持ちとつながっていることばでは言い表すことができる。自分の気持ちとだけつながっていることばで語ってしまう。

だって こっちのほうがあれだもの

 「こっち」も「あれ」も、母の気持ちとしっかり「つながっている」。そして、そのことばは、現実と、あるいは、現実を共有している他人とと言い換えればいいだろうか、自分以外の気持ちとは「つながっていない」。
 こういうことを、坂多は「カタチ」ということばであらわしている。
 ひとりの気持ちとだけしっかり「つながっている」ものはあるのだ。それは他人の気持ちとはつながっていないが、しっかり存在し、ときにはそれを「誇示」している。
 そして、その他人の気持ちとはつながっていないはずのものが、つまり、坂多から言い直せば、坂多のきもちとはしっかりつながっていないはずのものが、ときには、ふっと見えるときがある。

だって こっちのうほがあれだもの

といわれて、

あ、そうだね そっちのほうがあれだものね

 と反応する瞬間がある。
 それは坂多と母がどこかでつながっていて(血でつながっていて、と言ってしまうと簡単すぎて、きっと違うと思う)、その「つながり」が、読者にはわからない「こっち(そっち)」「あれ」を「はっきりしたカタチ」で見えてしまうのである。
 それは、茂みに投げた小石が何かにぶつかりカチリと「澄んだ音」を立てるのに似ている--坂多は、そう書いている。それが何かわかるのではないけれど、そこにカタチがあるものがあると、はっきりわかる。その「証拠」が「澄んだ音」として、坂多に「つながって」くる。
 それは「見えないつながり」である。見えないけれど、気持ちにはしっかりと実感できる「つながり」である。

 それは別ないいかたで言えば、「夢」と「現実」の関係なのかもしれない。
 冒頭に坂多は昨夜(今朝方?)みた「夢」を書いていたが、その「誰か知らない人」というのは、ほんとうにまったく知らないわけではない。知っているけれども、いま、ことばとして「名前」を持たないような人なのだ。坂多の気持ちの奥で、見えない糸で「つながっている」人なのだ。だからこそ、その知らない人の記憶のなかに立つことができるのだ。何の「つながり」もない人の記憶のなかになど立てない。そのときの「夢」の停車場も汽車も、坂多の何かとしっかり「つながっている」。
 そして、その「夢」の「緑」と最後の部分の「茂み」「草」にも「つながっている」。
 母と会話しながら、坂多は昨夜の夢を思い出している。あの夢は、いまの、この現実とどこかで「つながっている」とはっきり実感している。
 だからこそ、6行目と7行目のあいだに、「あき」がない。連のくぎりを明確にする1行あきがない。
 まるで、「今朝」以降の描写もすべて「夢」あるかのように読むことができる。
 たしかに「夢」かもしれない。ここに書かれていることがらは、坂多の「夢」ではなく、坂多の母が見ている「夢」であり、それを坂多が「代筆」しているだけなのかもしれない。
 そういうことが可能なのは、坂多と母がしっかり「つながっている」からである。「つながっている」という気持ちで「つながっている」からである。「つながっている」という気持ちで「つながる」とき、すべてのものは透明になる。もし、それが「ぼやけて」みえるならば、それは「透明すぎて」ものが見えないための錯覚なのである。見るかわりに、耳が「澄んだ音」をしっかり聞いているのだから。

 坂多と母がしっかり「つながっている」ように、視力と聴力もしっかり「つながっている」。「夢」と「現実」が「つながっている」ように、視力と聴力も「つながっている」。
 そんなことを考えた。


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