詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

ダーレン・アロノフスキー監督「レスラー」(★★★★)

2009-06-17 12:32:35 | 映画
監督 ダーレン・アロノフスキー 出演 ミッキー・ローク、マリサ・トメイ

 ミッキー・ロークがミッキー・ロークを演じている――という感じの映画。過去に人気を博したが、いまでは誰も見向きもしない。
 彼を支えているのは「過去」の栄光だけ。ステロイドを注射し、髪を金色に染め、肌を日焼けマシーンで焼き、外見だけ強そうなレスラー。もう体は動かない。動かない体を血で飾り上げる。血を流しながら、不屈の魂で相手に立ち向かう。そのために隠したカミソリを使い、自分で額を切る。相手を傷つける「武器」ではなく、自己演出のための「道具」。いうなれば、血が観客をひきつける「武器」。
 それは、いまのミッキー・ロークにとって、「醜く崩れた肉体」が観客をひきつける「武器」というのに似ている。他の人は知らないが、私はミッキー・ロークがどんなに醜く崩れた肉体をしているかにまず関心があり、この映画を見に行った。それは確かに「武器」であった。尻をさらけだして、自分でステロイドを注射するシーンまで見せている。醜いウソ。そして、ウソしか人に伝えるのもがないのである。ウソによって、いっそう醜くなる肉体が強烈である。
 対照的なのがマリサ・メイトの肉体である。ミッキー・ロークの片思い(?)のストリッパー。年をとっていて、若い女性の美しさにはかなわない。醜い。醜いのだけれど、そこにはウソがない。ダンスもうまいというよりはヘタなのだが、そこにはウソがない。娘を抱え、懸命に生きている。その姿はミッキー・ロークとおなじようにみじめである。でも、ウソがない。(彼女の演技はなかなかすばらしく、彼女の演技があってはじめてミッキー・ロークの肉体が真実になる。)
 ミッキー・ロークはマリサ・トメイから、ウソをやめて、ほんとうを生きるよう助言されるが、うまくいかない。わかれて生きている娘から家族であることを拒絶される。彼にとって「ほんとう」は結局、プロレスファンの歓声だけである。だから心臓のバイパス手術を受け、医師からプロレスをやめるよう言われているのに、死を覚悟して最後の試合に出場する。相手がミッキー・ロークを心配して、率先して「負け」を演出しようとするが、それを拒んで、「決め技」を披露しようとする。
 ウソ(プロレスって、ウソだからね)しか生きられない――その姿が、おちぶれたミッキー・ロークに重なる。たしかプロボクサーに転身した時代もあったようだけれど、結局、ミッキー・ロークは役者しかすることがない。肉体をさらけだして、ウソという芝居を生きるしかない。
 泣かせます。最後の最後に泣ける映画です。


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誰も書かなかった西脇順三郎(2)

2009-06-17 09:51:04 | 誰も書かなかった西脇順三郎

カプリの牧人

春の朝でも
我がシシリヤのパイプは秋の音がする。
幾千年の思ひをたどり

 ここには「音」ということばがはっきりつかわれている。西脇順三郎は「音」の詩人、音楽の詩人だと私は思う。
 「春」と「秋」の出会いに、はっとするが、そしてはっとしたとこで忘れてしまいそうだが、「パイプの音」って、何?
 パイプは音を聞くためのものではない。たばこを吸うためのもの。私はたばこを吸わない(吸ったことがない)のではっきりしたことは書けないが、たばこは香りを愉しむためのものだろう。嗅覚のためのものだろう。
 それなのに、西脇は「秋の音」と書いている。耳でパイプを愉しんでいる。

 人間の感覚は、肉体の中でいりまじる。融合する。そして、そのとき何が出てくる。「秋の色」(視覚)、「秋の手触り」(触覚)、「秋の味」(味覚)ではなく、「秋の音」(聴覚)。意識的か、無意識か、わからない。けれど、ここに「音」が出てきたことが、私にはとても楽しい。



Ambarvalia (愛蔵版詩集シリーズ)
西脇 順三郎
日本図書センター

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安英晶『虚数遊園地』(2)

2009-06-17 00:48:33 | 詩集
安英晶『虚数遊園地』(2)(思潮社、2009年05月31日発行)

 1行の中に、複数の「時間」がかかえこまれ、それが噴出してくる。あらゆる存在が複数の「時間」を生きている。そして、「複数の時間」を生きるということは、そこには当然「死」も含まれることになる。

「紅梅」の1、2連目。

あれ、
いち枚 ゆめのまえにひろげ(なにを?

生きるとか 死ぬとか うすいゆめ
いち枚 和紙のようなもののふくらみに 包んで
ことばなんて やくたいないものを
ころがしている

 「生きるとか 死ぬとか うすいゆめ」。生と死は「とか」というあいまいなことばで同列に並んでいる。そして、それは「ゆめ」のように区別がないのだ。
 それは書き出しからはじまっている。
 書き出しの「あれ、」のなかに、すでに「複数の時間」がある。「あれ、」というのは驚きの声である。驚きというのは、ある存在に、別の存在を感じたとき生まれる。書き出しから、「いま」「ここ」にあるものとは違う存在を感じて安英は書きはじめる。そして、次の行。

いち枚 ゆめのまえにひろげ(なにを?

 括弧は、開かれたまま、つづいていく。この開かれたままというのは、そこに「別の時間」が噴出してきて、それが同時に存在していることを示している。
 むりやり(?)この詩に「意味」を持たせようとすれば、誰かが紙をひろげ死を書いている(文を書いている)とでもいえそうなのだが、それは単なることばを動かしていくときに利用している「構造(ストーリー)」のようなものであって、詩は、そういう構造を突き破って動いていくものの中にある。
 1行のことばは、その1行の中にある複数の時間によって破られつづける。
 3連目。

あとすこしで
川にたどりつくはずなんですが
でも/だから(川はもう光ってみえています
川がひかり森がひかり
昼だというのに 月まで光ってきそうな気配

 「でも/だから(川はもう光ってみえています」という行が象徴的である。「でも」と「だから」はどちらでもいいのだ。というよりも、両方であるのだ。「でも」と「だから」が両立するとき、他の存在も両立しはじめる。「川」と「森」は別個の存在であり、これが「両立」するのはあたりまえのように見えるかもしれないが、その「両立」を意識するかどうかは別問題である。「両立」という意識で読まないと、ここでは大切なこと--つまり、1行に複数の時間があるということを見逃してしまう。安英の思想が1行のなかに複数の時間を把握すること、を見逃してしまう。
 複数の時間の「両立」が端的に現れているのが、「昼だというのに 月まで光ってきそうな気配」である。「昼」と「月が光る夜」。それが「両立」する時間が、ここにあるのだ。

 1行に複数の時間が存在する。--そう意識して目をこらすと、次の連から、何が見えるだろうか。

あれ、
ひそと 紅い梅の花 ほころぶよ
そんな 他愛もないこと
あが咲いて
ふが笑って
ほら かき分けてくる
(なにを?

 意識の不連続と連続の不思議さ--意識に連続と不連続があるから、そこには複数の時間が入り込む「間」があるのだ。
 「ひそと 紅い梅の花 ほころぶ」という行と「あが咲いて/ふが笑って」という行のいちばんの不思議さは、前者に「助詞」がないことである。「ひそと 紅い梅の花がほころぶよ」と助詞「が」があっていいはずなのに、助詞が欠落する。そのかわり、その「助詞」は「あが咲いて/ふが笑って」という意味不明の行ではしっかり存在する。
 「あ」も「ふ」もなんだかわからないものである。そういうわけのわからないもの、あいまいな「時間」をしっかり呼び込むためには「が」という「助詞」がつかわれ、具体的な梅の花のほころびには、「が」が省略されている。
 この「が」をつかったり、つかわなかったりする意識の動きのなかに、複数の時間があるのだ。
 ここから、「死」を現実に呼び込むまでは、もう、時間を必要としない。

か、そうか
枝先にあかいもの
ぽっちり咲いて 咲いたようで
どうやら むこう側から 匂ってくる

さて あそこに居すわっているのは人情の残像で
あれ、
ゆめのまえにいち枚 ひろげ
きょうはきれいな梅見の日



幻境
安英 晶
思潮社

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