田中宏輔『The Wasteless Land. Ⅳ』(書肆山田、2009年05月30日発行)
「熊のフリー・ハグ」はたいへん長い詩である。そのなかにおもしろい行がある。75ページの最後の2行。
田中は同じ話しか書いていない。「同じ話」とは、では、どんな話か。それには、実は答えようがない。「同じ」としか言いようがない。
これでは、批評でもなければ、感想でもない、と批判されそうだが、「同じ」としか言いようがないというのが、私が田中の詩集を読んで感じることだ。
別なことば、別な詩で説明してみる。「年平均 6本」という作品がある。
という書き出しで始まる。そして、作品はこのあと「ヒロくん」とぼくとの思い出をいろいろ語りはじめるのだが、
と、突然、もとにもどる。もどるといっても、完全にもどるわけではない。印刷所の労災の話にもどるのではなく、次のようになる。
ずれるのである。労災の指はそのまま労災の指ではなく、ほかの記憶と結びついてよみがえる。そして、新しい感覚を引き起こす。
その繰り返しが「同じ」なのである。「同じ話」なのである。
ただし。
ここには、とても複雑な、というか、ややこしいことがらがひそんでいる。
いま引用した部分でいうならば、「気持ち悪くなっちゃって」の繰り返しである。「同じ話を繰り返し語る」ように、田中は「同じことば」を「繰り返す」。その「繰り返し」が、しかし、複雑なのである。
ケチャップまみれのウィンナーが「気持ち悪く」なったのはなぜなのか。切断された指に見えたからなのか。しかし、これは奇妙なことである。田中は切断された指を実際には見ていない。聞いた話にすぎない。だから、ほんとうに「気持ちが悪い」というときのその「気持ち悪さ」は、実際に体験していないにもかかわらず、それが見えるということ、その想像力のありかたを指しているのかもしれない。頭に浮かんだ「像」と、像を思い浮かべる「頭」。どちらが「気持ち悪い」と言っているのか、判断することはむずかしい。ややこしい。
もしかすると、最初の「気持ち悪くなっちゃって」は「像」に対する感想であり、次の「気持ち悪くなっちゃって」は「頭」に対する感想かもしれない。
そして、その「像」と「頭」の関係は、厳密に言えば別々のことがらであるけれど、もっと厳密に言えば「同じことがら」になる。それは「切り離せない」ことがらだからである。
これが、ミソである。
つまり、「切り離せないことがら」というものが「同じ話」なのである。どんなことがらも、田中という「肉体」と切り離せない。そのときそのときの「像」といえばいいのか、できごとといえばいいのかわからないが、それは、他人から見れば「同じ」ではなく、別のものである。田中は、この詩集のなかで、「付き合ってた恋人」(この、ことばの重複に注目。付き合っていない恋人は恋人ではないのだが、恋人にわざわざ付き合っていたと書くのが、田中の特徴である)がたくさん出てくる。恋人にはそれぞれ名前があり、別々の人間である。けれども、田中にとっては、それは「付き合ってた」ということばのなかで「同じ」になるのだ。「付き合ってた」とわざわざ書いてしまうのは、田中が書いていることが「同じ話」であることを証明する「証拠」(キーワード)なのである。
恋人はそれぞれひとりの人間なのに「同じ」というのは失礼だろうか。失礼かもしれない。けれど、そうではなく、逆に、誰に対しても真摯に向き合っていたということに目を向ければ、とても美しいことかもしれない。失礼も真摯も「同じ話」(同じこと)なのである。
すべては「同じ」。
それは、悲しみと幸福さえも「同じ」ということである。
別れてしまった恋人に言いたいことば。
「不幸」と「幸せ」。それは「同じ」なのだ。田中にとっては、すべては、「同じ」なのである。
田中は、いろいろな作品からの引用だけで詩を書いたことがある。それは、あらゆる作家(詩人)がやはり「同じ」だからである。作家のほかに、恋人のことばも引用する。それは有名な作家も恋人も「同じ」だからである。「語る」ということで、「同じ」になるからである。田中にとっては「同じ」になっるからである。
そうとちゃうやろか。
*
最後に、田中の1行を借りて私はわざと「そうとちゃうやろか。」と書いた。この「そうとちゃうやろか」という反芻もまた田中の「思想」である。そう自問する(問いを自分に向けて繰り返してみる)ことで、「同じ」はさらに増殖する。ずれればずれるほど「同じ」が増えてくる。「同じ」になる。すべてを「同じ」にするために、田中はことばを書く。
「熊のフリー・ハグ」はたいへん長い詩である。そのなかにおもしろい行がある。75ページの最後の2行。
同じ話を繰り返し語ること
同じ話を繰り返し語ること
田中は同じ話しか書いていない。「同じ話」とは、では、どんな話か。それには、実は答えようがない。「同じ」としか言いようがない。
これでは、批評でもなければ、感想でもない、と批判されそうだが、「同じ」としか言いようがないというのが、私が田中の詩集を読んで感じることだ。
別なことば、別な詩で説明してみる。「年平均 6本」という作品がある。
ぼくが20代の終わりくらいのときやったかな
付き合ってた恋人のヒロくんのお父さんが弁護士で
労災関係の件で、それは印刷所の話で
「年平均 6本」とか言っていた
紙を裁断するときに指が切断されたり
機械に手が巻き込まれて
指がつぶれたりする数のことだけれど
という書き出しで始まる。そして、作品はこのあと「ヒロくん」とぼくとの思い出をいろいろ語りはじめるのだが、
そうだ
指の話だった
と、突然、もとにもどる。もどるといっても、完全にもどるわけではない。印刷所の労災の話にもどるのではなく、次のようになる。
そうだ
指の話だった
ヒロくんと別れたあとだと思うのだけれど
4本か5本だったかな
ハーブ入りの
白いウィンナーをフライパンで焼いていて
そのなかにケチャップを入れて
フライパンを揺り動かしていると
切断された血まみれの指が
フライパンのなかでゴロゴロ、ゴロゴロ
とってもグロテスクで
食べるとおいしんだけれ
見た目、気持ち悪くなって
ひぇ~って
気持ち悪くなっちゃって
ずれるのである。労災の指はそのまま労災の指ではなく、ほかの記憶と結びついてよみがえる。そして、新しい感覚を引き起こす。
その繰り返しが「同じ」なのである。「同じ話」なのである。
ただし。
ここには、とても複雑な、というか、ややこしいことがらがひそんでいる。
いま引用した部分でいうならば、「気持ち悪くなっちゃって」の繰り返しである。「同じ話を繰り返し語る」ように、田中は「同じことば」を「繰り返す」。その「繰り返し」が、しかし、複雑なのである。
ケチャップまみれのウィンナーが「気持ち悪く」なったのはなぜなのか。切断された指に見えたからなのか。しかし、これは奇妙なことである。田中は切断された指を実際には見ていない。聞いた話にすぎない。だから、ほんとうに「気持ちが悪い」というときのその「気持ち悪さ」は、実際に体験していないにもかかわらず、それが見えるということ、その想像力のありかたを指しているのかもしれない。頭に浮かんだ「像」と、像を思い浮かべる「頭」。どちらが「気持ち悪い」と言っているのか、判断することはむずかしい。ややこしい。
もしかすると、最初の「気持ち悪くなっちゃって」は「像」に対する感想であり、次の「気持ち悪くなっちゃって」は「頭」に対する感想かもしれない。
そして、その「像」と「頭」の関係は、厳密に言えば別々のことがらであるけれど、もっと厳密に言えば「同じことがら」になる。それは「切り離せない」ことがらだからである。
これが、ミソである。
つまり、「切り離せないことがら」というものが「同じ話」なのである。どんなことがらも、田中という「肉体」と切り離せない。そのときそのときの「像」といえばいいのか、できごとといえばいいのかわからないが、それは、他人から見れば「同じ」ではなく、別のものである。田中は、この詩集のなかで、「付き合ってた恋人」(この、ことばの重複に注目。付き合っていない恋人は恋人ではないのだが、恋人にわざわざ付き合っていたと書くのが、田中の特徴である)がたくさん出てくる。恋人にはそれぞれ名前があり、別々の人間である。けれども、田中にとっては、それは「付き合ってた」ということばのなかで「同じ」になるのだ。「付き合ってた」とわざわざ書いてしまうのは、田中が書いていることが「同じ話」であることを証明する「証拠」(キーワード)なのである。
恋人はそれぞれひとりの人間なのに「同じ」というのは失礼だろうか。失礼かもしれない。けれど、そうではなく、逆に、誰に対しても真摯に向き合っていたということに目を向ければ、とても美しいことかもしれない。失礼も真摯も「同じ話」(同じこと)なのである。
すべては「同じ」。
それは、悲しみと幸福さえも「同じ」ということである。
「ぼくも
きみといて
ぜんぜん幸せちがってた
だけど
いっしょにいなかったら
もっと幸せちごうてたと思う
そうとちゃうやろか」
別れてしまった恋人に言いたいことば。
「不幸」と「幸せ」。それは「同じ」なのだ。田中にとっては、すべては、「同じ」なのである。
田中は、いろいろな作品からの引用だけで詩を書いたことがある。それは、あらゆる作家(詩人)がやはり「同じ」だからである。作家のほかに、恋人のことばも引用する。それは有名な作家も恋人も「同じ」だからである。「語る」ということで、「同じ」になるからである。田中にとっては「同じ」になっるからである。
そうとちゃうやろか。
*
最後に、田中の1行を借りて私はわざと「そうとちゃうやろか。」と書いた。この「そうとちゃうやろか」という反芻もまた田中の「思想」である。そう自問する(問いを自分に向けて繰り返してみる)ことで、「同じ」はさらに増殖する。ずれればずれるほど「同じ」が増えてくる。「同じ」になる。すべてを「同じ」にするために、田中はことばを書く。
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