詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

田中宏輔『The Wasteless Land. Ⅳ』

2009-06-02 08:55:21 | 詩集
田中宏輔『The Wasteless Land. Ⅳ』(書肆山田、2009年05月30日発行)

 「熊のフリー・ハグ」はたいへん長い詩である。そのなかにおもしろい行がある。75ページの最後の2行。

同じ話を繰り返し語ること
同じ話を繰り返し語ること

 田中は同じ話しか書いていない。「同じ話」とは、では、どんな話か。それには、実は答えようがない。「同じ」としか言いようがない。
 これでは、批評でもなければ、感想でもない、と批判されそうだが、「同じ」としか言いようがないというのが、私が田中の詩集を読んで感じることだ。
 別なことば、別な詩で説明してみる。「年平均 6本」という作品がある。

ぼくが20代の終わりくらいのときやったかな
付き合ってた恋人のヒロくんのお父さんが弁護士で
労災関係の件で、それは印刷所の話で
「年平均 6本」とか言っていた
紙を裁断するときに指が切断されたり
機械に手が巻き込まれて
指がつぶれたりする数のことだけれど

 という書き出しで始まる。そして、作品はこのあと「ヒロくん」とぼくとの思い出をいろいろ語りはじめるのだが、

そうだ
指の話だった

 と、突然、もとにもどる。もどるといっても、完全にもどるわけではない。印刷所の労災の話にもどるのではなく、次のようになる。

そうだ
指の話だった
ヒロくんと別れたあとだと思うのだけれど
4本か5本だったかな
ハーブ入りの
白いウィンナーをフライパンで焼いていて
そのなかにケチャップを入れて
フライパンを揺り動かしていると
切断された血まみれの指が
フライパンのなかでゴロゴロ、ゴロゴロ
とってもグロテスクで
食べるとおいしんだけれ
見た目、気持ち悪くなって
ひぇ~って
気持ち悪くなっちゃって

 ずれるのである。労災の指はそのまま労災の指ではなく、ほかの記憶と結びついてよみがえる。そして、新しい感覚を引き起こす。
 その繰り返しが「同じ」なのである。「同じ話」なのである。
 ただし。
 ここには、とても複雑な、というか、ややこしいことがらがひそんでいる。
 いま引用した部分でいうならば、「気持ち悪くなっちゃって」の繰り返しである。「同じ話を繰り返し語る」ように、田中は「同じことば」を「繰り返す」。その「繰り返し」が、しかし、複雑なのである。
 ケチャップまみれのウィンナーが「気持ち悪く」なったのはなぜなのか。切断された指に見えたからなのか。しかし、これは奇妙なことである。田中は切断された指を実際には見ていない。聞いた話にすぎない。だから、ほんとうに「気持ちが悪い」というときのその「気持ち悪さ」は、実際に体験していないにもかかわらず、それが見えるということ、その想像力のありかたを指しているのかもしれない。頭に浮かんだ「像」と、像を思い浮かべる「頭」。どちらが「気持ち悪い」と言っているのか、判断することはむずかしい。ややこしい。
 もしかすると、最初の「気持ち悪くなっちゃって」は「像」に対する感想であり、次の「気持ち悪くなっちゃって」は「頭」に対する感想かもしれない。
 そして、その「像」と「頭」の関係は、厳密に言えば別々のことがらであるけれど、もっと厳密に言えば「同じことがら」になる。それは「切り離せない」ことがらだからである。
 これが、ミソである。
 つまり、「切り離せないことがら」というものが「同じ話」なのである。どんなことがらも、田中という「肉体」と切り離せない。そのときそのときの「像」といえばいいのか、できごとといえばいいのかわからないが、それは、他人から見れば「同じ」ではなく、別のものである。田中は、この詩集のなかで、「付き合ってた恋人」(この、ことばの重複に注目。付き合っていない恋人は恋人ではないのだが、恋人にわざわざ付き合っていたと書くのが、田中の特徴である)がたくさん出てくる。恋人にはそれぞれ名前があり、別々の人間である。けれども、田中にとっては、それは「付き合ってた」ということばのなかで「同じ」になるのだ。「付き合ってた」とわざわざ書いてしまうのは、田中が書いていることが「同じ話」であることを証明する「証拠」(キーワード)なのである。
 恋人はそれぞれひとりの人間なのに「同じ」というのは失礼だろうか。失礼かもしれない。けれど、そうではなく、逆に、誰に対しても真摯に向き合っていたということに目を向ければ、とても美しいことかもしれない。失礼も真摯も「同じ話」(同じこと)なのである。
 すべては「同じ」。
 それは、悲しみと幸福さえも「同じ」ということである。

「ぼくも
 きみといて
 ぜんぜん幸せちがってた
 だけど
 いっしょにいなかったら
 もっと幸せちごうてたと思う
 そうとちゃうやろか」

 別れてしまった恋人に言いたいことば。
 「不幸」と「幸せ」。それは「同じ」なのだ。田中にとっては、すべては、「同じ」なのである。
 田中は、いろいろな作品からの引用だけで詩を書いたことがある。それは、あらゆる作家(詩人)がやはり「同じ」だからである。作家のほかに、恋人のことばも引用する。それは有名な作家も恋人も「同じ」だからである。「語る」ということで、「同じ」になるからである。田中にとっては「同じ」になっるからである。
 そうとちゃうやろか。



 最後に、田中の1行を借りて私はわざと「そうとちゃうやろか。」と書いた。この「そうとちゃうやろか」という反芻もまた田中の「思想」である。そう自問する(問いを自分に向けて繰り返してみる)ことで、「同じ」はさらに増殖する。ずれればずれるほど「同じ」が増えてくる。「同じ」になる。すべてを「同じ」にするために、田中はことばを書く。



The wasteless land
田中 宏輔
書肆山田

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『田村隆一全詩集』を読む(103 )

2009-06-02 01:28:52 | 田村隆一

 『ロートレック ストーリー』(1997年)はロートレックの「肉眼」を田村が語り直したものである。

男は少年期に
両脚の病で小人(こびと)になったが
上半身の肩や胸はたくましく 十字軍以来の
貴族の血が流れていて

そのおかげで独自のアングルが生まれる
貴族の血にうんざりしてブルジョアにあこがれる
ブルジョアとは市民のことさ 低い視線から
人間を瞶(みつ)めると肉だけが見えてきて

 ここには田村が大好きな「矛盾」がある。萎えた両脚、頑丈な上半身。貴族、市民(庶民)それは互いに互いを否定する。そこに必然的に「結合」ではなく「分離」が生まれる。亀裂が生まれる。しかし、それは、ほんとうは亀裂という名の結合なのである。遠く離れたふたつの存在形式の「間」、そこに「間」があることによって、その「間」を埋めるものが誕生することが可能になる。
 その「間」に生まれてくるもの--それを「肉」と見るのが田村の特徴である。

おびただしい心は男の胸の中に集中する
まるでムーラン・ルージュの赤が
黄色にかわり 第一次世界大戦後には黒になって
男の心の墓地になったように

 見えるのは肉。「肉眼」が見るのは「肉」である。そして、そのとき、「心」は、ロートレックの肉体(胸)のなかに押し寄せる。「肉」を見ることで、「心」を吸収してしまうのだ。
 それは別ないいかたをすれば、「肉眼」からさらに「肉・体」になり、あらゆるものを「肉」として受け入れるということかもしれない。「肉」と「肉」が直接触れ合う。「心」というものなど、消えてしまう。「心」の拒絶が、ここにはある。「心」は「墓地」のなかで忘れさられ、腐敗していく。そうして、「肉」は「肉」として完成する。
 あらゆるものが「肉」として直接触れ合うのである。

だから夕暮れになるとアトリエから脱走して
モンマルトルの寄席 居酒屋 淫売屋
山高帽と肉だけになった市民の群れのなかに
出没する 重いステッキに心を支えながら

この世の外(そと)なら
どこだっていいさ
どこだって

 「どこだっていい」。これが「矛盾」の行き先である。「どこだっていい」というよりも、「どこ」と前もって決めることができないのである。前もって決めるのは「心」(あるいは「頭」)であって、「肉・体」は何も決めない。決めないまま、そこに「肉・体」があることをたよりに、ただ「いま」「ここ」ではない「場」へと動いていくのである。そして、いっそう「肉・体」になる。
 そういう運動を、田村はロートレックのなかに見ている。そして、その体験を田村はことばで語り直している。



もっと詩的に生きてみないか―きみと話がしたいのだ (1981年)
田村 隆一
PHP研究所

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