木村草弥『免疫系』は詩集と書かれているが、なかに短歌がある。その短歌がとても美しい。「王道」のなかの4首。
《ながく夢を見つめる者は自(し)が影に似てくる》といふインドの諺
P・ボワデッフル言へり<『王道』は狂ほしきバロックのごとき若書き>
「若い時は死とは何かが判らない」初対面のクロードにペルケン言へり
シレーヌの素肌に夜と昼が棲む、さて、やさしさを縛つてはみたが
1首のなかにドラマがある。そして、ドラマとは「他人」との出会いである。詩とは異質なものとの出会いという定義があるが、木村にとって「異質」とは「他人」とほとんど同義である。
「他人」と出会って、出会った二人が動いていく。どう動くかは、詩にとっては重要ではない。ただ動くということ、それだけが重要である。
「他人」との「出会い」は「免疫」にまでおよぶ。「免疫」を「マクロファジー」という細胞の「出会い」のドラマとして書いている。そのドラマの舞台は「人間の肉体」である。「前立腺」という短歌もあるが、木村自身の「肉体」が体験していることを、ドラマとして観察するという意識があるのかもしれない。人間は「ひとり」であるけれど、その「ひとり」のなかにも「他人」が存在し、その「他人」との対話というドラマが、いつも起きている。そのドラマを、木村は、「他人」を意識することで客観化しようとしている。
「他人」というのは、「客観」のはじまりなのかもしれない。
と、ここまで書いてきて、私は木村の短歌を美しいと感じた理由がやっとわかった。
「王道」で木村は「他人」のことを描いている。「他人」の言ったこと。しかもそれは「他人」が木村にではなく、木村ではないもうひとりの「他人」に言ったことである。(「諺」も日本の諺ではないので、それはほんらい木村に向けられたことばではない。 )
「他人」が「他人」に言ったことば--それを木村は、まるで詩を読むようにして、読んだ詩の記録のようにして書いている。そこには「客観」を目指す視線がある。自分に埋没してことばを動かすのではなく、「他人」と「他人」のあいだで動いていることばをとおして、自分のなかの「他人」を探しているような感じがする。自分のなかにいる「他人」を探し出し、その「他人」と対話する。それは、自己を「客観化」するきっかけでもある。
そして、そのとき、木村は、「客観化」をとおして「他人」になる。自己を捨てる。そこに、ほんとうの美しさがある。自己に拘泥しない美しさが。
たとえば前立腺ガン。肉体のなかの「他人」。それを「免疫」という視点からとらえ直す。「他人」は木村の「肉体」のなかで「生きている」。その「生きている他人」というものを、生き直してみる。「他人」の可能性に「肉体」をあずけてみる。
自己を捨てる、「他人」に身をまかせる、というのは「死」と同じ意味なのだが、そうすることではじめて見えてくる「知」というものがある。「肉体」が死んで「知」が生きる。そして、その「知」はまた「肉体」のなかの「他人」の「肉体」でもある。
これは理不尽なドラマであるけれど、そういうドラマが「肉体」のなかにおきる。「肉体」でも「知」でもなく、ほんとうは「ドラマ」を生きている。人間は、それぞれ「ドラマ」を生きている--ということかもしれない。
この「ドラマ」をはっきり浮かび上がらせるためには、「他人」が絶対必要な存在なのだ。
ガンの例では、深刻すぎて、木村の描いている「逆転ドラマ(?)」とでも呼ぶべき「肉体」と「知」の交代--他人を生きるということの美しさがわかりにくいかもしれない。
詩集の冒頭の「一滴一滴も溜めれば」から語りはじめるべきだったのかもしれない。
アンコール遺跡へ行った
「タ・プロム」とか「タ・ケオ」と呼ばれる遺跡がある
カンボジア語では「プロム爺さん」「ケオ爺さん」の意味だ
<この遺跡はいまたしかに崩壊の危機にある>
と石沢良昭先生は言う
石の遺跡の上で枯葉が腐葉土となり
そこに植物の種が落ち 芽を出してゆく
やがて成長した樹木は石の隙間に根を張り
石を動かし 石の上に無数の葉を散らし
再び腐葉土を生産する
その繰り返しによって石の寺院は
少しずつ蝕まれ 崩れてゆくのだ
プロム爺さんは
毎朝 箒で落葉を掃き 下生えを切り払い
堂守の役目をつとめる
いつしか人々は御堂を「タ・プロム」と言うようになった
カンボジアの諺に言う
「一滴一滴も溜めれば筒一杯になる」
仏教徒であるプロム爺さんは そうして
涅槃への道のりを辿ってゆくのだ
腐葉土、樹木は石の遺跡にとっての「他人」。「ガン細胞」。それはやがて遺跡そのものを乗っ取るだろう。これが第1のドラマ。
そして、そいうことを知っている「もうひとり他人」が登場する。「タ・プロム」「プロム爺さん」。彼は、いまでは御堂の名前になっている。それは、まったく新しい「いのち」の誕生である。いのちの誕生とは、たぶん意識されないものかもしれないけれど、いま、ここに生きているいのちであり、御堂にとっては「他人」であるにもかかわらず、いまでは御堂そのものになっている。名前になっている。これが第2のドラマ。ほんとうのドラマ。
この第2のドラマは「認識のドラマ」でもある。そして「認識のドラマ」とは「ことばのドラマ」でもある。
こういう「認識」の動きは、認識のドラマは人間にも起きている。
ガン。「肉体」のなかの「他人」。その「他人」を排除しようとする「免疫」。「肉体」は「免疫」だけでできているわけではないが、肉体のなかに起きている癌細胞と他の細胞のドラマを見ていると、肉体とは「免疫系」であると呼ぶことができる。
人間を免疫系でとらえる「学問」がある。その学問にとっては、人間とは「免疫」そのものである。御堂が肉体。プロム爺さんが免疫の働き。御堂がプロム爺さんと呼ばれるように、肉体が免疫系と呼ばれるのだ。
これは理不尽なことだろうか。
木村は、美しい変化と思っているだと思う。「認識」として確立された時、そのドラマはドラマ自体として美しい。ドラマのなかに昇華されていく変化を美しいと感じて書いているから、そのこことばが美しいのだと、私は思う。
ガンと免疫の戦い、そしてその結果としての肉体の変化--それが美しいかどうかは難しい問題だが、そこに起きていることを客観化できるということばの力、「認識の力」、「認識のドラマ」そのものは美しい。美しいとは、信頼できる、という意味でもある。信頼できるとは、それを繰り返すことができるということでもある。
短歌に戻る。「王道」の4首。そこに書かれていることがらは、どの「他人」にとって有益(?)なのかわからない。だれが「肉体」で、だれが「ガン」なのかわからない。また「免疫」がどういうものであるかもわからない。けれど、その「他人」同士の出会いの瞬間にドラマが動きはじめていることがわかる。そういう動きの瞬間を予感させて動くことばが美しい。そういう動きを客観化することばの力が美しいのだ。そこに書かれていることば、その動きは、「時」を超えて、いまも、そして将来もつづくのだ。普遍のドラマに触れているから、そのことばは美しい。そして普遍のドラマの普遍は、いつも「認識」のなかにおきるドラマなのだ。
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