井坂洋子「四人部屋」(「独合点」99、2009年06月07日発行)
井坂洋子「四人部屋」は、どこかの施設を思わせる場が舞台である。「わたし」はその施設でボランティアをしているかしもしれない。「わたし」が相手をするのは「四人部屋」にいる老女4人。そのうちの「ひとりの老女」は「わたし」を拒んでいる。「わたし」にはそう感じられる。
そのあとの描写。
「トマト」「ピーマン」「とうなす」はほんうとに野菜? それとも4人のうちの3人の姿? どちらともとれる。「無心でいるため常にふいを襲われるトマト」という文章が「トマト」は「トマトではない」といっているように感じられる。
だが、それが「野菜ではない」と仮定して、そこに描かれた3人は、ほんとうに四人部屋の人々? それとも、その人々から見た「わたし」、見られている「わたし」?
わからない。
なんだか、「わたし」と「四人」が入り混じってしまっている。拒絶している「ひとりの老女」さえも、そういう比喩(?)というのだろうか、人間を「野菜」に見せてしまう視線の中にまぎれこんでいる。
ほんとうは老女は3人で、「わたし」を含めて4人?
ほら、「ゆで卵は四つ」。もし老女が4人いるのなら「わたし」の分のゆで卵はないことになる。それなのに、
と詩はつづいていくのである。
「日月がとろけだす」(月日がとろけだす?)。何かひととひととの「境界」が消えてしまうような感じ。「親しみと憎しみ」の間で、「境界」が消えるのだ。そして、その結果ひととひとだけではなく、ひとと野菜の境界も消えてしまう。
そこでは「盗人」も「嘘ツキ」も「酒乱」も「誤解」も関係ない。
すべては「同じ」である。それは「固有の形」ではなく、ことばの運動としての「盗人」「嘘ツキ」「酒乱」「トマト」「ピーマン」「とうなす」「ゆで卵」である。それは、意識が動いて、ことばを誘って、たまたま、その瞬間、そういう形をとっているにすぎない。
老いると、その融合と分離はますます複雑になるかもしれない。「老いるとはそう簡単なものではないと誰かがいつも耳にささやく」ということばにつづいて、最後の1行。
「盗人」「嘘ツキ」「酒乱」「トマト」「ピーマン」「とうなす」「ゆで卵」が「よき音」「うつくしき いろ」であるかどうかはわからない。けれど、そういうものを求める欲望が呼び起こした存在にはちがいないと思う。そして、それが「よき音」「うつくしき いろ」でないとすれば、そのとき、なおのこと、「よき音」「うつくしき いろ」を求めるこころがめざめる。そして、ことばは動く。つまり、はてしなく、運動はつづく。そしてますます、「境界」がなくなる。「存在」の「境界」というよりも、それは「ことば」の「境界」そのものを犯してくるようだ。
これは不気味で、同時に、とてもおもしろい。
井坂洋子「四人部屋」は、どこかの施設を思わせる場が舞台である。「わたし」はその施設でボランティアをしているかしもしれない。「わたし」が相手をするのは「四人部屋」にいる老女4人。そのうちの「ひとりの老女」は「わたし」を拒んでいる。「わたし」にはそう感じられる。
そのあとの描写。
昼になるとテーブルを囲んでランチをとる 無心でいるため常にふいを襲
われるトマト ピーマンはこちらにへたを向けて身を固くしている 次の
皿はとうなす 表面は冷淡だが内は甘い 絶対の優越の感情にゆるんでい
る ゆで卵は四つ 皺の寄ったたるんだ腕がひとつずつとる
「トマト」「ピーマン」「とうなす」はほんうとに野菜? それとも4人のうちの3人の姿? どちらともとれる。「無心でいるため常にふいを襲われるトマト」という文章が「トマト」は「トマトではない」といっているように感じられる。
だが、それが「野菜ではない」と仮定して、そこに描かれた3人は、ほんとうに四人部屋の人々? それとも、その人々から見た「わたし」、見られている「わたし」?
わからない。
なんだか、「わたし」と「四人」が入り混じってしまっている。拒絶している「ひとりの老女」さえも、そういう比喩(?)というのだろうか、人間を「野菜」に見せてしまう視線の中にまぎれこんでいる。
ほんとうは老女は3人で、「わたし」を含めて4人?
ほら、「ゆで卵は四つ」。もし老女が4人いるのなら「わたし」の分のゆで卵はないことになる。それなのに、
さいごはあなたの分よ。
と詩はつづいていくのである。
さいごはあなたの分よ。
とささやいてくれる声 親しみと憎しみの間を渡って日月がとろけだす
なぜ彼女だけはわたしをはねつけるのか いったん思い込まれたらわたし
は盗人にもなる 嘘ツキにも酒乱にもなる 誤解だが白状して身を投げだ
してしまいたい
「日月がとろけだす」(月日がとろけだす?)。何かひととひととの「境界」が消えてしまうような感じ。「親しみと憎しみ」の間で、「境界」が消えるのだ。そして、その結果ひととひとだけではなく、ひとと野菜の境界も消えてしまう。
そこでは「盗人」も「嘘ツキ」も「酒乱」も「誤解」も関係ない。
すべては「同じ」である。それは「固有の形」ではなく、ことばの運動としての「盗人」「嘘ツキ」「酒乱」「トマト」「ピーマン」「とうなす」「ゆで卵」である。それは、意識が動いて、ことばを誘って、たまたま、その瞬間、そういう形をとっているにすぎない。
老いると、その融合と分離はますます複雑になるかもしれない。「老いるとはそう簡単なものではないと誰かがいつも耳にささやく」ということばにつづいて、最後の1行。
耳はよき音を求め 両目はうつくしき いろを求めてやまない
「盗人」「嘘ツキ」「酒乱」「トマト」「ピーマン」「とうなす」「ゆで卵」が「よき音」「うつくしき いろ」であるかどうかはわからない。けれど、そういうものを求める欲望が呼び起こした存在にはちがいないと思う。そして、それが「よき音」「うつくしき いろ」でないとすれば、そのとき、なおのこと、「よき音」「うつくしき いろ」を求めるこころがめざめる。そして、ことばは動く。つまり、はてしなく、運動はつづく。そしてますます、「境界」がなくなる。「存在」の「境界」というよりも、それは「ことば」の「境界」そのものを犯してくるようだ。
これは不気味で、同時に、とてもおもしろい。
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