詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

井坂洋子「四人部屋」

2009-06-14 14:53:45 | 詩(雑誌・同人誌)
井坂洋子「四人部屋」(「独合点」99、2009年06月07日発行)

 井坂洋子「四人部屋」は、どこかの施設を思わせる場が舞台である。「わたし」はその施設でボランティアをしているかしもしれない。「わたし」が相手をするのは「四人部屋」にいる老女4人。そのうちの「ひとりの老女」は「わたし」を拒んでいる。「わたし」にはそう感じられる。
 そのあとの描写。

昼になるとテーブルを囲んでランチをとる 無心でいるため常にふいを襲
われるトマト ピーマンはこちらにへたを向けて身を固くしている 次の
皿はとうなす 表面は冷淡だが内は甘い 絶対の優越の感情にゆるんでい
る ゆで卵は四つ 皺の寄ったたるんだ腕がひとつずつとる

 「トマト」「ピーマン」「とうなす」はほんうとに野菜? それとも4人のうちの3人の姿? どちらともとれる。「無心でいるため常にふいを襲われるトマト」という文章が「トマト」は「トマトではない」といっているように感じられる。
 だが、それが「野菜ではない」と仮定して、そこに描かれた3人は、ほんとうに四人部屋の人々? それとも、その人々から見た「わたし」、見られている「わたし」?
 わからない。
 なんだか、「わたし」と「四人」が入り混じってしまっている。拒絶している「ひとりの老女」さえも、そういう比喩(?)というのだろうか、人間を「野菜」に見せてしまう視線の中にまぎれこんでいる。
 ほんとうは老女は3人で、「わたし」を含めて4人?
 ほら、「ゆで卵は四つ」。もし老女が4人いるのなら「わたし」の分のゆで卵はないことになる。それなのに、

さいごはあなたの分よ。

と詩はつづいていくのである。

さいごはあなたの分よ。
とささやいてくれる声 親しみと憎しみの間を渡って日月がとろけだす
なぜ彼女だけはわたしをはねつけるのか いったん思い込まれたらわたし
は盗人にもなる 嘘ツキにも酒乱にもなる 誤解だが白状して身を投げだ
してしまいたい

 「日月がとろけだす」(月日がとろけだす?)。何かひととひととの「境界」が消えてしまうような感じ。「親しみと憎しみ」の間で、「境界」が消えるのだ。そして、その結果ひととひとだけではなく、ひとと野菜の境界も消えてしまう。
 そこでは「盗人」も「嘘ツキ」も「酒乱」も「誤解」も関係ない。
 すべては「同じ」である。それは「固有の形」ではなく、ことばの運動としての「盗人」「嘘ツキ」「酒乱」「トマト」「ピーマン」「とうなす」「ゆで卵」である。それは、意識が動いて、ことばを誘って、たまたま、その瞬間、そういう形をとっているにすぎない。
 老いると、その融合と分離はますます複雑になるかもしれない。「老いるとはそう簡単なものではないと誰かがいつも耳にささやく」ということばにつづいて、最後の1行。

耳はよき音を求め 両目はうつくしき いろを求めてやまない

 「盗人」「嘘ツキ」「酒乱」「トマト」「ピーマン」「とうなす」「ゆで卵」が「よき音」「うつくしき いろ」であるかどうかはわからない。けれど、そういうものを求める欲望が呼び起こした存在にはちがいないと思う。そして、それが「よき音」「うつくしき いろ」でないとすれば、そのとき、なおのこと、「よき音」「うつくしき いろ」を求めるこころがめざめる。そして、ことばは動く。つまり、はてしなく、運動はつづく。そしてますます、「境界」がなくなる。「存在」の「境界」というよりも、それは「ことば」の「境界」そのものを犯してくるようだ。

 これは不気味で、同時に、とてもおもしろい。



続・井坂洋子詩集 (現代詩文庫)
井坂 洋子
思潮社

このアイテムの詳細を見る
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

『田村隆一全詩集』を読む(115 )

2009-06-14 00:50:15 | 田村隆一

 「単行詩集未収録詩篇Ⅲ 後期1983~1998」。そのなかの「裸婦」。男と女の違いを描いている。--というだけでは、おもしろくない。書き出しが、実は、私はとても好きだ。

肉体に
密生している
あらゆる種類の毛が
彼女の国境だ

 この「あらゆる種類の毛が」という行は、しかし、「あらゆる種類」ではなく「限定された」毛を想像させる。「あらゆる種類」ということばは、想像がどこまでおよんでも大丈夫と誘う一種の「逆説」である。何を想像しても大丈夫、と励まされて、読者は、たったひとつの「毛」、「恥毛」を想像する。こういう逆説が私は大好きだ。
 読者を(私を、と言わないといけないだろうか?)、そんなふうに誘っておいて、田村は書きつなぐ。2連目は、形としては行変え詩だが、ことばは「散文的」(論理的)である。句読点もついている。
 詩、というよりも、あとで書き直すための「メモ」という感じでもある。そして、「メモ」であるがゆえに、「思想」が剥き出しになっている。

 裸婦の後姿とその影は、
冑(よろい)をつけた男にそっくりだ。
では、男はなぜ冑で鎧(よろ)うのか。
 異民族に対抗するためには、まず論理。
論理が通用しないときには、
暴力で対抗するしかないからだ。
論理か、暴力。これしかないのである。だから男は冑で裸のカラダを覆うのだ。
 闘うとき、女性は、一枚ずつ脱いでいく。
 思わせぶりに脱いでいって、ついに裸になる。裸はもっとも強い武器だからで、暗がりが、夜の空が女性を守るのだ。

 男は戦うとき冑を身につける。冑は裸を守るためのものである。裸は「本当の自分」の比喩かもしれない。女は戦うとき(戦う必要に迫られたとき)、裸になる。身を守るものをすべて捨て去る。裸を「本当の自分」の比喩だとすると、本当の自分をさらけだすことになる。
 この、無防備な、さらけだされた「裸」を田村は「武器」と呼んでいる。「無防備」と「武器」というのは、矛盾する概念である。
 矛盾しているから、そこにはほんとうの思想がある。矛盾でしか言えない思想がある。矛盾がぶつかりあって、解体するとき、何かがおのずと生まれてくる。
 裸--その無防備を、田村は、次のように言い直している。

 暗黒の内臓、無限の宇宙がつまっている女性の皮袋。短刀もピストルも大砲も爆弾も核も、裸婦にはかなわない。

 「無防備」。その無防備とは、身につけているものを捨て去って、みずから選んだ無防備である。「武器」としての「無防備」である。
 「裸」というより、「武器」と「無防備」のあいだで、その矛盾が解体したところに、「無限の宇宙」があるのだ。そして、そこでは、あらゆるものが誕生しうるのだ。あらゆるものを産み出しうるから「無限」の「宇宙」なのである。短刀よりも強い無防備、ピストルよりも強い無防備、爆弾よりも強い無防備、核よりも強い無防備--それは、どのようにして可能か。
 そこからあらゆるものが誕生すると私は書いたが、実は、そのあらゆるものの誕生は、あらゆるものを「飲み込む」ということでもある。「無防備」と「武器」が矛盾した概念の中で互いをたたきこわし、いままでなかったものになるのだから、そこでの「誕生」もまた一般的な「誕生」とは逆の概念でなくてはならない。「誕生」とは「飲み込む」こと、吸収すること、つつみこんでしまうこと。
 矛盾でしか言えないものがある。そして、その矛盾こそが、真実なのだ。

 裸婦ほど恐しい、それでいて、やさしいものはない。

 「恐しい」と「やさしい」。その矛盾したものが「ひとつ」の形の中にある。「裸婦」という形の中にある。矛盾しているから、それは「真実」なのだ。



ノラの再婚 (1979年) (現代作家ファンタジー〈2〉)
田村 隆一,若尾 真一郎
ティビーエス・ブリタニカ

このアイテムの詳細を見る
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする