「Ambarvalia」は途中で転調する。
アー、愛の神がかりを受けぬ者は不幸なるかな。愛の呼吸をかけられるものは幸なるべし。
「アー、」というカタカナの音。この変化に私はびっくりし、笑いだしてしまう。なぜ「ああ、」や「あー、」ではないのだろう。「アー、」は単純な詠嘆の声ではないのだ。音楽でいう「転調」そのものなのだ。
それまでのことばが重い、不自由というのではないけれど、この「アー、」を境にして、ことばがいっそう軽く、自由に動き回る。
--愛の少年(クピードウ)よ、来れ。--我等は皆この愛の神を歌へ。各人は愛の神を越え高く家畜のために呼べ。しかし自分のためにはささやきで呼べ。声高く呼んでもよい、それは饗宴がやかましいから聞こえない。
「ささやき」と「やかましい」の落差。
(わたしの印象だけかもしれないが。)
「ささやき」ということばの音は静かだが、「やかましい」はことばそのままに、音そのものが「やかましい」。破裂する。子音の動きの違いなのかもしれない。「ささやき・SASAYAKI」「やかましい・YAKAMASHII」。「ささやき」には「S」の音がふたつつづく。繋がっている感じがする。「やかましい」にはこの連続がない。ばらばらである。ばらばらであることが「やかましい」なのだ。
「旅人かへらず」に「ああかけすが鳴いてやかましい」という行がある。(この行が私は大好きである。その「やかましい」が、こんなに早い時期につかわれていたことを知るのは楽しい。)そのときの「やかましい」は、「かけす」の声が、それまで「旅人」が考えていることとは繋がっていないからである。繋がりの欠如、ばらばらが「やかましい」。しかも、その「ばらばら」が繋がりを要求するから「やかましい」のである。
この対極は「淋しい」である。あらゆる存在は「ばらばら(孤立)」。そして、それは繋がりを要求せずに、孤立する。個として存在する。そのとき「淋しい」が美しくなる。
「やかましい」のあとに、次の行がある。
曲つたパイプはフリヂアの音楽で汝の祈祷が消されるから。
「やかましい」の対極にあるのが「曲つたパイプ」である。それは「淋しい」。
西脇の「淋しい」は「やかましい」の対極にある。それは「音」のありかたと結びつけるとわかりやすくなる、と私は思う。
西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)慶應義塾大学出版会このアイテムの詳細を見る |