詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(10)

2009-06-25 10:08:38 | 誰も書かなかった西脇順三郎

 「Ambarvalia」は途中で転調する。

アー、愛の神がかりを受けぬ者は不幸なるかな。愛の呼吸をかけられるものは幸なるべし。

 「アー、」というカタカナの音。この変化に私はびっくりし、笑いだしてしまう。なぜ「ああ、」や「あー、」ではないのだろう。「アー、」は単純な詠嘆の声ではないのだ。音楽でいう「転調」そのものなのだ。
 それまでのことばが重い、不自由というのではないけれど、この「アー、」を境にして、ことばがいっそう軽く、自由に動き回る。

--愛の少年(クピードウ)よ、来れ。--我等は皆この愛の神を歌へ。各人は愛の神を越え高く家畜のために呼べ。しかし自分のためにはささやきで呼べ。声高く呼んでもよい、それは饗宴がやかましいから聞こえない。

 「ささやき」と「やかましい」の落差。
 (わたしの印象だけかもしれないが。)
 「ささやき」ということばの音は静かだが、「やかましい」はことばそのままに、音そのものが「やかましい」。破裂する。子音の動きの違いなのかもしれない。「ささやき・SASAYAKI」「やかましい・YAKAMASHII」。「ささやき」には「S」の音がふたつつづく。繋がっている感じがする。「やかましい」にはこの連続がない。ばらばらである。ばらばらであることが「やかましい」なのだ。
 「旅人かへらず」に「ああかけすが鳴いてやかましい」という行がある。(この行が私は大好きである。その「やかましい」が、こんなに早い時期につかわれていたことを知るのは楽しい。)そのときの「やかましい」は、「かけす」の声が、それまで「旅人」が考えていることとは繋がっていないからである。繋がりの欠如、ばらばらが「やかましい」。しかも、その「ばらばら」が繋がりを要求するから「やかましい」のである。
 この対極は「淋しい」である。あらゆる存在は「ばらばら(孤立)」。そして、それは繋がりを要求せずに、孤立する。個として存在する。そのとき「淋しい」が美しくなる。
 「やかましい」のあとに、次の行がある。

曲つたパイプはフリヂアの音楽で汝の祈祷が消されるから。

 「やかましい」の対極にあるのが「曲つたパイプ」である。それは「淋しい」。

 西脇の「淋しい」は「やかましい」の対極にある。それは「音」のありかたと結びつけるとわかりやすくなる、と私は思う。



西脇順三郎コレクション〈第3巻〉翻訳詩集―ヂオイス詩集 荒地/四つの四重奏曲(エリオット)・詩集(マラルメ)

慶應義塾大学出版会

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牟礼慶子『夢の庭へ』(2)

2009-06-25 00:53:09 | 詩集
牟礼慶子『夢の庭へ』(2)(思潮社、2009年05月31日発行)

 牟礼慶子『夢の庭へ』はどの詩も美しい。相聞とはこういうことかと、あらためて思う。「ほのかな紅を」の3連目。

別れの手も振らず
背中を抱きもせず
わたしの夢の中だけで
静かに生き続ける人よ
夢の中では
ひとりとひとりきりになって
わたしはあなたに寄り添っています

 人が生きるとき、そこには複数の人がいる。けれど、「あなた」と会うときは、それぞれが「ひとりきり」なのだ。ひとりとひとりが会えば「ふたり」というのが算数の世界だけれど、「ふたり」になってもふたりはひとりきり。このひとりきりはかけがえのない「ひとり」である、ということだ。つまり、「あなた」に会ったとき、「わたし」はもう「わたし」ではない。ただ「あなたに寄り添う」だけの人間。「寄り添う」ことで、「わたし」をではなく「あなた」を生きるのだ。きっとそのとき、「あなた」はやはり「わたし」に寄り添って「わたし」を生きている。ふたりはふたりであることによって、いっそう「ひとりきり」になる。
 そこでは、ことばは、どんなふうに動くのだろう。それは、「ことば」にはならない。ことばになる必要がない--と言い換えるべきか。

枝を揺すり続けている
せわしない時間のいとなみ
夢の残像のように
すぐに消えてしまう言葉で
あなたは絶えず語りかけてくれます
今もわたしを呼び続けていてくれます

あなたもどうぞ聴きとってください
わたしがあなたを呼び続ける声を

わたしの梢を吹き抜ける風も
わたしの空を流れる雲の列も
どれも
あなたが贈ってくださる
何よりも懐かしい挨拶なのです

 「すぐに消えてしまう言葉」。その「声」。それは、風や雲となって動いている。風や雲は「ことば」をもたない。もたないけれど、その動きが「言葉」となってとどく。
 風を見ても、雲を見ても、「あなた」がそこにいることがわかる。風を見るとき、風を見る「わたし」に「あなた」が寄り添うが、それはほんとうは、風を見る「あなた」に「わたし」が寄り添っているのだ。
 何か見ること--その「こと」のなかで、ふたりは「夢の中」と同じように寄り添い、互いを生きている。「ひとりとひとりになりきって」いる。
 そのと、見たものすべてが「懐かしい挨拶」になる。
 
 この「言葉にならない言葉」を牟礼は「沈黙」と呼ぶ。「ことば」をかわさない。そして、ことばをかわさないことが、ことばをかわすことなのだ。かわさなくても、わかりあえる。挨拶をしあえる。それが愛である。

内なる沈黙を
少しずつ染めている花の蕾
その まだほのかな紅色を
たくさんの言葉の蕾を
わたしは あなたに贈り続けます

 ことばは沈黙と向き合い、そのなかで「言葉」になる。いや、「愛」になる。「言葉の蕾」を贈るのではなく、「愛の蕾」、「愛」そのものを贈るのだ。「贈り続ける」のである。
 そして、この「続ける」にこそ、ほんとうの愛がある。



牟礼慶子詩集 (現代詩文庫)
牟礼 慶子
思潮社

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コメント (1)
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