詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(1)

2009-06-16 12:07:24 | 誰も書かなかった西脇順三郎
 「誰も書かなかった」というのは嘘である。はったりである。私は詩を読むのは好きだが、詩の批評を読むのは好きではない。あまり読まない。自分勝手に読んで、その感想書いているだけである。だから西脇順三郎ほどの詩人の場合、きっとどんなことを書いてもすでに誰かが書いてしまっているに違いない。何を書いても誰かの書いたことと重複するだろう。そうしたことをていねいに調べ、誰それはこの行についてこれこれのことを言っている、私もそう思う、いや私はそうは思わないと書いてみても、うるさいだけの感想になると思う。だから、誰のどんな感想・批評も引用しない。書かれた背景も無視する。ただ、私が読んだときに感じるままのことを、感じるままに書いていこうと思う。
 テキストは筑摩書房「定本 西脇順三郎全集」(1993年12月10日第1巻発行のもの)。引用にあたっては、「正字」「踊り文字」はとらなかった。表記の方法があるのかもしれないが、私はネット上でのその表記方法を知らないので。

天気

(覆された宝石)のやうな朝
何人か戸口にて誰かとささやく
それは髪の生誕の日。

 1行目の「(覆された宝石)のやうな朝」の音が私はとても好きである。私は宝石など見たことがないので、「覆された宝石」というものをイメージできない。一度も目に浮かんだことがない。「くつがえされたほうせき」の音を分析して、何が出てくのかわからないが、「が」の濁音がこの行では私には(私の耳には)とても美しく聞こえる。新鮮にきこえる。宝石--たぶん、きらきらと透明なもの。それを裏切るような濁音。そのまわりの「う・う・あ・え・あ・え・あ」という母音の動き。喉の動きも、不思議な快感がある。
 「やうな朝」の「やうな」という旧かなづかいと、それを裏切るような口語の「音」の違いも、その前の「あ」の揺らぎを感じさせて、とても惹かれる。
 その新鮮な音楽とは向き合う2行目の「ささやく」。この弱音のイメージによって、1行目の音楽が不思議に変化する。
 賑やかな音なのに、耳をすますと、とてもシンプルな、静かな音に変わっていくような、そういう変化を感じる。1行目の「音楽」が2行目の「ささやく」によって、それこそ覆されたような印象になる。

 そこが、私は、この詩では一番気に入っている。

詩集 (定本 西脇順三郎全集)
西脇 順三郎
筑摩書房

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安英晶『虚数遊園地』(思潮社、2009年05月31日発行)

2009-06-16 00:38:11 | 詩集
 安英晶『虚数遊園地』は、ことばが不思議な開かれ方をしている。「誕生」。その全行。

今さっき
そこの家で
ここのえのはなが
咲きました

八重よりひとえ多い
九重の
深紅いろのはなです

うすい貝の詰めが十枚
ひかりと
あそんでいます

とりが啄んだのか
花の柄が
そっくりそのまま
ここのえのはなびらのかたちで
おちてきました

はなの
あおあかるい陰で
だれかが
真新しいお墓を拭きはじめます

 1行で書けることを数行に分けて書いている。その行わけに特に変わったところがあるわけではないが、行分けにした瞬間から、ことばが「ゆったり」する。ことばの「間合い」がゆったりとして、その「間合い」に引き込まれていく。
 1行1行に「意味」(?)があるのではなく、「間合い」に意味がある。
 現代のように早口が勝ち(?)という風潮の中で、こんなふうにゆったりとことばが展開すると、そのリズムに誘い込まれながらも、これは何かとんでもないことを企んでいるじゃないかな、という不安がよぎる。
 そして、実際、最後の最後に「企み」が出てくる。
 「誕生」というタイトルなのに、「墓」が出てくる。「いのち」の「誕生」のなかには「死の匂い」がすると言ってしまえばそれまでだが、あくまでゆっくりと語る。語られる「死」さえも、いま、ここにあるというのではなく、遠くにあるという印象で語る。
 そして、「遠い・近い」は関係ないのだ。
 「ゆっくり」進めば遠くなる、というものでもない。「ゆっくり」進んだ方が、その「ゆっくり」を裏切って、向こうがこっちへやってつくるということもあるかもしれない。「近く」にあるから、「ゆっくり」進むだけなのかもしれない。

あおあかるい陰

 このことばが絶妙である。「あおい陰」「あかるい陰」ではなく、「あおあかるい陰」。「あおあかるい」ということばを私はつかわないし、聞いたのも初めてだが、すぐにその色がわかる。これは、それまでのことばが「ゆっくり」進んできているからである。ゆっくり進んできているから、「あおあかるい」ということばを聞いたとき、それを「あお」と「あかるい」が入り混じったものとして、自然に感じることができる。
 そして、その瞬間に知るのだ。
 安英のことばがこんなにゆっくり進むのは、それはもしかしたら、1行1行の短いことばの中に、何かがまじっているからではないのか、と。
 書き出しの、

今さっき

 それは、たとえば数秒前、あるいは数分前のこと? 
 そうではなくて、もっともっと前のことなのではないのか。 100年、 200年前のことなのではないのか。 100年前、 200年前を「今さっき」とは言わないけれど、ある瞬間に「 100年前」「 200年前」を思い出すことがある。そして、その「 100年前」「 200年前」はことばで書くと明確に離れているけれど、感覚としては、すぐ「そば」ということがある。たとえば、「今さっき」、江戸時代のことを思い出した瞬間に、(あるいは平安時代の物語を思い出した瞬間に)、そこの家で花が咲きました--ということはありうるのだ。
 そしてそうならば、「そこの家」自体も、現実の家であると同時に、遠い過去につながる家でもあるのだ。江戸時代の家、平安時代の家の「歴史」をかかえこんで、そこにある家、つまり「時間」を内包している家でもあるのだ。
 そうなると花(桜? 梅?)もまた、はるかな時間を含んでいることになる。
 「時間」を含むということは、たとえば花なら、そこには季節の繰り返しがあり、当然のことながら「生」と「死」が入り混じっている。繰り返されている。
 安英は、その入り混じった「時間」をゆっくり語ることで、押し広げ、開いているのだ。ゆっくりゆっくり開いていくと、開花(誕生)の向こうに、繰り返された「死」が見えてくる。
 花がこんなに美しいのは、その「時間」のなかに「死」をかかえこんでいるから。「死」を体験している「生」だけが美しい。それは生きている人間に「死」をかすかに覗かせてくれるからだ。

 知らないものが「見える」というのは、究極の美の体験である。



よる・あ・つめ
安英 晶
思潮社

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