詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

おおつぼ栄「鎮花祭」、井崎外枝子「帰郷」

2009-06-09 11:49:32 | 詩(雑誌・同人誌)
おおつぼ栄「鎮花祭」、井崎外枝子「帰郷」(「笛」 248、2009年06月発行)

 おおつぼ栄「鎮花祭」は、ことばの動き方がおもしろい。

横に座る人の手から延びる
小枝の(花の)節 虫 葉っぱ

風が運んできた花びらが描く
白い四角い空間(手紙の)庭

 かっこのなかのことば。それは前へ進んでいるのか。後戻りしているのか。それともとどまっているのか。(花の)は、花へ行きかけた視線が「節」にもどり、虫、葉っぱと花から離れていく感じがする。
 視線と、意識がずれる。そのずれた意識が「記憶」になる。
 その微妙な「間」へ風が花びらを運んできて、それが、庭の白い四角い空間を「手紙」のように見せる。庭を「手紙」のようだと思う。「手紙」は、ここにはない。しかし、「記憶」にはある。「手紙」を思い出しているのだ。
 現実に、意識、記憶が交じり、そのせいで、この花見が、おおつぼ独自の花見になる。

フェンス越しの樹 時々突風 足の長い虫
花吹雪 羽根のひかる虫 花ふぶき

虫のみじろぎ 透明な花びらの陰 青い蜥蜴
山ぎわの昼下がり (春下がり)ぶら下がり
庭いちめん 花びらしきつめ
花を鎮める祈祷

身近に座る人の輪郭 体温 ひざ頭
延びてくる 密かな一体感
おずおずと手を小枝に沿わす(花の・

<左記へ移ります>穿たれた凹みの(手紙の・
右下がりの青いインク 尾の切れた蜥蜴

途切れて消えた時間を
喰っている なぞっている(春下がりの・

並んで座って
遠慮なくまとわりついて 無心に
ほてりをひろう

いずれまた 花の季節に

 ここで思い出されている人は、いまはいないのかもしれない。だから思い出すのは「その人」というよりも「時間」なのだ。
 「春下がり」というのは奇妙なことばだが、そうとしか呼べない「時間」が、おおつぼにはあり、その「時間」のなかに(花の)ふぶき、(手紙の)記憶が重なるのだろう。青いインクで書かれた右下がりの文字。なつかしい恋なのだろう。
 何度も繰り返したのかもしれない。何度も繰り返したいのだ。この花見を。ひとりで花を見ながら、恋人を思い出したいのだ。
 (花の)(手紙の)(春下がりの)という、かっこに閉じられた「時間」が、透明に浮かび上がってくる詩だ。



 井崎外枝子「帰郷」は帰郷してみたら、ふるさとはすっかり様子が変わっていた。「家」は記憶のなかにしかない。そして、その「記憶」が見えるのだ。それは現実を裏切って、目の前に存在する。

帰郷というのだろうか、何年ぶりかの
だが、家は近づいてはこない
あんなにはっきり見えるというのに

 それは絶対に近づけない「距離」なのだ。記憶はいつでも頭の中にある。「肉体」のなかにある、ともいえる。それが「肉体」のなかにあるからこそ、「肉体」と「記憶」の距離は変わらず、永遠に近づかない。近づかないことによって、より生々しく見えてくる。たしかに、記憶とはそういうものかもしれない。
 それは、「家」がそこに存在しないことを確かめることによって、より生々しくなる。

帰郷というのだろうか、それでも
立ち木には見覚えがあり、湿った苔の
においも纏わりついてくるというのに
ああ、ここまでなのだ
戻るしかないのか。下の道へ
途中で振り返ってみると
家は、前よりもはっきりと
その後ろ姿を見せているではない

 最後の「後ろ姿」がとても美しい。それは「ふるさと」から去っていく「後ろ姿」である。「家」が去っていく。そのときの「後ろ姿」である。それが、井崎には見える。
 記憶は、生きている。生きているのが記憶と言うものなのだ。


母音の織りもの―井崎外枝子詩集 (北陸現代詩人シリーズ)
井崎 外枝子
能登印刷出版部

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『田村隆一全詩集』を読む(110 )

2009-06-09 00:56:46 | 田村隆一

 『単行詩集未収録詩篇Ⅱ』(遷座1946-1969年)。「紙上不眠」というシリーズの詩が何篇かある。そのタイトルの作品のと終わりの2行

鳥が啼くのにわたしの眼はねむれない
夜が明けるのにわたしの耳はねむれない

 これは、少し奇妙である。一般的にいえば、鳥の鳴き声(さえずり)に眠りがじゃまされるのは眼ではなく耳である。また夜明けの光に眠りがじゃまされるのは身ではなく眼である。ところが田村はそのふたつを入れ換えて書いている。
 これは何度も書いてきたが田村の詩の特徴のひとつである。感覚が「肉体」のなかで融合する。入れ代わる。「肉眼」は聞き、「肉・耳」は見る。そういうことがおきる。その融合のなかに詩がある。
 この詩が特徴的なのは、その感覚の融合が「物語」からはじまっていることである。
 引用の2行に先立つ2連目。

 物語のなかの少年が物語のなかの窓の下を通る 私は頁をめくる…… 頁の翳で誰かがめざめる 扉をひらき鏡の奥の部屋から誰かが降りてくる…… 少年の過ぎ去つた跡を追つて誰かがわたしの窓の下を通る 私は夜をめくる…… (略) 輪のなかでわたしはねむれない……

 「物語」と「わたし」が融合する。「窓の下を通る」という「動作」(運動)によって「少年」と「わたし」が融合し、「頁」と「夜」が融合する。そして「ねむれない」。何かが融合するということは、実は、「わたし」の枠を越境して「めざめる」ことなのだ。「肉眼」「肉・耳」は「めざめる」ことしかできない。「ねむる」ことはできない。
 その体験を、田村は「物語」(紙上のことば)から体験している。「物語」はもしかすると「詩」かもしれない。「物語」と書かれているが、それは「ストーリー」ではなく、ストーリーを突き破ってあらわれる「詩」かもしれない。
 詩のことばによって、めざめ、ねむることができない田村--そういう「自画像」がここには描かれている。
 そう読んではいけないだろうか。

 「生きものに関する幻想」にも田村の「思想」の出発点というか、思想になろうとしていることばがうごめいている。

それは噴水
周囲から風は落ちて 水の音だけひびいてくる……
それは夜のひととき
誰もゐない……
わたしと星の対話
わたしと星のあひだには それでも生きものがゐて わたしを別のわたしにしたり 星の遠い時間に置きかへたりする生きものがいて……
それは噴水 生きものは孤独
生きものは わたしと星のあひだにゐて やつぱり孤独

 「あひだ」。「間」。「わたし」と「他者」、相いれないもの。それをたとえば「矛盾」と呼んでみる。「矛盾」の「間」には「生きもの」がいる。
 だからこそ、矛盾→止揚→発展という弁証法へと、田村のことばは動いていかないのだ。
 矛盾→相互破壊(解体)→いのちの原型(未分化のいのち)へと動く。「未分化のいのち」をくぐることで、「わたし」は「別のわたし」になる。たとえば「眼」は「肉眼」になり、「眼とは別」の機能を持つようになる。「眼」は「肉眼」となることで、「見る」ではなく「聞く」ということをしてしまう。
 そして、そのとき、そういう運動をしてしまう「生きもの」(いのち)は孤独である。なぜ、孤独か。「肉眼」は「眼」とはちがって、「聞く」。「肉・耳」は「耳」とはちがって「見る」。「肉眼」は一番親しいはずの「眼」と手を結ぶことができない。同じ仕事ができない。「肉・耳」も同じ。そういう状態を、田村は「孤独」と呼んでいる。
 その孤独は、田村の孤独と、声をかわす。互いに、その孤独を感じ取る。

生きものは わたしと星のあひだにゐて やつぱり孤独

 「未分化のいのち」は、それを発見されるのをただ待っている。だから、田村はそれを見つけにゆく。「矛盾」を叩き壊すことで。



エスケープのすすめ (1963年)

荒地出版社

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