おおつぼ栄「鎮花祭」、井崎外枝子「帰郷」(「笛」 248、2009年06月発行)
おおつぼ栄「鎮花祭」は、ことばの動き方がおもしろい。
かっこのなかのことば。それは前へ進んでいるのか。後戻りしているのか。それともとどまっているのか。(花の)は、花へ行きかけた視線が「節」にもどり、虫、葉っぱと花から離れていく感じがする。
視線と、意識がずれる。そのずれた意識が「記憶」になる。
その微妙な「間」へ風が花びらを運んできて、それが、庭の白い四角い空間を「手紙」のように見せる。庭を「手紙」のようだと思う。「手紙」は、ここにはない。しかし、「記憶」にはある。「手紙」を思い出しているのだ。
現実に、意識、記憶が交じり、そのせいで、この花見が、おおつぼ独自の花見になる。
ここで思い出されている人は、いまはいないのかもしれない。だから思い出すのは「その人」というよりも「時間」なのだ。
「春下がり」というのは奇妙なことばだが、そうとしか呼べない「時間」が、おおつぼにはあり、その「時間」のなかに(花の)ふぶき、(手紙の)記憶が重なるのだろう。青いインクで書かれた右下がりの文字。なつかしい恋なのだろう。
何度も繰り返したのかもしれない。何度も繰り返したいのだ。この花見を。ひとりで花を見ながら、恋人を思い出したいのだ。
(花の)(手紙の)(春下がりの)という、かっこに閉じられた「時間」が、透明に浮かび上がってくる詩だ。
*
井崎外枝子「帰郷」は帰郷してみたら、ふるさとはすっかり様子が変わっていた。「家」は記憶のなかにしかない。そして、その「記憶」が見えるのだ。それは現実を裏切って、目の前に存在する。
それは絶対に近づけない「距離」なのだ。記憶はいつでも頭の中にある。「肉体」のなかにある、ともいえる。それが「肉体」のなかにあるからこそ、「肉体」と「記憶」の距離は変わらず、永遠に近づかない。近づかないことによって、より生々しく見えてくる。たしかに、記憶とはそういうものかもしれない。
それは、「家」がそこに存在しないことを確かめることによって、より生々しくなる。
最後の「後ろ姿」がとても美しい。それは「ふるさと」から去っていく「後ろ姿」である。「家」が去っていく。そのときの「後ろ姿」である。それが、井崎には見える。
記憶は、生きている。生きているのが記憶と言うものなのだ。
おおつぼ栄「鎮花祭」は、ことばの動き方がおもしろい。
横に座る人の手から延びる
小枝の(花の)節 虫 葉っぱ
風が運んできた花びらが描く
白い四角い空間(手紙の)庭
かっこのなかのことば。それは前へ進んでいるのか。後戻りしているのか。それともとどまっているのか。(花の)は、花へ行きかけた視線が「節」にもどり、虫、葉っぱと花から離れていく感じがする。
視線と、意識がずれる。そのずれた意識が「記憶」になる。
その微妙な「間」へ風が花びらを運んできて、それが、庭の白い四角い空間を「手紙」のように見せる。庭を「手紙」のようだと思う。「手紙」は、ここにはない。しかし、「記憶」にはある。「手紙」を思い出しているのだ。
現実に、意識、記憶が交じり、そのせいで、この花見が、おおつぼ独自の花見になる。
フェンス越しの樹 時々突風 足の長い虫
花吹雪 羽根のひかる虫 花ふぶき
虫のみじろぎ 透明な花びらの陰 青い蜥蜴
山ぎわの昼下がり (春下がり)ぶら下がり
庭いちめん 花びらしきつめ
花を鎮める祈祷
身近に座る人の輪郭 体温 ひざ頭
延びてくる 密かな一体感
おずおずと手を小枝に沿わす(花の・
<左記へ移ります>穿たれた凹みの(手紙の・
右下がりの青いインク 尾の切れた蜥蜴
途切れて消えた時間を
喰っている なぞっている(春下がりの・
並んで座って
遠慮なくまとわりついて 無心に
ほてりをひろう
いずれまた 花の季節に
ここで思い出されている人は、いまはいないのかもしれない。だから思い出すのは「その人」というよりも「時間」なのだ。
「春下がり」というのは奇妙なことばだが、そうとしか呼べない「時間」が、おおつぼにはあり、その「時間」のなかに(花の)ふぶき、(手紙の)記憶が重なるのだろう。青いインクで書かれた右下がりの文字。なつかしい恋なのだろう。
何度も繰り返したのかもしれない。何度も繰り返したいのだ。この花見を。ひとりで花を見ながら、恋人を思い出したいのだ。
(花の)(手紙の)(春下がりの)という、かっこに閉じられた「時間」が、透明に浮かび上がってくる詩だ。
*
井崎外枝子「帰郷」は帰郷してみたら、ふるさとはすっかり様子が変わっていた。「家」は記憶のなかにしかない。そして、その「記憶」が見えるのだ。それは現実を裏切って、目の前に存在する。
帰郷というのだろうか、何年ぶりかの
だが、家は近づいてはこない
あんなにはっきり見えるというのに
それは絶対に近づけない「距離」なのだ。記憶はいつでも頭の中にある。「肉体」のなかにある、ともいえる。それが「肉体」のなかにあるからこそ、「肉体」と「記憶」の距離は変わらず、永遠に近づかない。近づかないことによって、より生々しく見えてくる。たしかに、記憶とはそういうものかもしれない。
それは、「家」がそこに存在しないことを確かめることによって、より生々しくなる。
帰郷というのだろうか、それでも
立ち木には見覚えがあり、湿った苔の
においも纏わりついてくるというのに
ああ、ここまでなのだ
戻るしかないのか。下の道へ
途中で振り返ってみると
家は、前よりもはっきりと
その後ろ姿を見せているではない
最後の「後ろ姿」がとても美しい。それは「ふるさと」から去っていく「後ろ姿」である。「家」が去っていく。そのときの「後ろ姿」である。それが、井崎には見える。
記憶は、生きている。生きているのが記憶と言うものなのだ。
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