詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

誰も書かなかった西脇順三郎(4) 

2009-06-19 07:13:06 | 誰も書かなかった西脇順三郎




コク・テール作りはみすぼらしい銅銭振りで
あるがギリシヤの調合は黄金の音がする。
「灰色の菫」というバーへ行つてみたまへ。
バコスの血とニムフの新しい涙が混合されて
暗黒の不滅の生命が泡をふき
車輪のやうに大きなヒラメと共に薫る。

 西脇の耳は私にはモーツァルトの耳のように楽しい。濁音というのは濁るという文字をあてるくらいだから「清らか」なものではないのだろうけれど、西脇の濁音はどれも楽しい。とても豊かな感じがする。それも、「耳」と書いたけれど、実際は「のど」が感じる豊かさである。思わず声が出てしまう。
 濁音をはっするとき、他人はどうかわからないが、私は「のど」がひらく。ひらく印象がある。そして、声帯がゆっくり震える感じがする。そのときの快感が西脇のことばにはある。
 1行目、2行目の、「意味」の渡り、そのリズムと、音階(?)の変化も好きである。
 「銅銭振りであるが」とつづけて読んだとき(改行、行の渡りがないとき)、「で」は私の場合、弱音である。そして「で」と「あ」は連続して「1音」に近くなる。フランス語の「リエゾン」とは逆の、つまり間に子音がはいらなず、音が崩れていく感じ、一種の二重母音のような感じになる。「で」と「あ」は同じ音階か「あ」の方が半音下がる。
 ところが、「銅銭振りで/あるが」の場合は、「で」は文末でかなり強い音になる。「あ」はさらに強くなる。そして、「で」の音を音楽でいう「ド」だとすると、「あ」は「レ」のように音階が高くなる。(私は関西圏の高低アクセントなので、標準語、東京圏、その他の地方のアクセントとは「音階」が違うかもしれない。)
 この変化があるので「あるが」の「が」と「ギシリヤ」の「ギ」の濁音の連続、が行の鼻濁音と濁音の動き、連続と断絶も楽しくてしようがない。「調合」「黄金」の鼻濁音の連続の前の「ギリシヤ」の「ギ」の破裂する音の感じが美しいアクセントになる。
 そして、濁音をたっぷり楽しんだそのあと、「灰色の菫」というなめらかな音をはさみ、もう一度「バー」という濁音が出てくるタイミングも楽しくてしようがない。
 濁音にはさまれることで「灰色の菫」という音が、完璧に異質のものとして輝く。「清音」もいいものだなあ、とうっとりしてしまう。


アムバルワリア―旅人かへらず (講談社文芸文庫)
西脇 順三郎
講談社

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すみくらまりこ『夢紡ぐ女(ひと)』

2009-06-19 00:08:38 | 詩集
すみくらまりこ『夢紡ぐ女(ひと)』(2009年05月20日発行)

 すみくらまりこ『夢紡ぐ女(ひと)』はすべて5行で構成されている。一種の定型詩である。ことばで何かを切り開いてゆくというより、ことばをとりまとめて、いまある世界を描写するということになる。「つむぐ」ということばが象徴的だが、すみくらせ、ことばをつむいでいるのだ。その、とありつめることばが、私には、「美しすぎる」。美しすぎて、1篇読むと、全部読んだ気持ちになってしまう。どこまで読んでも美しいままなんだろうなあ、という不満が、読む前から予兆のようにひろがってしまう。
 1篇だけ感想を書く。「夜風」。ここでは、「定型」が「定型」のまま崩れている。そこが、私にはおもしろかった。

海の上は空、
静かに星騒ぎ
密かに魚遊ぶ。
そして、
雲生(な)さんと夜風。

 「そして」。5行という定型のために挿入された1行である。省略しても「意味」は同じである。この1行がない方が、ことばの緊密度は高まったかもしれない。海と空の対比。「上」ということばがあるので、暗黙の内に「下」を含む。意識の奥で、「下」ということばがかってに動く。そして、そこから「上下」という「矛盾」が動きはじめる。
 「静か」と「騒ぐ」。2行目の対比が美しいのは、1行目に、隠された対比があるからだ。
 そういう動きを受けて、「密か」が効果的にひびく。「密かに」は2行目の「静かに」と同じ意味というか、「静かに」を別のことばを重ねることで意味をふくらませたものだが、そのふくらみが「騒ぐ」と「遊ぶ」をも重ね合わせる。「星」と「魚」という語に引っぱられると、「騒ぐ」「遊ぶ」は違ったことばのように見えるけれど、たとえば、「子どもが騒ぐ」「子どもが遊ぶ」では、「騒ぐ」「遊ぶ」に似通ったものである。「草が(木の葉が)風に騒ぐ」「草が風に遊ぶ」と、ことばを動かしてみれば、その重なりあいがわかるだろう。
 「定型」が呼び込んだ、ことばの美しい動きである。
 そして、4行目に「そして、」である。--これは「呼吸」である。1行目から3行目まで、ことばの連絡の仕方が、他の作品に比べると緊密すぎる。緊密になりすぎた。そのために、一息つくことが必要になったのだ。一種の「ほころび」(詩集のタイトルに「つむぐ」ということばがあるから書いているわけではないのだけれど……)である。「ほころび」であるけれど、この部分が、この1行が、私は一番好きだ。
 無意味だ。無意味だけれど、それが無意味であるだけに、そこに「肉体」が現れてくる。というか、その無意味を通過することで、次の行が初めて生まれる。

雲を生さんと夜風。

 主語は「夜風」。それは「騒ぐ」なのか。それとも「遊ぶ」なのか。どちらの世界と重なろうとするのだろうか。--その予想を裏切るように「生む」(なす)へと動詞を破っていく。
 これは、おもしろい。とてもおもしろい。
 騒ぐ子ども。遊ぶ草。「騒ぐ」「遊ぶ」は何を生み出そうとしているのか。強引に言えば「こころ」(精神)だろう。まだ形になっていな「こころ・精神」--それが、ある形になるまでの猶予期間。そのときの動きが「騒ぐ」「遊ぶ」なのだ。そして、その「猶予」と「そして、」という「息継ぎ」(呼吸)が重なることで、そこらかエネルギーをえて、「生む」ということばが噴出してくる。「騒ぐ」「遊ぶ」が「生む」に飛躍する。

 そして、その動きを受けて、空、海という「上下」の「あいだ」に「雲」が誕生する。「あいだ」(間)が、雲によって動きはじめる。存在しなかったものが生み出され、動きはじめる。--ここにうごめいている「哲学」がおもしろい。

 この作品には漢詩の「対句」の嗜好(?)も反映しているようだけれど、それもとてもいい。漢文体というは日本語の大切な財産だが、最近はとても少なくなっている。漢文体に触れると、気持ちがひきしまる、精神を洗い流されるという印象を受けるのは、私だけだろうか。



夢紡ぐ女―すみくらまりこ詩集
すみくら まりこ
竹林館

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