詩はどこにあるか(谷内修三の読書日記)

日々、読んだ本の感想。ときには映画の感想も。

安水稔和「九階南病棟 五章」、豊原清明「歯医者につきそうシンとジン」

2009-06-05 11:14:10 | 詩(雑誌・同人誌)
安水稔和「九階南病棟 五章」、豊原清明「歯医者につきそうシンとジン」(「火曜日」98、2009年05月31日発行)

 安水稔和「九階南病棟 五章」はタイトルどおり病院に入院したときの様子を描いたものだろう。短いことばで書かれているのだが、そのことばの少なさゆえに、病気のときの「わたし」の感覚のゆらぎが、手に触れるようにせまってくる。
 「ねる」の書き出し。

ねいき
かすかに

あれはわたしではない
わたしは

やみのなか
たしかめている

 「たしかめている」ということばの確かさ。「たしかめ」ることで「わたし」が「ふたり」になる。「病気のわたし」「病気であることを知るわたし」。この切断と接続が、ことばが少ないだけに、とても大切な「接点」、生きる手がかりのようにせまってくる。
 切断と接続は、つぎのような形もとる。

わたしはここにいるが
わたしはここにいるか

 「が」と「か」の違い。それは文字にすると「濁点」があるかないかだけの違いだけれど、こころは、その違いのあいだを大きく動いている。「間」を小さくしたために、こころの動きが大きくなるのか、それともほんとうにその「間」は大きくて、その大きさを測るには確実になじんだことば以外は無効なのか。たぶん、後者だろう。
 あらゆる新しいできごとを正確にとらえるには、つかいなれたことばで、ていねいに測る必要があるのだ。いま、「わたし」が生きている「場」、「わたし」と「世界」との「間」を正確にとらえるのは、新しいことばではなく、いつもつかいつづけていることばなのだ。
 「みる」という章もとてもいい。

みつめると
うごかない

じっとみつめると
じわりうごく

じわりにじんで
こころがうごく

 「じわりうごく」が1行あきのあと、「じわりにじんで/こころがうごく」にかわる。「にじんで」「こころ」がが、「じわりうごく」という短いことばを、ゆっくりと押し広げる。「じわり」「にじんで」の「じ」の繰り返しと、第一音節から第二音節への移行が、しずかに「こころ」を呼び込む。
 このリズムがとても自然で、とても切実だ。
 そして、その音楽は「じっとみつめると」の「じっと」からはじまっている。

 「こころ」を呼び込んだあと、ことばは、さらに動いていく。「間」がさらに押し広げられ、いのちの揺れが大きくなる。

みれば
ひとつ
もういちどみれば
ふたつ

ひとつが
ふたつで
ふたつが
ひとつ

みているわたしが
ひとり
それとも
ふたり

 病気をするということは、たしかに「ひとり」が「ふたり」になることなのかもしれない。
 その切断と接続を、どう生きていくか。



 豊原清明「歯医者につきそうシンとジン」も「ひとり」と「ふたり」の関係を生きている。豊原と、豊原について考える豊原。その豊原について考える豊原の「肉体」のなかにはさらに「シンとジン」がいる。その「ふたり」は「ふたり」であっても「ひとり」。そしてそれは、豊原と父との関係にも似ているのかもしれない。いくつもの「ひとり」と「ふたり」が豊原の切断と接続をつくりだしている。

その子のカバンの中から
僕の妖精の シン と ジンが
飛んできて 僕の肩に乗った
おもしろう おかしいきみ
三歳の頃から
こうしてバスを待っていたよね
ボクは何とも思わないケド
おもろう おかしい
三十一歳の今も虫歯だらけなんて
歯医者にいかない年がないなんて
今年 君は三十二歳
お父さんも老いてしまった
ネ。
さむいなあ
さみしいなー

 「おもしろう」「おかしい」、「おもろう」「おかしい」。それは「さむいなあ/さみしいなー」という形へとかわっていく。そこには「ボク」と「君」がいる。「僕」のなかの「ボク」と「きみ」。
 「さむいなあ/さみしいなー」と書きながら、しかし、豊原はセンチメンタルに陥らない。そこに豊原の美しさがある。
 詩のつづき。

何処へ行こう
歯、抜けて
帰ってきて君はモチを焼く
笑おう 笑おうやないか
幼稚園の友達
あの子も虫歯になったけど
あの子はパイロットになったのさ
僕は地面でまえのめり
今日も宇宙にひとがいる

 「笑おう/笑おうやないか」を通り抜け、「宇宙」に広がっていく。
 豊原の「間」、その切断と接続は、自在に宇宙をとらえてしまう。とても気持ちがいい。


安水稔和詩集 (1969年) (現代詩文庫〈21〉)
安水 稔和
思潮社

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『田村隆一全詩集』を読む(106 )

2009-06-05 01:00:34 | 田村隆一

 「館(やかた)」という詩には魅力的な逆説がある。矛盾がある。

昼間は素顔の女たち
赤裸の心に皮膚をまとって検診を待っている女たち
けだるい表情 白昼夢の中で呼吸している娼婦
身ぶり手ぶりまでモノクロの世界
これに彩色するのが小男の聖なる仕事
油彩だけで百点以上
『ムーラン街のサロン』はその代表作
夕暮れがせまってくると
女たちは裸体の皮膚をはぎとって
人工の織物 獣性の香水 顔には仮面をつけて

 「皮膚」のかわりの「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」。それが人間を「裸」にする。「皮膚」の下に存在する「肉・体」を引き出す。「肉体」になるために「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」が必要なのだ。「裸体の皮膚」に「体」がつつまれているときは、それはまだ「肉体」ではないのだ。
 そして、男たちは、「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」に出会うことで、「肉体」に出会う。それをはぎ取ったら「肉体」があるのではなく、「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」が「肉・体」なのである。だからロートレックは、「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」をつけた女たちを描くのだ。

心は水平軸 たえず左右に移動する
魂は垂直軸 とっくの昔に失ったはずの魂が
娼婦たちを聖地にのぼりつめらせ
その瞬間 異神の地獄へ突き落とす

 左右へ移動することが垂直に動くこと。聖地へのぼりつめることが地獄へ落ちること。それは切り離せない。対立したもの、「矛・盾」したものは、かたく結びつくことで「真実」になる。
 「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」をまとうこと、それが裸とかたく密着することで、「肉・体」が誕生するように。
 この真実を、田村は「人間性」と呼んでいる。

「絵描きのアンリさん」
「コーヒー沸かしのアンリさん」
小男は女たちにニックネームをつけられても
彼の白熱した目は
女たちの人間性という血肉の線を見逃さない

この世の外(そと)に
小男の王国はあったのだ

 「小男の王国」とはもちろん「絵」である。それはそして、「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」が「肉・体」であるという「王国」でもある。それは「この世の外」である。ロートレックが生まれ育った「家庭」の「外」であるだけではなく、女たちが「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」をまとっている「世界の外」でもある。「人工の織物」「獣性の香水」「仮面」が「肉・体」が世界であると同時に、それは「外」でもあるのだ。娼婦たちの「肉体」とぴったり重なる「絵」--世界は、「内」と「外」がかたく結びついて、「ひとつ」になっている。

 内は外。外は内。--この矛盾こそがロートレックである。そしてそれは、同時に、田村でもある。




靴をはいた青空〈3〉―詩人達のファンタジー (1981年)
田村 隆一,岸田 衿子,鈴木 志郎康,岸田 今日子,矢川 澄子,伊藤 比呂美
出帆新社

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